2023年1月22日(日)新城教会牧師 上條実
ゼパニヤ書3章14節~17節【新改訳2017】
『娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。』
ローマ人への手紙12章4節~5節【新改訳2017】
『一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。』
ハレルヤ!心から感謝します。今日ここでみことばを語ることができます事を心から感謝します。
いつも私のために、またリバイバルミッションのためにお祈りくださり感謝いたします。リバイバルミッションでは二月から「GOTOミッション」という名称で、各教会に出かけて行き、伝道会をしていきたいと願っております。ぜひお祈りください。また家族のために、特別、家内のためにお祈りくださり、心から感謝します。家内もなんとか守られております事を心から感謝します。 続けてお祈り頂けますと感謝です。
さて今日は今司会者の方がお読みいただきましたが、ゼパニヤ書三章十四~十七節とローマ人への手紙十二章四~五節のみことばから「二〇二三年は希望の年。教会全体が喜び躍る年となる」というタイトルでみことばをともに学んでいきたいと思います。毎年十二月三十一日に、牧師たちが次の年のためにみことばを求めて、神さまから受け取ったメッセージを語る「カウントダウン・ワーシップ」という集会が持たれます。私もそのために、二〇二二年の十二月ごろから祈り備えていました。しかしクリスマスの集会が続き、またご存じのように滝元順牧師の奥様、享子先生が十二月十八日に亡くなられ、二十日に召天凱旋式が執り行われました。そしてその次の日の二十一日の水曜日には家内をいつも通っております浜松市にある病院に連れて行き、診察の時があるなど、あわただしく時が過ぎ、なかなか二〇二三年のために主が、私に、また教会に与えてくださっているみことばを受け取る事ができずにいました。午前中診察でしたが、その日は二つの科の診察があり、時間がありませんでしたので、普段は使いませんが新東名高速道路で帰ってきました。その道中、昨日の滝元享子先生の召天凱旋式を振り返り、また同じ二〇二二年に日本の魂のために犠牲を払って働いて下さったロンブラウンさんや、愛する甥の滝元寛太兄。また何人かの兄姉も亡くなられた事を考え、また愛する家内の病気や介護がいつまで続くのかなどと考えながら、暗く、辛く、寂しい思いで車を走らせていました。そして新城インターを出て、家に帰ろうとしたその時、突然「喜び躍れ」ということばが飛び込んで来ました。様々な出来事を思い考えていましたので、正直その時は、その「喜び躍れ」ということばを受け取ることはできませんでした。なんでこんな辛くて悲しいときに、「喜び躍れ」などと思わされたのだろう?と、そのことばを打ち消していました。特に家内の介護が正直、負担になっていました。家内は病院の受診日が近づくと調子が悪くなり、診察前夜は、病院に出かけることに緊張して。夜中何度も起きてしまい、眠れずにいました。こんな状況がいつまで続くのだろう?終わりが見えない状況のなか、「喜び躍れ」ということばは受け取る事はできませんでした。しかし私の暗い心に「喜び躍れ」ということばがますます大きくなってきました。もし主がこのことばを下さったなら、どこにそのみことばがありますかと主の前に出ました。すると、ゼパニヤ書の三章十四節から十七節のみことばが目にとまりました。十四節だけお読みしますが
『娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。』
普段は第三版の聖書を使っていますが、二〇十七年版で読むとそこに「喜び躍れ」とありました。びっくりしました。しかし自分の中ではまだ消化しきれずにいましたが、「娘シオンよ」とか「娘エルサレムよ」の主がイスラエルの民に対して、優しく、愛し親しく呼びかけてくださる言い方が書かれてあり、「喜び歌え」「喜び叫べ」「心の底から喜び躍れ。」という命令形で書かれてありました。そしてこのゼパニヤ書三章十四節のフレーズは、やがてキリストが再臨において帰ってこられる預言であり、エルサレムが回復されることと主が帰ってこられる時には最大級の喜びが湧き溢れる。その喜びの声は絶えることがなく、神の民も完全に回復されると注解書には書かれてありました。私は暗い気持ちを引きずっていましたが、いつも「マラナタ。主よ来てください。」と主が来て下さることを信じて祈っていましたので、そうだ主を見上げて進んでいかなくてはいけないと教えられました。
そんな中で再度十四節を見た時に、「躍れ」ということばがありました。私がよく使うのは踊れという漢字でしたので、なんでこのところは「躍れ」という字を使っているのだろうと気になって調べて見ることにしました。辞書で調べて見ると「おどれ」という文字には「①踊れ」と「②躍れ」の二つがあるとありました。そして文化庁の「言葉に関する問答集(総集編)」には、「踊る」と「躍る」との使い分けについての解説がありました。
①「踊」は、「ある決まりに従っておどるおどり」を表します。「舞踊」のように、音楽や歌に合わせて手足や身体を動かし、身振りや手振りをしながらリズムに合わせて動作をする「おどり」についてこの字が使われる。また、人に操られて行動することにも用いられます。とありました。そしてもう一方の躍りという字は
②「躍」は、「勢いよく飛びあがること」を意味します。「小躍りして喜ぶ」「馬が躍り上がる」「魚が躍る」「身を躍らせて飛び込む」のように「はねあがる」意味に使われる。また、「胸が躍る」「心臓が躍る」のように、「喜び・驚き・期待・緊張などで、胸がわくわくする・どきどきする、どうきが激しくなる場合などの動き」についても用いられる。
とありました。以上のことから考えると、十四節にある「喜び躍れ」の躍れは、「喜んで勢いよく飛びあがること」「はねあがる」という意であることがわかりました。
いつも賛美集会などで踊りましょう!と言って、踊ったりしていました。また学校などでダンスしたりしていましたが、そういった踊りではなく、「喜び躍れ」ということは、飛び上がることを意味しているのかと理解できました。その状況を表している「動画」はないかな?と思って、「躍る」という文字入力して、検索して見ました。様々な動画がありました。しかし動画を見始めてしまうとすぐに時間が経過してしまうので、「子ども 躍る」と検索してみました。そうしたら、こんな動画がありました。アメリカの一つの家庭の動画です。アメリカではクリスマスの時、子どもたちにクリスマスプレゼントを渡すとき、夜のうちにクリスマスツリーの元に置いておいて、子どもたちが起きて来た時に、そのプレゼントを見つけて開けるという習慣がありますが、その場面です。寝起きでお兄ちゃんはまだパンツ一丁のような感じで登場してきますが、その弟がプレゼントを見つけて、喜ぶシーンです。ご覧ください。
これは任天堂のSWITCH(スイッチ)というゲーム機をもらって、喜んでいる姿です。朝の時間です。まだ寝起きで眠たい状況の中で、子どもが欲しくて欲しくてたまらなかった任天堂SWITCHをプレゼントにもらえたということで発狂しているのです。すごいはしゃぎ様。最高の喜びにあふれた状況だと思います。あげた親としては、その喜びようを見たらとても嬉しく思います。ニコニコしながら動画を撮っている事が想像できます。「躍りなさい」というのは、このような状況だと思います。しかし私はこの動画を見て、「無理だ」と思いました。近親者がなくなっている。主任牧師の奥さんが亡くなっている。そして家内の介護を考えて「喜び躍れ」は無理だろうと思ってしまいました。
しかし私の心に強く「喜び躍れ」と更に主が思いを与えてくださり、これは主が私に語ってくれたんだと考えるようになり、二〇二三年のみことばとして受け取り、カウントダウン・ワーシップのメッセージの準備を始めました。しかし十二月三十一日も不安でした。いつもメッセージの順番をくじ引きで決めるのですが、なんと私は、多分一番になるんじゃないかな?と思いつつ皆さんの前でくじを引きました。すると予想どおり一番を引きました。一番はじめにメッセージを語るようになりました。しかし後半のほうならば、少しメッセージを修正しようと思いましたが、一番最初に「喜び躍れ」なんて、語ったら、後の牧師、副牧師の先生方とあまりにもかけ離れた、突拍子もないメッセージになるのではという不安の中で、用意したメッセージを語りました。二〇二三年は「喜び躍る」年となる。それも、ただ踊って楽しむというようなものではなく、飛び上がる程の喜びの年となります。恐れず、気力を失わず、戦いなさい。わたしが敵を追い払います。わたしはあなたのただ中にいます。自分の気持ちとは裏腹に、喜び躍る年になります。信じましょう。この教会に将来と希望を与えてくださるという約束を信じて進んでいきましょう。と語りました。しかし私の心配とは裏腹に、聖霊さまは他の先生方にもそれぞれ語っておられ、先週の礼拝でも八人の先生方のメッセージを要約してつなげて二〇二三年、預言的メッセージとしてまとめられたものを朗読されましたが、不思議と一致したみことばが語られました。なんの打ち合わせもありません。しかし主がこの新城教会に二〇二三年、期待していてくださっています。
今年は新城教会にとっては記念の年です。なぜならば教会が新城市に誕生して、七十年目です。滝元明牧師夫妻は初め、北設楽郡津具村で宣教を始めましたが、この新城市に移って宣教を始めたのが一九五三年の三月でした。今年は二〇二三年ですから、七十年が満ちるわけです。ユダがバビロンから解放されたのが、捕囚後七十年でした。七十年経つと主が憐れみのみ手を差し伸ばしてくださると信じます。また、王が即位して七十年目を「プラチナ・ジュビリー」と呼んで、特別な年として祝います。七十年は五十年と二十年に分かれますが、聖書中、五十年は特別の年として描かれています。それをヨベルの年(ジュビリー)と呼びます。ヨベルの年とは、すべてが一新される年です。奴隷は解放され、借金は帳消しになる。そして先祖の土地を奪われ、他の地に寄留している人も、先祖の土地に戻れる年だというのです。ということは、何を意味するのか、もともと地球は創造主のものです。人はエデンの園に住んでいました。しかしそこから追い出されました。人はもともと、エデンの園で生活するはずでしたが、追い出されて、長い年月が刻まれています。しかしヨベルの年には、元に戻ることができるのです。人はエデンの園に戻るのです。
新城教会は七十年目を迎えます。今年がヨベルの年です。神の国は、イエスさまの十字架と同じで、未だかつて経験したことのない苦しみと悲しみから始まります。しかしその大きな悲しみが、最大の喜びに変えられると、イザヤによって預言されています。「主の恵みの年、ヨベルの年になったら、強烈な悲しみから、強烈な喜びに変えられる!」と預言されています。信じましょう。期待しましょう。
主が「喜び躍りなさい」と私に語ってくださいましたけども、確かにこの教会に、今年は素晴らしい事を起こしで下さり、素晴らしいプレゼントを与えてくださり「喜び躍る」年であると信じます。
しかし今、自分の中で引っかかっていることがあります。それは何かというと、今までも祝福される。また復讐の年など素晴らしい恵みが語られています。しかし私の感じるところではある一部分だけは祝福され、一部分の人は喜びます。しかしまだ教会全体、教会員全体が祝福されたと感じる事ができていないのではないかと思っています。しかし今年は先ほど語りましたように、ヨベルの年です。私たちの教会のすべてがヨベルの年とならなくてはいけません。教会全体が感じることのできる祝福を与えて下さいと祈らなくてはいけないと思います。すべての人々が喜び躍る年となるように祈り、待ち望んでいかなくてはいけないと思い、祈っています。主は祈りの中で、いろいろなことを教えて下さいました。