〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
教会の使命・・・それは霊的戦い!

そして、「すべての聖徒のために祈れ。」となっています。教会はキリストのからだです。大きなファミリーです。お隣の方は、すべての聖徒のお一人です。お互いのためにとりなして祈りなさいと告げています。

土曜日の朝六時から、早天祈祷会があるのですが、早天祈祷会の時、毎回、必ず行っていることがあります。それは、「祈りのカード」が配られ、祈る事です。その内容は何かというと、新城教会に属している方々のすべて、また、その関係者の名前が記されたカードです。皆さんのことは、週に一度、必ず覚えられ、読み上げられ、祈られています。
私は早天祈祷会に、毎週、出席しているのですが、カードを受け取る時は結構責任があると思っています。祈りのカードを受け取る前に、私は祈ります。「今日私が祈らなければならない兄弟姉妹のカードを手にしますように」と。並べられているカードですが、「主よ、私の担当はどれですか。」と祈りながら受け取ります。すると重要なテーマのカードを毎回、昨日もそうでしたが、受け取る事が出来ます。

「忍耐の限りを尽くして祈れ。」とあります。時に、様々な問題で、諦めたいと思う時があります。私も何度もそのような気持ちになりました。「何年も続けて、何度も祈ったけれど、うまくいかなかった・・、疲れた・・。」と思うかもしれません。そんな時にも、忍耐の限りを尽くして、諦めずに祈れという勧めです。

それでも駄目だった・・。しかし、「それでもまた、祈れ。」とパウロは勧めました。これは祈りがどのぐらい重要で、祈りによってのみ、高次元にまで及ぶ悪魔の策略を打ち破られるのかを意味します。聖霊さまは、多方面から、私たちに様々な祈りを与えて戦わせ、勝利に導こうとされます。
霊的戦い、それは、一言で言えば、「祈りの戦い」なのです。今週は特に、祈り深くあっていただきたいと思います。話を聞いてそれをスルーするのか、受け止めるのかは、あなた次第ですが、案外、神の時が関わっている場合が多いです。
聖霊に頼って祈る時、そのことがなされると信じます。

ペテロは、ペテロの手紙 第一 五章八〜九節で脅しのような言葉を語っています。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

誰にでも試練はあります。しかし、そこから抜け出すためには何が必要なのか、それが「霊的戦い」です。ペテロは、悪魔・悪霊どもは獅子のような存在だと告げています。初代教会の人たちは、ペテロの言いたいことが、よくわかっていたのです。なぜなら「迫害と殉教」が常であったからです。初代教会のクリスチャンたちは日々、ライオンの檻に仲間が放り込まれるのを目撃していました。ゆえにペテロの言葉は決して、脅しではなく、現実でした。
もしも、私たちの周りをライオンがウロウロしていたらどうですか。相当、緊張し、注意するのではないでしょうか。霊的には同じなのです。
しかし感謝な事に、悪魔には立ち向いさえすれば、勝利できるのです。無視していても駄目です。祈りによって、立ち向かう時、勝利が来るのです。

先ほど、私の家に土曜日になると、少年たちが来ると話しました。今朝の朝食は、彼らと「すき家」に行ったのですが、彼らは朝から子ども牛丼を食べていました。しかし、必ず、彼らと一緒に、どこかに祈りに行く事にしています。
先週、祈りに行った時のことです。彼らは霊的に敏感で、祈ると、聖霊さまの声を聞くようです。「何か、言われた?」と聞くと、テルが、「あっ!びっくりした!」と言うのです。「何をびっくりしたの?」と聞くと、イエスさまが「おまえを毎週、順先生の家に泊まらせているのには理由がある。それは、おまえに祈りを教えたいからだ。」と言われたからでした。
彼らはなぜ、私の家に来るのかと言ったら、自由にゲームができるから来るのです。しかし、主は、「おまえに祈りを教えたいからだ。」と語られたのです。彼はそのことを語られてから、毎晩、寝る前に両親の所に行って、「祈らせていただきます。」と言って、祈っているらしいです。「先週、祈ったか?」と聞いたら、「ああ、祈ったよ。」と言っていました。
彼らは祈りが楽しみになったみたいです。孫のかっつーも、「イエスさまが早く帰ってくるように、ばぁばと一緒に帰ってくるように祈れって言われた!」と言って、真剣に祈っていました。ゲームをやっている時とは大違いです。

昨日もある場所に、彼らと祈りに行きました。

今週の霊的戦い専門課程の為に、私は新しいテーマを求めて祈っていました。今日の午後、ダイジェストで少しお話ししますが、本編をお聞きになりたい方は、ぜひ登録していただきたいと思います。
先週、一冊の本が目に留まって、英語の本ですが、それを少し読みました。
「Binding Strongman over America and the Nations」という本です。どういう意味かというと、「アメリカ全体、そして世界の国々を縛っている強いもの」という本ですが、ここで述べられている中心は、マタイの福音書の十二章です。

群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」

これはベルゼブル論争と呼ばれる箇所ですが、どういう意味かと言うと、当時のユダヤ人たちはメシヤ・キリストが来られるのを待ち望んでいました。メシヤの一つのしるしは、悪霊を追い出してくださる方であると信じられていました。当時のユダヤ教も、悪霊追い出しは肯定していました。しかし、悪霊を追い出すには、悪霊の名前を特定したら追い出せると考えていました。
しかしイエスさまは、名前を特定しないで悪霊を追い出し、奇跡をなしたのです。それで群衆は皆、「この人はメシヤに違いない!」と興奮したのです。
一方、パリサイ人たちは、イエスさまを認めたくありませんでした。それで、イエスが悪霊を追い出したのは、悪霊どものかしら、ベルゼブルによるものだと言ったわけです。悪霊どもの親分の名前は「ベルゼブル」です。

少年たちに、ベルゼブルの名前を教えたのですが、何回教えても覚えないのです。小学二年生、大丈夫かな?と思いましたが、ベルゼブルです。

パリサイ人たちは、イエスという人物は、ベルゼブルにとりつかれているから、ペルゼブルの力で、子分どもを追い出しているのだと。ゆえに、悪霊の名前なんか特定しなくても追い出せるんだと言う論法です。

その時、イエスさまは何と言われたのかと言うと、

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。(マタイの福音書 十二章二十八~二十九節)

『悪霊が追い出されるのは、「神の国が到来している証拠だ」と語りました。この世は、「神の国と悪魔の国の対立」です。神の国が悪魔の国に攻め込んだ結果、悪霊は追い出される。悪霊が出て行くのは、神の国が到来している証拠なのです。』

一九九二年、新城教会で霊的戦いが始まって、悪霊が追い出される現象が起こり始めました。多くの人たちが、それを見て「なんじゃこりゃ!」と恐れました。しかし、なんじゃこりゃではないのです。神の国の現れそのものなのです。
イスラエルにイエスさまを通して、神の国が到来したのですが、びびって受け入れることが出来ませんでした。聖書に約束されていても、本物が到来したら、びびって、イエスさまを追い出してしまったわけです。チャンスを逃したのです。

イエスさまが語られた、『強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。』とはなんでしょうか。強い者とは誰でしょう。

強い者とは「ベルゼブル」です。これをやっつけない限り、戦いには勝利できないということです。
先ほど紹介した本は、強いものを縛り上げない限り、地球は問題だらけだと。教会は強いものを意識して、これと戦わないといけない!と述べているのです。

強い者、ベルゼブルは、バアルという、カナンの地に多く存在した偶像を背景としていました。これはエクロンという所の、いやしの神(はえの神)と混合して、「バアル・セブブ」と呼ばれていたのが訛って、「ベルゼブル」となったらしいです。それが強い者だというのです。
当時のカナンを席巻していたのは、バアル礼拝でした。偶像の写真を出すのは嫌ですが、戦いのために見て下さい。

これはカナンの土偶で、女性神でした。エジプトの太陽神とも融合していました。この本によると、バアル神はアメリカにまで持ち込まれている証拠があるというのです。
私は何年か前、ジョー先生と一緒に、アメリカにとりなしに行ったことがあるのですが、その本の主張に同意します。バベルの塔から強い者は世界中に流出したのです。日本にも、アメリカにも、南米にも、根底に、ストロングマンが潜んでいます。それが世界を牛耳っているのです。悪魔・悪霊どもにはヒエラルキー、組織があります。悪魔の下で、悪霊どもの組織のトップに君臨しているのが強いもの、ベルゼブルです。またの名をバアルといいます。
日本の土偶を見てください。

縄文の土偶と、カナンの土偶、同じです。同じ世界観で、拡散したのです。日本の土偶の内、特に意匠的に作られたのが、有名な「アラハバキ」です。

実は新城で、なぜ、霊的戦いが始まったのかには、理由があります。カナンの土偶は、日本では縄文の土偶となって、アラハバキという名に変わったのです。
少年たちに、「ベルゼブブ、バアル、アラハバキ」と教えました。「言ってみろ!」と言うと、「バアル。あとは忘れた・・。」みたいで、今日は、覚えているのかどうかわかりませんが、「ベルゼブル、バアル、日本ではアラハバキ」です。
新城市は、特殊な町です。家に帰ったら、地名を検索してほしいのですが、アラハバキという土偶は地名に残っていて、それは「荒神(アラガミ)」と言う地名です。特に、アラハバキが真剣に拝まれていた場所を、「アラガミ場」と呼んだらしいのです。「荒神場(こうじんば)」とも呼ばれます。日本中の地名に検索をかけると、「荒神」という地名は多くあります。しかし、「荒神場」という地名が出るのは、新城市だけです。全国に五カ所だけあって、四カ所が新城市、一箇所だけ、「金沢町荒神場」は豊川市にあります。しかしそこは、新城市と豊川市との境界線上です。
新城教会は荒神場に囲まれています。なぜ、新城で霊的戦いが始まったのか、これを見て、私は納得しました。強い者を縛らないと、何もうまくいかないぞ!とイエスさまは言われましたが、日本中で最も色濃く、古代の強い者が反映されているのが新城市だからです。
そういう意味でも、私たちの教会には使命があると思われます。

昨日、少年たちと、「富永荒神場」にとりなしに行きました。新城教会の北です。彼らは、「おぉ!つえぇやつがいやがる!」とか言って、真剣に、「二度と出てくるな!」と叫んで戦い、祈っていました。
そうしたらテルが、アラハバキは、ドラえもんにも登場していたと言うのです。「こいつは腕が取れても、どこかが壊れても、すぐに再生しちゃうキャラクターだった」というのです。それで彼らは「二度と再生するな!」と宣言して祈りました。
私たちが霊的視点で街を見る時、教会に与えられた使命は大きなものである事が理解できます。塩原宣言にあるように、宣教は霊的戦いそのものだという意識を持たないと、どんどん教会は衰退し、社会はさらに荒れ果てて行くと思われます。この時にこそ、霊的戦いに目覚めて、立ち上がりたいと願います。