2023年10月1日(日)新城教会主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙 6章10~12節(第三版)
『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』
ハレルヤ!
ヘブンリーキングダムの賛美、素晴らしかったです。今日の彼らの歌声が、彼らの実力です。なぜなら今日はカラオケも使っていなかったし、事前に録音した音も流していませんでした。演奏は石塚さんのピアノだけでした。継続は力なりですね。安定した素晴らしい賛美を聞くことができて感謝です。
もう十月ですね。まだまだ暑さが残っている感じですが、あっという間に月日が過ぎています。この十月、主に期待して歩んでいきたいですね。
今日は聖餐式礼拝です。聖餐式は天と地が重なる重要な一時ですから、期待しましょう。
本日の聖書箇所は、先週と同じで、継続してお話させていただきます。教会の使命、それは霊的な戦い!と、前回もお話ししましたけれど、今日は「パートⅡ」です。
その前に、心からの感謝を申し上げます。先週は「霊的戦い専門課程」もありましたが、同時に、娘が第四子を出産するということで、それも帝王切開で、ちょっぴり不安もありましたけれど、祈りによって、無事に出産できて心から感謝致します。母子ともに大変元気です。
名前は「歓(かん)」です。男の名前か、女の名前かわからない感じですが、女の子です。歓声の歓です。喜びがあふれる時代が来るように、心から祈っています。
家内の母親は、家内が天国に行ったことによって、イエスさまを信じて、一緒に祈るようになりました。九十才近くて、長いこと仏教をやっていましたから、「享子の生まれ変わりだ!」みたいなことを言っていました。しかし、そんなことはないです。絶対に生まれ変わりはないです。神さまは、人のいのちをリサイクルするような、みみっちい方ではありません。
歓ちゃんはどう見ても、かっつーですね。全く同じ顔をしています。享子はどこにもいませんよ。
神さまが新しい命を創造してくださったのです。私たちは永遠のいのちで生きることができます。期待を持って毎日を歩みたいと願っています。
先週、イスラエルでは、年間での最大イベント、ユダヤ教の祭りがありました。日曜日の夕刻から、月曜日の夕刻にかけてでした。それは、「ヨム・キプール、大贖罪の日」と呼ばれる祭りでした。
嘆きの壁の前にユダヤ人たちが、こんなにも大勢集まっているという報道がありました。
イスラエルに行きますと、超正統派のユダヤ教徒は、そんなに多くはいません。結構、リベラルの人たちも多い国です。しかしヨム・キプールは、どんな人でも、断食して神の前に出ます。この日だけは特別な日として、真剣になるのです。
ヨム・キプールとは何か、それはレビ記の中に出て来ます。レビ記十六章八〜十節、
雄やぎ二匹のためにアロンがくじを引く。一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
アロンは主のためのくじに当たった雄やぎを連れて来て、それを罪のきよめのささげ物とする。
アザゼルのためのくじに当たった雄やぎは、主の前に生きたままで立たせる。これは、それの上で宥めを行い、荒野のアザゼルのもとへ追いやるためである。
ヨム・キプールとは、「悔い改めの日」です。ヨム・キプールには、皆、断食をして神の前に出て、罪を悔い改めます。
そして、悔い改めとは何かについて、レビ記十六章には記されています。人は罪を犯すと、「悔い改めなくちゃ・・。」という思いが、自然に湧いてきます。
時々、凶悪犯人が逮捕されて、その後、裁判が行われ、裁判の模様が報道されます。先日も、大勢の人たちを殺害した凶悪犯人が裁判の日に、「本当に申し訳なかった‥。やらなければ良かった‥。」と、悔い改めの弁を述べていました。あれは本能的なものです。人間って、弱いですから、罪を犯してしまうのですが、「罪を赦してもらいたい。悔い改めたい・・。」と思うのです。
これは究極的には、天地宇宙を造られた神に対しての気持ちです。
聖書が教える悔い改めとは何か、それがレビ記十六章に述べられています。
この日には、二頭のやぎが用意されました。祭司がくじを引いて、一頭は主のための生贄とし、もう一頭は、アザゼルへの生贄となりました。
今回の新改訳2017では、アザゼルの部分の表現が少し変わりました。「荒野のアザゼルのもとへ追いやるためである。」(第三版:アザゼルとして荒野に放つ)となっています。今まで、アザゼルが確定されず、少しボケていたのですが、研究が進んで、アザゼルとは一つの「存在」だとはっきりしたから、このような訳になったと思われます。
アザゼルとは何か、それは悪魔の名称でした。悪魔は荒野に住んでいて、罪の赦しのためには、悪魔にも生け贄を差し出さないと贖われない!と、古代イスラエルでは信じられていたわけです。
悔い改めとは、神の前に赦しを乞うだけでなく、罪とは悪魔との契約であり、悪魔と結ばれた契約を解かないと赦しは成立しないのです。そのためには、アザゼルのための生贄を荒野に放り出したわけです。
悔い改めとは、神に対するものだけでなく、悪魔と結ばれた契約を解くことも含まれます。
これを両面から実現してくださったのが、イエスさまです。神が人となって地上に来られて、ご自分を神への生贄とし、同時に、アザゼルのやぎとして、悪魔と結ばれた契約を無効にしてくださったのです。
新約聖書にその事実が記されています。コロサイ人への手紙二章十三〜十五節、
『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』
コロサイ人への手紙二章は、レビ記十六章を基礎としています。
イエスさまは地上に来て、十字架にかかって死んでくださいました。一般的には「私の罪の身代わりとなって」という理解ですが、それは、片手落ちです。
もう一つ重要なのは、私たちを責め立てている債務証書を無効にしてくださった、という側面です。その根拠となるのが、レビ記十六章のヨム・キプールの二頭のヤギの意味です。
イエスさまが私たちの身代わりとなってくださったことによって、罪は赦され、債務証書も無効とされたのです。アザゼル、すなわち悪魔と結ばれた債務証書は無効になったのです。その結果、『すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と続いています。
この箇所は、エペソ人への手紙六章十〜十二節と関連しています。
『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』
私たちの生活は、霊的戦いそのものです。霊的世界で敗北すれば、地上の生活も敗北しますし、霊的世界で勝利すれば、地上でも勝利できるのです。それは目に見えない、霊的戦いです。パウロは遺言のように、『終わりに言います。』と、最も大切なこととして語りました。
戦いは、『主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』と語りました。この表現は、悪魔の持っている組織を現しています。悪魔は自分の配下を組織的に動員して、攻撃を仕掛けるわけです。この事実を知らないと、様々なことに対応し、勝利することはできません。
私もこの数年、様々な試練に遭いました。しかし霊的戦いに気づいていてよかったと、本当に感謝しています。もしも知らなかったら、今頃どうなっていたのかわかりません。
悪魔の組織に打ち勝ってくださったのが、イエスさまです。十字架の死によって、債務証書を無効にされ、すべての支配と権威の武装を解除されました。
悪魔・悪霊どもは武器を持っています。様々な武器で私たちを攻撃します。しかしイエスさまは、十字架において、悪魔の武器を全て、武装解除してくださった!と述べています。
「彼ら」とは、「すべての支配と権威」です。悪霊どもの組織です。組織を解体し、捕虜として、凱旋の行列に加えてくださったのです。それは完全勝利です。
聖書の記述をどう理解するのかで結果が変わります。聖書は、二千年も前に記された書物ですが、すべての人類に対しての宣言です。しかし私たちが、救いについて理解するまでは、救いを実際に受け取ることはできませんでした。知らなければ、永遠の滅びに向かっていたのです。知るか知らないかは、大きな違いです。霊的戦いも、結局のところ、気づくか気づかないか、知るか、知らないかの戦いです。
現代の教会においては、悔い改めは神さまにだけ!みたいな教えが強いです。難しい言葉で言うと「贖罪論」に関してです。
紀元一〇〇〇年ぐらいまでの教会の贖罪論は、この両面を扱っていました。しかし、紀元一〇〇〇年ぐらいから、一方がかけ落ち、アザゼルのやぎが消えて現代に至っています。
一九九二年、霊的戦いが始まり、かけ落ちていた領域に光を当てて下さいました。
『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』(コリント人への手紙 第一 十章十三節)
誰にでも試練はあります。イエスさまだって試練に満ちた人生を送られました。弟子たちも試練の連続でした。クリスチャンになったら試練はなくなるとは限らないわけです。やはり様々な戦いがあります。それらと戦い、勝ち取っていくのが人生です。
しかし試練とともに、脱出の道が用意されていると約束されています。その条件について、「ですから」とつないで説明しています。
『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。』
と注意喚起されています。偶像礼拝を避けることが、脱出への道につながる条件です。
日本社会で、偶像礼拝から離れるのは大変なことです。社会全体が偶像礼拝を基盤として成り立っているからです。ほとんどの人は、偶像の神々が神だなんて、信じていないです。
しかし秋になれば祭りに行き、酒を飲んで騒ぐわけです。また、彼岸になれば墓場に先祖を拝みに行きます。その行動について、深くは考えていません。ただ習慣として、盲目的、自動的に行っているだけです。なぜなら、社会そのものが、そのようなサイクルで出来上がっているからです。国の土台が偶像礼拝であるゆえに、深く考えなくても、そのまま悪魔・悪霊どもに支配され、敵の思うがままにされてしまうのです。それが日本の偶像礼拝の怖いところです。
試練があっても、脱出の道を備えてもらうためには、偶像礼拝からきっぱり離れろ!と勧めています。
新城教会は、今年で七十年の歴史です。父がこの地域に入ってきた頃、この地域は、今以上に偶像礼拝でこり固まっていました。ですから、地域に伝道するとかいうレベルではありませんでした。この地域に住んでサバイバルするのが精一杯でした。
しかし初期のクリスチャンたちは、激しい戦いの中、本当に頑張って下さいました。今では変わってきましたが、当時の隣組組織は、全て偶像礼拝を維持するための装置でした。神社の寄付だとか、祭りの費用等、全て自動的に徴収され、使われるのです。それって、おかしいじゃないですか。それが当然で、寄り合いがあれば、男たちは酒を飲んで騒ぐのが普通でした。祭りなんかになれば、酔っ払って腰抜かすのが常でした。
しかし信仰の先輩たちは、そのような中、「偶像礼拝はしません!祭りにも協力しません!寄付もしません!酒も飲みません!」と、はっきりと宣言したのです。すると村人たちに押さえつけられて、強制的に口を開けられて、酒を入れられたりもしました。それでも吐き出して戦ったのです。教会は住民と戦ってばかりで、地域の宣教どころではありませんでした。
しかし七十年経って、偶像礼拝と戦った結果として、こうして教会に人々が集まっています。
一九六〇年代、そんな厳しい戦いのただ中に、若者たちに聖霊が注がれたのです。
その頃、彼らは都会に出て行こうと準備していました。けれども聖霊は、「都会に行くな!田舎に行って教会を建てろ!」と命令されたのです。
いつも話していますけれど、新城教会から聖霊によって派遣され、三つの教会ができました。
いずれも山の中の教会です。設楽教会、東栄教会、そして北遠教会の三つの教会が、純粋に聖霊によって生み出されました。