2023年は希望の年。教会全体が喜び躍る年となる

一つは、ローマ人への手紙二章十一節のみことばです。これは短いみことばですけども、私の大好きなみことばの一つです。

 

『神にはえこひいきがないからです。』

 

「あなたを愛するが、あなたの隣人は愛さない。」ではありません。えこひいきのない神です。選り好みをする神ではありません。全て同じように主は接して下さいます。愛してくださいます。

また私たちにいま求めておられるのは、「一致しなさい」「一つになりなさい」と主が教えて下さっていると信じます。どの社会でもどんな組織でも一致があるかがとても大事です。内輪揉めしていたら絶対にうまくいきません。求めている目標にむかうことはできません。

教会は一致は難しいと思います。年齢も性別も違います。また学歴や育った環境も違います。一人一人個性も違うし、考え方も違います。しかし教会には一致ができます。それは全員イエスキリストという神を、信じる信仰を持っています。すべて主を愛し、主を賛美する事を願っています。愛する私たちの住んでいる地域、愛する日本のリバイバルを求め祈っています。その目標にむかっていく団結力・一致していかなくてはなりません。

主は私たちに「一致を求めなさい。」と語っていると信じます。先ほど素晴らしい賛美チームの演奏とともに主を賛美しました。またBack 2 Edenの特別賛美を聞きました。素晴らしい賛美を聞かせていただきました。それは一つの曲に対してすべての楽器が一致して、リズムを合わせて演奏をしたから、よかったのです。それぞれの楽器が個性を生かして,一つとなってハーモニーを奏でることによって素晴らしい演奏に聞こえます。ハーモニーとはなんでしょう。それは

 

ハーモニーとは

1 調和。諧調。「色彩の見事な―」

2 音楽で、和声。「すばらしい―を奏でる」

複数のものが対立することなくまとまっている状態を意味するそうです。

 

「ハーモニー」は、「調和」という意味で使われることが多いです。「調和」とは、複数の要素が対立なくまとまっている状態を指します。もしキーボードを全く弾く事の出来ない私がBack 2 Edenのキーボード奏者になって、でたらめに演奏したらどうでしょう?演奏は台無しになります。私が素晴らしい演奏を壊してしまいます。ハーモニーを壊してしまいます。もう一度簡単な動画を見て頂きたいと思います。

はじめに弾いたピアノの音は、音楽的に心地よい響きを感じますよね?しかしそれに対して、後半の音は、気持ちが悪く感じます。それはハーモニー、調和がないからです。私が、ハーモニーを台無しにしてしまいます。

そんな中である先生がこんなことを語っていました。「社会でもどんな組織でも一致があるかどうかはとても大事である。内輪もめしていたらうまくいかない。目標に向かうことはできない。教会でも一致は難しい。一人ひとり個性も違うし、考え方も違う。しかし教会は一致ができる。イエス・キリストを信じる信仰を持っているからだ。」というようなことを言っていました。それはそうだなぁと本当に思います。でも本当に一致できているか?と思うと、自分の中で、やはり一致がなかなかできない自分がありました。

正直言って、賛美の中で、「一致しなければいけないのかぁ。」と思いながら、賛美をしていると、神さまが本当に不思議ですが、ふっと私の中に演奏者が本当に素晴らしいバンドでいつも伴奏してくださるのですが、「ハーモニーが大事だよ」と、そんなことをふっと思いました。そんなこと、私は今まで考えたことがありませんでした。「ハーモニー?ハーモニーってなんだ?」ハーモニーという言葉は分かっているのですが、どういう意味かなぁと思って、もう一度辞書を調べると、こういう意味でした。

 

ハーモニー【harmony】

1 調和。諧調。「色彩の見事な―」

2 音楽で、和声。「すばらしい―を奏でる」

意味・・・複数のものが対立することなくまとまっている状態

 

これがハーモニーの意味だということです。今もBack2Edenのすばらしい賛美を聴かせていただきました。しかしもしBack2Edenのキーボード奏者になって加わったらどうでしょう?全く弾けない私です。弾けない私が適当な音を出したら、Back2Edenの素晴らしい賛美は台無しになってしまいます。

またここで礼拝時のメッセージ終わりにキーボードの方がBGMを弾いて下さいます。その中でお祈りしています。もし私が、唯一弾けるのは「ねこふんじゃった」を弾いたらどうなるでしょう。素晴らしいメッセージでも「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」と弾いたら、そのメッセージの素晴らしさも飛んでしまい、祈れなくなってしまうと思います。

これだけです。この最初のほうの音というのは、本当に気持ちの良い感じです。でも二番目のほうはすごく不協和音であるわけです。私たちは一致しているでしょうか?

Ⅰコリント十二章二七節には

 

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 

とあります。教会は建物ではなくキリストのからだです。そして私たちは各器官だと言っています。

私は若い時は健康でしたが、しかしある時からいろんな病気をしました。二番目の息子が一歳にならない時、病名のつかない病気になって、一ヶ月間、東京の病院で検査入院をしました。はじめは風邪かなと思いましたが、その後体調が悪化してしまい、地元の病院では心臓が悪いと言われましたが、更に悪くなってしまったため、家内の実家のある東京に行き、大きい病院で様々な検査をするために入院したことがあります。何の病気か全く分からないまま直ってしまいました。また腰を痛めて、ヘルニアになったこともあります。痛みとしびれがあり、動くこともできない時がありました。また二〇十九年は脳梗塞で救急車で運ばれました。また二〇二〇年は、心臓のすぐ上にある太い上行動脈に瘤ができ、ふつうは三センチほどの動脈ですが、それが大きくなって六センチ近くになってしまい、手術することとなりました。またその時肝臓も悪いから治療したほうが良いと言われました。考えてみると沢山の病気をしました。Ⅰコリント十二章二七節

 

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 

とありますが、各器官ということは理解していましたが、健康な時は無関心でした。しかし特に二〇二〇年手術をしてからは各器官ということがよく理解出来ました。あまり良い写真ではありませんが、上行動脈を手術するため胸骨を上から下まで切除しました。そして血液の流れを長時間にわたって止めることは危険で、頭や全身、各臓器への血液が停止しただけで障害が起こるらしく、一時的に生体の心臓、肺の働きを代行させる必要があるため一度体外に血液を取り出し、酸素化と二酸化炭素除去のガス交換を行った上で、再び血液を体内に戻す人工心肺装置につなぎ、体を低温にして手術を行ないました。溜ができている所を切除して、人工血管に代えて、再度繋いでくれました。

私が目を覚めた時には、胸骨を縫いあわせられ、写真のように縫った所に養生テープが貼られました。そして抜糸をしましたが、はじめのうちは「重たい物は持たないでください。」と言われました。しかし、退院し、また家内の介護で、お風呂に入れて、湯船に浸かった後、お風呂はバリアフリーではない普通のお風呂ですので、家内が湯船から出す時に、家内を引っ張って湯船から出してあげるのですが、家内は全体重を私に任せて立ち上がるものですから、正直この傷口が少し広がり、傷口がきれいにくっつかずにケロイド状になってしまいました。胸骨なんて今まで意識したことはありませんでした。しかし手術をした為、その部分を理解しました。

各器官を意識しないひとは元気な証拠です。しかしエペソ人への手紙四章十六節

 

『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』

 

とあるように、各器官が一つ一つの部分がその力量にふさわしく働かなくては健康ではありません。しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して行く必要があります。悪い所があれば治療して行かなくてはなりません。脳梗塞をしましたので、血圧が高いと再発するため、塩分には気をつけています。塩分を多く摂取しないように気をつけています。買い物で出かけて行く時、手に取る食材を塩分がどれだけ入っているのかチェックしています。小さく記入されているので老眼ですので、見にくいのですが、「これは塩分が多い。やめておこう。」と、食べたくてもやめます。汁物を作っても、薄味なので「薄くて美味しくない。」と言われる事があります。昔は濃い味付けが好きだったものですから、今はできるだけ気をつけるようになりました。第一コリントの手紙十二章二十二〜二十七節に、

 

『それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、 見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。』

 

『からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』とあります。また

 

『からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。』

 

とあります。教会も同じことです。弱いところこそ、大事なところなくてはならない器官です。そして各器官が分裂していたら健康にはなれません。各部分が互いのために、同じように配慮し合うことが必要です。今、教会の中にご病気の方が多くいらっしゃいます。その方々は早く癒されるように、いつも祈りつつ待ち望んでいます。しかし私たちは無関心です。私の家内は皆さんの前でお祈りしてもらうために語っておりますので、皆さんがお祈りしてくださっていますが、しかしまだまた多くの方が病気を持っておられます。私たちは、無関心のため祈らずにいます。しかしみことばには

 

『一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、』

 

とあるにもかかわらず、どなたが病気なのか、どんな苦しみを持っておられるか知らないという方が、もっと大変な病状です。私たちは指の先を切ったらいう痛いと感じます。それが普通の体です。しかしキリストが頭で、私たちは各器官でありながら、隣の器官が病で深刻な状況にもかかわらず、隣の器官には全く伝わっていないなら、それはとても深刻な状況、その人は重体状態です。もっと兄姉のために関心を持ちましょう。もっと兄姉と交わり、どんな状況がを知り、祈りましょう。支えましょう。自分の体が健康であると、私たちは無関心になってしまいます。キリストの体ということをもっと意識することが大事です。キリストの体の中で弱っている方々のために、目を留めなければいけません。

 

『からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。』

 

今週、弱く見える部分のために祈り、支え、愛の行動をしましょう。また自分が介護している身でありますので、特に介護している方のために、もっと祈らなければいけないなと、強く思います。よくニュースで、介護疲れで殺人や虐待をしてしまったというニュースがあります。それを見てあなたはどう思いますか?

「なんでそんなことを、するんだろう?」と批判してしまいます。私も昔はそのように思って、批判していました。しかしいざ介護をしてみるとわかるのです。介護は大変です。事件を起こした人たちの気持ちがわかります。苦しんでいます。疲れています。今こうして私が礼拝に参加できるのは、子どもたちがローテイションを組んで、家内を介護してくれています。私は子どもたちに心から感謝しています。一人で全部していたら大変だと思います。またウィークデーは「デイサービスシオン」に出かけ、その職員の方が面倒を見てくれています。本当に感謝です。私はいつもそこに働いておられる兄姉のためにお祈りしています。介護している人のために祈らなければいけません。