〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
教会の使命・・・それは霊的戦い!パートⅡ

先日、「三つの教会のために祈りましょう!そして献げましょう!」とおすすめしましたけれど、いやぁ、びっくりしました。本当に多くの献げものがありました。
記念すべき七十周年、何をしたらいいのか?と祈っていましたけれど、自分たちの教会を修理するとかではなく、最初にできた三つの教会を支援しなさい!と主任牧師である私に語って下さったような気がします。
なぜなら、この辺の歴史を知っているのは、今はあまり多くはないからです。
この三つの教会ができなければ、リバイバルミッションもありません。県民の森は父と三つの教会の牧師たちがミーティングするのに都合がいいから、使われていました。
それが発端となって、日本リバイバルクルセードが発足し、甲子園ミッションにまでつながりました。その準備中に、県民の森で祈っている時に私たちに聖霊が注がれて、霊的戦いが始まったのです。
一九六〇年代の若者たちが聖霊の声に従い、田舎に教会を建てなければ、今の新城教会はありません。それを、後の日になって、知るわけです。

来週の日曜日私は、設楽教会に呼ばれています。別にメッセージを語るわけではないのですが、先日お話しした、副市長に出会った牧師先生が設楽教会に来られるから、「母教会から来て、設楽教会の祝福を祈って下さい。」と頼まれましたので行ってきます。また、皆さんから献げられたものを、手渡すことができたらと願っています。
これらの教会に、心から感謝しなければいけないと思っています。
続けて三つの教会の祝福を祈ったら、皆様にも祝福があると信じています。

日本はなかなか宣教が難しいです。先日も日本伝道会議がありましたけれど、これからどうしたらいいのだろうか‥という感じです。
しかし先週も話しましたように、イエスさまは「宣教の鍵」について教えて下さいました。
マタイの福音書十二章二十八〜二十九節、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。』

先週の復習になりますけれど、強い者とは、ベルゼブルという、悪霊どもの組織の頭のことです。それを縛り上げないと、いろいろ頑張っても、うまくいかない!とイエスさまは語られたのです。
近頃、この言葉が私の心に迫っています。世界には、あまりにも多くの問題があります。どう解決し、良い社会にしたらいいのでしょうか。それは不可能です。
しかしこの言葉は、大きなヒントを私たちに与えていると思うのです。まず、強いものを縛り上げたら、奪われた家財や良きものを取り戻すことができる!と言うからです。
強いものとは、ベルゼブルです。リバイバルの鍵は、「強い者を縛り上げること。」にあります。
 この絵ではドラえもんたちが縛られていますが、本来、縛らなければいけないのは、このチビ忍者です。このチビ忍者がいたら、みんな縛られるわけです。世界中に、チビ忍者みたいな存在がいるのです。

悪魔の組織の頭であるベルゼブルがいる。またの名は「バアル」。このバアルは、バベルの塔から世界中に広がっています。
イエスさまの時代、ベルゼブルは、カナンの地を席巻していた土着宗教でした。それは、土偶礼拝でした。
 こんなものが、強い者だと信じられますか。土偶って、粘土で作られた素焼きの偶です。世界で最も土偶を多く作り出した国は日本です。日本の縄文人達が作った土偶は、世界に例を見ない、精巧なもので、カナンの地のバアルが花を咲かせたのが日本の縄文文化であると思われます。
特に、意匠的な土偶がアラハバキだと先週、話しましたが、アラハバキは地名に残っています。「荒神場(アラガミバ)」という地名です。
日本中に「アラガミ」という場所は多くありますが、「荒神場」と命名されている場所は、新城市しかありません。新城市で霊的戦いが始まったのは、何か、深い意味があるのかもしれません。
 この場所で強い者たちを縛ることが出来たら、もしかしたら世界が変わるのかもしれません!それが使命として与えられているのならば、真剣に、戦いたいですね。

どう戦うのか。それはイエスさまが十字架上で成し遂げてくださった、罪を赦し、債務証書を無効にされた!という、全幅の勝利を掲げ、強い者に立ち向かうのです。

偶像礼拝を避けると共に、もう一つの条件は、

『私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』(コリント人への手紙 第一 十章十六節)

それは聖餐式です。試練から脱出するためには、偶像礼拝と戦い、聖餐式を重んじるよう教えています。共に十字架と復活に関する勝利です。

プロテスタント教会の中にある神秘とは二つです。二つだけです。その一つは、「バプテスマ」です。バプテスマは、水の中に入って出るだけですが、イエスさまの十字架の死、葬り、よみがえりを意味しています。
そしてもう一つの神秘が「聖餐式」です。パンはイエスさまのからだであり、ブドウジュースは、イエスの血です。食することによって、イエスさまと一つになるのです。
様々な問題から解放されるために、この二つが大切であると教えています。
今日は聖餐式礼拝です。試練から解放され、強い者を縛るためにも重要です。

先週もお話ししましたけれど、聖書を理解するために、古代の宇宙観を知る事が重要です。詩篇百四十八篇を読むと、天の天から地のどん底まで、様々な領域で主を賛美しなさい!と命じられています。「天」が出てきたり、「諸天」が出てきたり、「諸天の天」が出て来たりと、一体、どうなっているのか・・・。
そこには旧約時代からイエスさまの時代にかけて、人々が持っていた、「ヘブル的宇宙観」が関わっています。
 私たちは地上に住んでいますが、星々の世界は「空」と表現されました。その上には「天の水」が存在し、また、その上には「諸天」が続き、すべての天の上に神の座である諸天の天があると考えられていました。聖書はその宇宙観に基づいて記されています。

さらに、地下にも世界があるとしていました。地下はどのような構造か。死者の国である「シェオル」(ギリシャ語ではハデス)という場所があると、信じられていました。
さらにその下には、シェオルよりも深い「タルタロス(ギリシャ語)」という奈落の底みたいな場所があるとされていました。
一連の古代の宇宙観を知ると、聖書がわかりやすくなります。
エペソ六章の霊的戦いの組織も、この宇宙観に照らし合わせるより理解できます。

さて、エペソ人への手紙 四章九~十節に、

『「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。』(エペソ人への手紙 四章九~十節)

「諸々の天よりも高く上った」とは、「神の座に就かれた」ことを意味します。
また、イエスさまはこう語られました。

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」』(マタイの福音書 二十八章十八~二十節)

私たちは一人でも多くの人たちに救い主イエスさまを紹介したいのですが、イエスさまとは、一体、どういうお方なのか・・。それは、「諸々の天よりも高く上った方」、すなわち「神」であり、地にも降られたお方、「救い主」です。
イエスさまの権威は、どの領域にまで及んでいるのか、それは、「諸天の天から、地のどん底まで」及んでいるのです。十字架で勝ち取られた勝利は、すべての領域を含んだものです。だから自信持って出てけ!と、主は弟子達を励ましておられるわけです。

ペテロの手紙 第一 三章十八~二十節では、このように記されています。

『キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。』

『キリストは捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。』という記述ですが、イエスさまが十字架で死なれた後、囚われている霊たちの所に行かれたのです。新改訳2017では「宣言された」となっています。
しかし他の訳では、

『そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。』

「宣言」ではなく、『宣教されました。』と訳されています。この表現によって、間違った解釈が生まれました。それは、イエスさまは、地上で救われないで死んだ人たちを救うために、死後、地獄に行ったのだと解釈しました。地上でイエスさまを信じなくても、死後、再度、救いのチャンスはある、という解釈です。

ここで、「捕らわれている霊たち」が、「死者の霊」なのか、それとも「悪霊なのか」?これって、ものすごく大きな違いです。

ペテロの手紙の第二、二章四節を見ると、その関連で、

『神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。』

と説明しています。聖書は部分的にではなく、全体を読まないと間違いが発生します。
ペテロの手紙、第一の三章、『捕らわれている霊たち』とは、「罪を犯したみ使いたち」だとペテロは説明しています。死者の霊ではありません。悪霊どもなのです。彼らは地獄に投げ込まれ、暗闇の縄目に繋がれているのです。

最近、バイブルリーディングで、ヘブル語やギリシャ語を勉強していますね。それは大切です。
ここに「地獄」という単語が出てきます。これをギリシャ語で見ると、「Tartaroo」という言葉が使われています。
これは、どういう意味かというと、「タルタロス」というギリシャ神話の神名です。しかし、意味としてはシェオルの下の「奈落そのもの」のことです。
奈落って知っていますか。舞台に設置されている穴です。舞台が死者の世界、シェオルだとしたら、タルタロスは舞台にある穴です。
そこにノアの時代に神に従わなかったみ使いたち、すなわち、悪霊どもを投げ込んで閉じ込めたというのです。それは「ノアの時代」に起こった事件でした。

今日は時間がないので、あまり詳しく説明できませんが、創世記を見ますと、「ネフィリム」という巨人が出てきます。これは天使たちが、人間の女性たちと関係して生まれた、「ハイブリッド人類」です。
ノアの洪水はなぜあったのか。それはネフィリム退治でした。しかしネフィリムの遺伝子を持った人類は、その後も生き残り、人類の歴史と深く関わっています。霊的戦いは、ネフィリムの残党との戦いみたいな側面があります。
ノアの時代に、自分の領域を捨てて、人間の女性と関係を持った堕天使たち、ハイブリッド人類を生み出した天使たちは奈落の底、タルタロスに投げ込まれたのです。

イエスさまは、十字架の死によって、死の霊を打ち破った後、すぐさま何をされたのかというと、タルタロスに行かれたのです。
「わたしは天においても地においても一切の権威を受け取った。」とは、ただ諸天の天に上っただけではなく、地の最も深い所「タルタロス」にまで降りて、ノア時代に捕まえられた悪霊たち、それは、最も大きな悪事を働いた悪霊どもに対して、勝利を宣言されたのです。