2022年12月4(日)新城教会副牧師 鈴木陽介
ヨハネの福音書14章6節
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
ハレルヤ!主のみ名を心から賛美します。
十二月に入りました。この二〇二二年は、皆さんにとってどの様な年となっているでしょうか。
まず、皆さんに本当に心からのお礼を申し上げたいと思います。この三年間、滝元享子さんの闘病生活が続いております。順牧師家族、また私たち家族にとって本当に大変な期間となっています。皆さんのお祈りによる支えを心から感謝します。病状は、特にこの九月、十月あたりから、現実的には一段階厳しい状況になってしまっております。十一月二十日の日曜日の礼拝メッセージを休止して以降、順牧師も全ての働きを休止して、享子さんのケアにあたっております。皆さんに大変なご心配をおかけしてしまっていることを心から申し訳なく思うと同時に、皆さんの心からのお祈りと支えを感謝いたします。
現状は、本来であれば病院にいるはずの状態であろうと思いますが、ご本人の希望で在宅での闘病を選択しております。二十四時間激しい痛みと闘い続け、食べることもほとんどできておりません。吐き気もずっと続いているような状況です。家族としては二十四時間体制での看護、介護にあたる状況になっています。
現実的、地上的には本当に厳しい状況ですけども、本人また私たち家族、誰一人諦めていません。むしろ最後の最後に主が備えておられる戦いとして、今全力でこの戦いに臨んでおります。そして順牧師が語られた通り、再び主が二度目の栄光を現してくださると信じています。
皆さんになかなか報告ができない中で状況が進んでいる部分もありますので、その点も申し訳なく感じています。しかし今は、それぞれが主にあって主に示される祈りを、主と一対一でしていただくことが、この戦いの支えとなると感じています。皆さんもそれぞれに祈りに専念して頂ければ感謝です。
この様な状況ではありますが、主は間違いなく、力強くはたらいておられ、今日私に託されたみことばがあります。主のみことばに心を留めて学んでいきたいと思います。
それではみことばに入ります。ヨハネの福音書十四章六節、有名なみことばです。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
この箇所は、ヨハネの福音書二十一章あるうちの、十四章にあたります。よく読んでみると、ヨハネの福音書は十三章の冒頭から十七章までがひとまとまりになっていて、十八章からのクライマックスに突入するような形になっております。まず十三章の冒頭から見ていきたいと思います。
『さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。』
この十三章の冒頭が、十七章にいたるひとまとまりの部分にかかっていると読んでもいい、そのような導入の一文になると思います。イエスさまがいよいよ世を去る時が来た。十字架にかかる時がきたという時に、弟子たちと交わりを持ち、最後のお別れの説教を語られます。『世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。』とあります。これは目の前にいる弟子たちに行われたことですが、同時に、現在みことばを受け取っている私たち一人ひとりになされていることでもあります。主は私たち一人ひとりを愛されて、その愛を残るところなく示してくださる方です。
続いて十三章の最後の部分を見ていきたいと思いますが、ペテロの記事が書かれています。十三章三十六〜三十八節、
『シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
ペテロが主を三度否むということに対する主の預言が書かれています。こちらも記事としてはよく知っている内容です。実は、十四章のはじめ、また今日主題として引用した十四章六節は、直接的にはこのペテロの問い、それに対する主の答えというところから続いています。
この十三章後半から、イエスさまはご自分が命を捨てる、十字架にかかるということを十七章に至るまで、段階的に弟子たちに話していきます。当然弟子たちは受け入れたくないので否み、どういうことか知りたい。その様な視点で、問答が始まっていきます。ペテロのこの質問もそのような内容であるといえると思います。弟子たちは当初主の話す通り、主の示す通りに理解はできませんが、最終的には主がはっきりと伝えます。それを受け取る弟子たちの変化も描写されながら問答が続いていきます。
これらを踏まえて、十四章に向かいます。まず十四章の一〜三節。
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』
先程みた十三章の終わりで、主は弟子たちのもとを離れるんだ、その時が来るんだということを匂わし始めました。弟子たちは不安をおぼえました。
「しかし心を騒がしてはいけません。神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい。そしてわたしはあなたがたのために住まいを用意し、もう一度来る。」という事を語ります。幾分、弟子たちの最初の不安を和らげるような内容が語られているのではないかなと思います。
そしてさらにイエスさまは、四節で、
『わたしの行く道はあなたがたも知っています。』
と語ります。しかし、またここでトマスという別の弟子が言います。
『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』
イエスさまは究極的には、数日後に迎えようとしておられるご自分の最期、十字架にかかり、葬られ、しかし三日目によみがえられて、その後もう一度天の父のみもとにあげられるという事を念頭に、話をしています。しかし、弟子たちは当初そのような理解ができません。「こんなに素晴らしい私たちのリーダーを失いたくない、どうか主よ私たちから離れないでください。」そのような思いがあったと思います。
私たち人間は、どうしてもこの地上的・物理的価値観で物事を考えてしまう、そのような存在であります。主が語ろうとしている十字架、福音の奥義、神の真理、そこに至ることは、どうしても弟子たちがしているような考え方・方法ではできません。これが私たちが福音を受け取る時の前提にもなるわけです。
ペテロ、トマス、後にピリポという人が出てきますが、このような個人の質問というのは、人間全般の共通の問題点を表していると言えるのではないかと思います。
先に進みます。六節、
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
この言葉の通りなのです。イエスさまご自身が、ご自分が道であり真理でありいのちだと宣言しています。イエスさまを通してでなければ、だれひとり父なる神のみもとに到達することはできない。これが福音の真理です。イエスさまが人類、私たち一人ひとりを父なる神に導くための道となられた。ご自身が道となられた。そしてそれが真理であり、いのちそのものだという非常に力強いみことばです。
ヨハネの福音書十四章六節というこの一節に、どれほど力強い神の国の奥義、真理が表されているか。そしてこのみことばを信じている私たちに、どれほどの素晴らしい神の恵みが注がれているかということがお分かりいただけるのではないかと思います。
さらにこのみことばを読み解いていくために、続く部分を見ていきたいと思います。七節、
『あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。』』
人々、イスラエルの民が求めている真の神。聖書に示され、イスラエルの歴史を通し伝承された父なる神を知りたい、父なる神にお会いしたい。この欲求は誰もが持っていたものです。当時の人々、また弟子たちは、今私たちが理解しているように、イエスさまが三位一体なる神のみ子イエス・キリストである、そういう理解には到達していないわけです。ここでの主題は、イエスさまご自身がまさに聖書で示されている、救い主であり、またそれ以上に、み子そのものが父なる神であるということです。この場面に至るまで、三年近く弟子たちは、イエスさまと働きを共にしました。ですから「そのようなわたしの姿を見ているあなたがたは、既に父をも知っているはずです。」とここで述べているわけです。『あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。』だから「今ことさらに父なる神の姿、その存在を求めようとすることすら必要ないんだ。わたしがそれだ。」と、イエスさまはご自身について語っています。
しかしまたピリポという一人の弟子がこのような問いをイエスさまに発します。十四章八〜九節、
『ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」
ここでもピリポの問いは、やはり地上的・人間的なところに終始します。イエスさまが「すでにわたしを見たということは父を見たのだ」と、伝えようとしますが、理解することができません。イエスさまに対して、「私たちに父を見せてください」とお願いします。
「見る」という行為、視覚というのは、私たちが今住まわされている地上において、何かを証明する方法としては最も端的なものではないでしょうか。「百聞は一見にしかず」という言葉が日本語にある通りです。「見たら信じますよ」ではないかなと思います。ここでもピリポの姿は、私たち人間の姿をそのまま表していると思います。
そして続けて「そうすれば満足します」という言葉が続きます。イエスさまもがっかりするような言葉ではないかと感じさせられてしまいます。でもこれが私たちの姿です。「父を見せてください。そうすれば満足します。」自分のためです。私たちが満足したいからです。私たちは信仰を持って主の道を選び、主のために歩もうとしても、どうしても地上的に答えを求め、見たい。そしてそれは何のためかと言うと、主のためどころか、私たちの満足のため。私たちはそのような弱い存在です。
九節でイエスさまは、はじめ「こんなに長い間、あなたと一緒にいるのに…。」と、少し悲しげにも読めます。私たちもクリスチャンとして主からこのような言葉をかけられるようなことがない者でありたいと思います。この地上における時間の経過と真理への本質的な理解度、言い換えれば主とどれだけ近い状態であるかということは、相関しないわけです。ときに、信仰暦がたった一日であろうが、一ヶ月、一年であろうが、主とものすごく近い方もいます。信仰暦が十年、二十年、三十年、四十年積み上がっても、私たちが、地上のことだけに目を向けていれば、イエスさまご自身への本質的な理解、またイエスさま、父なる神、聖霊さまという人格がある方との一対一の交わりがあるかは別です。時間が積み上がったら自動的にそうなるということではないのです。
このような弟子たちの質問と、それに対するイエスさまの返答の姿を見て、私たちは、私たちの姿を弟子たちに見て、反省し、イエスさまが語る通りの存在であるように、それを努めていきたいです。