2023年8月27日(日)新城教会主任牧師 滝元順
コリント人への手紙第一 10章13節
『あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。』エレミヤ書29章11〜12節
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』
ハレルヤ!今日はご一緒に礼拝できますことを、感謝致します。実は私、二週間前にコロナに感染しましたが、二日・三日で良くなりました。しかしその後、少しぶり返すというか後遺症というのか、あまりはっきりしない日々が続いて、先週はネットで礼拝に出席させていただきました。しかし今日は祈りに支えられ、皆さんの前に立つことができ、心から感謝しています。皆さんもお気を付けいただきたいと思います。
今日の聖書のみことばは、コリント人への手紙 第一、十章十三節、
『あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。』
新型コロナは世界中の人たちが経験した試練でした。しかし三年過ぎて、試練から脱出の道を主は用意して下さいました。感謝です。
続くエレミヤ書二十九章は大変有名なみことばです。
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』
私たちは、「計画」という言葉をよく使います。しかし「計画」という言葉が、日本語でどういう意味を持っているのかについては、案外深く考えていません。調べてみたら、結構深い意味がありました。
“計画(Planning)
計画とは、あるべき目標を設定し、その目標を達成するための、可能な手段を体系化し、その手段の遂行手順、時間(スケジュール)を明示化したもの。”
と解説されていました。「計画」というと、漠然と目標ぐらいにしか考えないのですが、本来の意味は、時間の経過と共にある細かい手順そのものなのです。
ということは、神さまが私たちに持っておられる計画とは、大雑把なもの、漠然としたものではないということです。「おまえに永遠のいのちを与えてやるんだからあまり深く考えるな。適当でいいしゃないか・・。」みたいに思ってしまうのですが、そうではありません。時間の経過と共に、神は細かい手順を踏んで、私たちを導いてくださるのです。
今日は私の経験した証しを中心とするメッセージになるのですが、何度も語った証しもあります。しかしアップデートされた内容でもありますので、皆さんの人生に対応して、神の計画とは何かについて考えていただきたいと願っています。
実は先週、悲しいことがありました。朏美衣姉妹が天にお帰りなり、召天式が行われたからです。これから「ヘブンズアイスクリーム&コーヒー」に立ち寄っても、みえちゃんの笑顔を見ることができないと思うと、本当に寂しいです。
彼女は二〇一八年にステージ四の卵巣がんが発見されました。その時点で、もう駄目だと言われたぐらいでした。しかし祈りによって、彼女の信仰によって、癒されたのです。以後約五年間、主は彼女に命を加えてくださいました。
そして最後の五年間が、彼女にとって、人生において最も濃い、神の計画に満ちたものでした。
新城教会とプレイズの飲食を通して主に仕える働きは、彼女を抜きにして語れません。ヘブンズアイスクリーム&カフェも、彼女がいたからこそ、存在しています。今は彼女はいませんけれど、彼女が作り上げたメニューは健在です。今日はぜひとも、ヘブンズに立ち寄って、感謝の祈りをささげていただきたいです。
それぞれの人生にはドラマがあり、神の計画があるのです。
いつも語っておりますけど、私たちクリスチャンの死は、
『主の聖徒たちの死は主の目に尊い。』(詩篇百十六篇十五節)
とあるように、神さまの前には本当に重要な意味を持っています。
そして、パウロも語っているように、
『私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。』(ピリピ人への手紙一章二十一節)
みえちゃんの人生はまさしくその通りでした。主の計画の中を、風のように走り抜けて行きました。
実は先日NHKの番組で、コロナ禍になって、聖書が注目され、よく読まれるようになったと言っていました。それはいいことだと思ったのですが、聖書のどの書が読まれるようになったのかと言うと、旧約聖書の「伝道者の書」が読まれるようになったというわけです。
「伝道者の書」、ご存じでしょうか。一章一節〜四節まで読みますと、
『エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。』
この箇所が引用されて、「人生とは空だ。むなしい。伝道者の書を読んでみろ。そう言っているではないか・・。」というのです。
「すべては空」とありますが、ヘブル語では、「ヘベル」と表現されています。空と訳された「ヘベル」は、実は「蒸気」とか「煙」を指す言葉だそうです。伝道者は、人生とはどのようなものかを表す比喩として、三十八回も「ヘベル」を使用しているのです。
聖書も読み方によっては希望を与えるよりも、絶望的な気持ちにさせる書物にもなりかねません。人生は「空の空。すべては煙だ。」と告げているからです。読み方にも注意しないといけないですね。しかしこのような側面もあることも確かです。
煙とは、実態はあるけれど、つかみどころがない存在です。伝道者の書は、何を伝えたいのか、結論はこれです。
『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。』
(伝道者の書十二章十三〜十四節)
これが結論です。「神なき人生は煙のようなものだ。」と告げているのです。伝道者の書を一度読んでみていただきたいと思います。
中身は「空の空」みたいな内容です。しかし、最後の結論がこれなのです。「神なき人生は、煙のようなものだ。しかし人が神と出会う時、人生は大きく変わる。」と教えているのです。
私たちの人生は「ヘベル。ヘベル。すべてがヘベル。」のようではないことは確かです。なぜなら、神の計画の中にあるからです。
皆様に祈っていただき、二週間前、私は加茂川キリスト教会に奉仕に行きました。めちゃ忙しかったです。子ども集会が二回、高校生集会が一回、その間に、祈りの歩行、流しそうめん、焼肉大会がありました。私は全て出席させていただきました。もはや七十二歳のおじいさんの仕事ではありません。
この教会の牧師三上先生は、私を気に入ってくださっています。
「小中高生キャンプ、誰を講師にしようか・・」という会議で、皆が「やっぱり順先生だ!」と推薦したそうです。「用いられる時が花だ」と、よく言われるのですが、本当にそうだと思います。私が、なぜ、じじいになっても用いられたのかについては、一つの理由があるからです。
それは、さかのぼるところ二十年ぐらい前になるのですが、この教会の子どもキャンプに奉仕に行かせていただきました。その時、子どもたちに「将来、幸せになる秘訣」についてお話ししました。「子どもの時代は、最も神さまが目を向けられ、愛され、祝福された世代だ」と話しました。将来、幸せに生きるためには、お母さんが「手を洗いなさい。消毒しなさい。」というのと同じように、目に見えない敵と戦う必要があると話しました。今回も私、この話をしたのですが、まさか自分がウイルスに感染しているとは思っても見ませんでした。どこで感染したのかわかりませんが、手を洗わなかったり、消毒しなかったからでしょう。それで感染したわけです。目に見えない敵がいたのです。
「目に見えない敵がいるから、戦わなくちゃいけない!そうでないと、人生は不幸になる。」と話して、「ぐうぞうを拝まない!」「ケンカをしない!」、もう一つは、「ゲームをやりすぎない!」、そして、「せいれいに満たされる!」という、四つをお話しさせていただきました。
覚えていますでしょうか。二十五年くらい前、ポケモン事件というのが起こりました。日本全国で一度に六百五十人ぐらいの子どもたちが同時にバタバタ倒れて、緊急搬送された事件です。その理由は分からなかったのです。ポケットモンスターですから、「モンスター」は悪霊のことです。悪霊をポケットに入れていたら、いろいろあるだろうという感じです。
今でもゲーム類には、霊的に危ないものが多くあります。
二十年前も、気をつけてください!背後に悪霊がいます!という話をしました。しかし子どもたちは話を聞いて、「えー!そんなの…。」みたいな感じでした。
キャンプが終わって、子どもたちは家に帰りました。すると一人一人に聖霊さまが語りかけ始められたのです。「今やっているゲームは良いものではないよ。教会に持って行って処分してもらいなさい。」という声を聞いたのです。
誰かと連絡を取ったわけでなく、「祈ったら、このゲームやっちゃいけないって、イエスさまに言われたから捨ててくれますか。」と教会に、高価なゲームセットなど、いっぱい持ってきたのです。なんとドラム缶一杯になったそうです。そして全て焼いて処分したと言うのです。当時「リバイバル新聞」というのがありましたけれど、そこに記事として取り上げられました。
強制したわけでもなく、聖霊さまが働いて、子どもたちひとり一人に、そういうことが起こったのです。
それから二十年、その子たちが健全に成長している姿を見て、また、教会のリーダーとなっている姿を見て、「やっぱり、今の時代の子どもたちにもこのメッセージが必要だ!」と言って、七十二歳のじじいが抜擢されたわけです。
この教会には、不思議な神さまの計画があります。私はこの教会に関わらせていただいて、いくつかの奇跡を体験させていただきました。そのきっかけが、ポケモンの話をして、その後、子どもたちがゲームを捨てたという奇跡です。今やこの話は、この教会のレジェンドになっています。
それからしばらくして、再度、この教会に招かれました。大人のための聖会でした。その時、私は新城教会で起こった一つの証しをしました。
一人の方が来られて、こう話されました。「私の親族では、この三年間、毎年、親族の中の長男が死んでいる。今年も亡くなった。」と言うのです。「なんか気味が悪くなって、家系の呪いではないかと思って、新城教会で祈ってくれると聞いて来ました。」と言われるのです。
聞いてみたら、その親族の中で、三年間、毎年どこかの家族の長男が亡くなっていたのです。今年はまさかと思っていたら、その方は浜松の方でしたが、浜松祭りに出かける途中、親族の長男が事故に遭って亡くなったと言うのです。その家ではいろいろな偶像礼拝をやっていました。偶像礼拝をやめて、主を信じて、家系の呪いが断ち切られるようにと祈らせていただきました。
その時、こんなことを言われました。「今年亡くなった長男の奥さん、あまりにも悲しくて、ご主人が亡くなった後、子どもを連れて行方不明になった。」「どんな人だったのですか?」と聞いたら、フィリピン人の奥さんだったと言いました。「そうですか。国に帰ったんじゃないですか?」私は、その奥さんに関しては、気にもとめませんでした。
祈りの後、このご家庭が大変祝福されて、親族もクリスチャンなって、素晴らしいみわざを見ることができました。そのことを加茂川教会の聖会でお話しさせていただいたわけです。
集会が終わって、「何か家系的な問題があったら、お祈りしますから、お残り下さい。」と勧めましたら、多くの人たちが残られました。その日、私は祈りの時間も考慮して、三島駅最終の新幹線を予約していました。しかし、あまりに大勢で、いのり切れないほどでした。二十年前、私も若くて元気だったので、大勢の方を祈ることができました。
途中で「これは祈り切ることができないかも・・」と思い、適当にして帰ろうかと思った時、神さまが私の心の中にふっと思いを入れられました。以前にもお話ししたことがあるので覚えているかも知れません。
「おまえが電車に遅れたって、人生に大きな影響はないぞ。でも、おまえが祈ってあげなかった人に呪いが残ったら、おまえのせいだぞ。」というような思いが来たのです。
「そりゃそうだな・・・。じゃぁ頑張って祈るか!」と思い直して、すべて祈りきりました。
「やった!やっと帰れる!」と思ったら、会堂の入り口の扉が開いて、一人の奥さんが子どもを連れて入ってきて、「私のためにも祈ってください。」と言うのです。もう帰ろうとしていたのに、どうしようかと思いましたが、その方のために祈る事にしました。
「何のために祈ったらいいですか?」と聞いたら、「私は一時、結婚していたのですが、夫が何年か前に交通事故で亡くなりました。その後、そこから出て、全国を転々として今ここに来ているのです。」と言うのです。
それで私は彼女に「あなたの話によく似た話を聖会の中でしましたが、覚えていますか?」すると、「ちょうどその時、子どもが騒いだので、外に出ていて聞きませんでした。」と言うのです。
聞けば聞くほど、私の話した話に酷似しているのです。しかも、その方はフィリピン人でした。
なんとその女性は、私がかつて「長男が亡くなって奥さんが消えてしまった」と聞いた、行方不明になった本人だったのです。私はたいへんびっくりしました。
もしもあの時、早く帰ったら、この奇跡を体験できませんでした。
おかげで私は新幹線は最終の最終、浜松止まりになって、在来線で豊橋に夜中の一時に着くことになったのですが、今回行ったら、その一家がみな元気に、過ごしておられて、本当に感謝しました。
神さまの計画って、いろいろなところにあるのです。それも知らない人を介して、計画は実現されていくのです。もしも私がこの方のためにお祈りしなかったら、この家族の今はないと思うのです。この家族は、今では教会に定着して、幸せに暮らしておられます。
「どうして三島に来られたのですか?」と聞いたら、これから日本のどこに住もうかと考えて、いろいろな所に行ったらしいのですが、ある日、三島駅に降りて、駅前に立っていたら、一人の青年がギターを弾いて賛美していたと言うのです。自分の国で同じメロディを聞いたことがあって、近寄ると、「教会に来てください。」と誘われたので、『教会ってどこですか?』「駅のすぐそばにありますよ。」
彼女は、それを聞いて、教会に通うようになったそうです。するとそこに私が遣わされて、この一家が試練から脱出して、将来と希望に結びついたのです。
いや〜本当にキリストのからだの麗しい働きだなぁと感動します。