主の道

そして続きますが、

『わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。』

と、さらに話が展開されていきます。『わたしが父におり、父がわたしにおられる』、イエスさまご自身が父なる神と全くの同質である、イコールであるとそのように言う事を信じなさい。その言葉さえもわたしが語っているのではなく、父なる神のことばであると、伝えます。子なるイエスさまは父なる神の故に、その言葉、またわざさえも行い、またそれは父なる神ご自身が成していることだと説いていきます。
「信じなさい」その方法について、「私がこういうのを信じなさい」とあります。「このわたしが語る父なる神の真理のみことば、神のことばを信じなさい」と語られています。

その次に、「さもなければわざによって信じなさい」とイエスさまは言われています。これは新改訳聖書の第三版ですが、二〇一七では「信じられないならばわざによって信じなさい」となっています。
私たちは信仰を持つ時に、この順番が逆になっていることが多いのではないでしょうか。何か出来事があって、主は素晴らしい。祈りが応えられて、主は素晴らしい。だから信じる。信じるから聖書も頑張って読んでみようか。このような順番になるのが私たち人間ではないかなと思います。しかしここで主がはっきり言われた通り、私たちが信じるのはことばです。主のことば、ここに真理があり、力があり、いのちがあります。
「信じられないのならば、わざによって信じなさい」。わざによって信じることが悪いことではありません。わざを求めることが悪いことではありません。しかし私たちは、私たちのこの地上的な価値観、私たちの満足のゆえに「主がこれをしてくださったから信じる」ということではいけないわけです。主のことばを信じるのです。
さらに言うならば、ことばを信じるということは、主ご自身の存在を本質的に、人格的に信じる。人と人が関わるように、そのお互いの信頼関係の中で信じるということではないでしょうか。
信仰というのは、「これこれを信じなさい」と言われ、頑張る!信じる!と言って、頑張ってしがみつく握力勝負みたいなものでありません。私たちは弱い、信じることも、理解もできない存在です。では何を信じるのか。主のことばを信じる。主のことばを信じるということは、主ご自身、その方を信じることです。その方に信頼をおいて私たちの弱ささえも投げ出して、その方に頼って、その方によって生きることです。信仰は、主との人格的な交わりの中に存在する信頼関係であるということです。

ここまでペテロ、トマス、ピリポという三人の弟子たちの代わる代わるの質問に、イエスさまは丁寧に答えてきています。一人ひとりに向き合って、一つ一つの質問に向き合って、丁寧に回答をされています。繰り返し学んでいるように、この三人の弟子たちの姿が私たちであり、またそのような私たちにもイエスさまは、人と人との交わりの形で丁寧に答えてくださる神です。
私たちも主との関係について、祈りについて、また福音について、本質的に見つめ直したいと思います。私たちの生まれながらの罪の性質、肉なる弱さ、そしてこの世の惑わし、悪魔の働き、それら全てをまずは正しく認識するべきです。私たちがそのような状態であるから救いが必要であるわけです。もう一度私たちは、私たち自身をしっかりと見つめ直し、そしてそれとは比較にならない神の素晴らしい福音、神の素晴らしいみことばを、日々慕い求めていきたいと思います。

今の時代、様々な暗くなるような状況が私たちを取り巻いていて、どのように歩むべきか本当にわからない、それが事実かもしれません。このような時だからこそ、クリスチャンの本質、信仰の本質についてもう一度考えるように、主ご自身が、私たち一人ひとりに挑戦し、「一歩先に進んでくれよ」と投げかけていらっしゃるのではないかと思えてなりません。

先週、瀧川充彦先生のメッセージで、人間は「現在」を基準にしてでしか物事を見られないというようなことが語られました。私たちは「今」という時にしか認識が持てない、過去というのは今現在の過去に対する記憶であると。だから過去が美化されがちという部分もあると思います。また私たちは、現在を通してでしか未来の希望・期待・展望を持てない。今が悪ければこの先も辛い・苦しい未来を想像してしまうし、逆も然りです。
私たちは「今」という、地上的な、人間的な価値観でしか物事がはかれない弱いものです。それゆえ、「今」という状況があらゆる要因で揺さぶられれば、私達自身が簡単に揺さぶられるものです。

サッカーのワールドカップの話が先週もされておりました。どういうお話だったかと言うと、日本は予選でドイツとスペイン、もう一つコスタリカという国と戦うことになっています。ドイツとスペインというのは、とてもサッカーの強い国です。日本がそうそう簡単に勝てるような国ではない。最初からなかなか難しい戦いだという前提があったわけです。一般論として、多くの方がコスタリカには何とか勝てるだろう。しかしドイツとスペインをどうしようかという中で、戦いに挑んでいたのです。
そして先週お話があった通りですが、そのような中でなんと初戦のドイツを破ることに成功しました。誰もが思ってないような出来事を起こせたわけです。そうするとどうなるかというと「ドイツに勝った」という、今の状態だけを見て、日本がサッカーの強い国になったと、認識が変わってしまいます。選手たちはそんなことはないでしょうが、日本の国民性というのは、そういうところは否めないと思います。これは、メディアで一斉に報じるところが理由のひとつだと思います。興味がない人でもすぐにニュースに目が留まります。
そして「ドイツに勝った我々は強いんだ、次も勝てるだろう」となるわけです。
しかしちょうどその日曜日の夜に行われた試合で、今度は勝てるだろうと思っていたコスタリカ相手に負けたのです。コスタリカに負けて、次はどうしても、スペインというドイツよりも強い国に勝たなければならない状況が生まれました。負ければ予選敗退、自力で決勝に進むためにはスペインに勝つしかない。そのような状況に一気に追い込まれました。そうすると、「日本がスペインに勝てるわけない。ドイツにたまたま勝ったけどやっぱりこうだよね。」というふうに、元の位置に、いやさらに悪いように考えてしまいます。これが本当に私たちの心のあり方だと思います。私たちは今の状況でしか物事をはかれない。過去も未来も。先週語られた通りです。
しかし今度は、勝てるはずもないような強い国に勝つという出来事を日本代表は起こしました。そして、日本中がサッカー日本代表をほめたたえています。「現在」が変わることによって、過去の評価も未来への希望・展望も変わる、この点を非常によく表した出来事であったと思います。また選手においては、強い相手に戦いを挑み勝利を得て、その姿は諦めないことの大切さを示し、私たちはそれを見て勇気をもらい、幾分士気が上がった部分があったと思います。
しかし、この一連の話は、たかだか一つのスポーツの国際大会の話であり、私たちクリスチャンは信仰の領域において同じ様に、それ以上に勇敢に戦い続けなければなりません。私たちにこそ全身全霊をこめて戦うべき戦いがあり、最後まで絶対に諦めてはいけない、私たちの命が尽きるまで戦う戦いがあります。私たちは信仰の戦いをともにしている人たちの姿を見て、より一層私たちの信仰が励まされ、私たちの士気が高まる、心が揺さぶられる、そうでなければならないのではないかなと思います。

お話ししましたように、現代は様々な状況が一夜にしてまるっきり変わってしまうような、目まぐるしい変化の時代であると言えるかもしれません。私たちはその変化に事あるごとに、ことごとく揉まれるだけ右往左往させられるだけの弱い存在ではいけません。一方で右往左往させられるのは事実です。瀧元望先生も、先日お話ししていた通り、「揺るがない」なんていうことはできません。だからこそ、主が必要である。主の十字架を見上げ続ける。それがクリスチャンであり、私たちの信仰であるというところに、もう一度、立ち返っていきたいと思います。弱くて当たり前です。だからこそ私たちは十字架を見上げます。この姿はイエスさまご自身もこの地上で体現されたことでした。ルカの福音書二十二章四十二節、

『「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」』

非常に有名なゲッセマネでの祈りです。み子であるイエスさまご自身が、その弱さを何も否まず、主に率直に祈りをささげました。しかし、同時にそのご自分の弱さが優先されるのではなく、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。弱さの中にあって主に委ねる、服従・従順を貫き通しました。十字架に至るまでその従順を果たし切りました。このイエスさまの姿を私たちは目を離さず見ていなければなりません。そのようにしてくださった結果、私たちが父なる神・真の命に至る道が備えられました。それは私たちが受け取っている素晴らしい福音の中身、一番大事な本質です。イエスさまご自身が、イエスさまのみが、道であり真理でありいのちだということです。

ここまでみことばから学んできました。今一度、私たち一人ひとり、信仰の領域においてもう一歩先へ進む、主の促しを受け取りたいと思います。信仰の領域において私たちが主に至る道、また主の道を歩むことに邪魔になっている、地上的なものを今一度、主の前に放棄したいと思うのです。

この教会に今主が求めておられることは、主との一対一の人格的な交わりだと思います。奥まった部屋での祈りというテーマでみことばが語られた時もありました。教会という単位で共に集い、共に歩み、交わりがあること、それは本当にとても大切で、教会の重要な要素だと思います。しかし、その根幹が主のみことば、主の真理によるのでなければ、他の交わりを持つ集団と何一つ変わらなくなってしまいます。それはこの地上だけの過ぎ去っていく儚いものです。
一人ひとりが父なる神と、主イエスさまを道として、聖霊様の助けにより、人格的に交わりがある、そこに福音の奥義が働いている、その集まりであるからこそ教会という単位に大きな祝福があり、力があり、恵みがあると、そのように思います。

私が私の立場で勝手にお話しする話ですが、今、滝元順牧師夫妻は、この教会の主任牧師としての立場や背景は関係なく、一人の人間、滝元順として、また一人の滝元享子という人間として、一対一で主と真っ向から思い切り向き合って、最後の最後の祈りの戦いをしているのではないかと思います。ゲッセマネでのイエスさまの祈りのように、血のように滴る汗を流して祈っている姿がそこにあります。究極的な祈りにおいては、そこに他者が入り込む余地はないのではないかと感じます。弟子たちは石を投げれば届くような距離で、少し離れた位置から、とりなし祈っていました。今私たちも、そのような状況にあるのかもしれません。
現在の状況を教えてほしい、祈りの課題があれば祈りたい、そういう皆さんの切なる助け、支えの思いは本当にありがたいです。私たちが今するべきことは、最後の最後の祈りの戦いを真っ向からしているその祈りを、少し離れたところから、しっかりと主に委ねて、私たちもそこで私たちの祈りをする。そのような形で祈っていただくことが今一番今必要なことではないかと、私個人としては考えさせられています。また義理の息子として、皆さんにその様にお願いしたい、そのような思いであります。
そして是非これも覚えておいていただきたいことです。仮に享子さんの病気の状態が、この地上においてどのように決着しても、それによって私たちは心揺さぶられてはいけません。どのように決着してもそれは敗北ではありません。命を握っておられるのは主です。そのことも私たちはこの教会の当事者として心動かされないように、そして今日見てきたように、いつもどんな時でも、地上的に物事を見るのではなくて、主の真理に照らして、今主が私たちに何を示しておられるかという視点で、この戦いをともに戦っていただけると感謝です。