ガザはイエスさまの時代も荒れ果てた場所でしたが、そこにピリポを遣わし、超自然的なことをなされたのです。現在、ガザに住んでいる人たちは、何千年も前からその地に住んでいた人たちの子孫です。途中で宗教が変わったり、文化が変わったりしたかもしれませんが、決して、神から見放された人たちではないのです。
数年前から、主が私たちに、「ヨルダン川西岸地区の人たちのために祈りなさい。」と示して下さいました。それで私も、パレスチナ自治区を何度か訪れました。新城教会からは、医療チームをその地に派遣して、難民キャンプでも医療奉仕をさせていただきました。それで彼らと、良い交わりができるようになりました。
最近、ヨルダン川西岸地区にも空爆がなされたりして、戦火がおよんでいます。たいへん心配です。極右政権が続く限り、戦火は拡大すると思われます。
ハマスも同様で、イスラム教徒以外は認めない、他宗教は全て殺害し一掃するという超過激思想の連中です。極右同士の戦いがどこに行きつくのか、それは推して知るべしです。主が直接介入がない限り、収束は期待できません。
しかし先週、ネットニュースを見ていたら、こんなニュースが載っていました。これが本当ならすごいと思いませんか?
ガザの人たちの所に、なんと、夢の中でイエスさまが現れたというのです。それも二百人くらいの人たちに、同じ夜に現れたと言うのです。
戦火のガザで現在、伝道している人たちがいると言うのです。命がけの伝道です。イエスさまの夢を見たイスラム教徒たちが、それらのクリスチャンの所に来て、「イエスさまについて、教えてほしい。私たちは、夢の中でイエスと出会ったからだ。」
これが本当なら、すごいではないでしょうか。最近、フェイクニュースもありますから、ファクトチェックが必要かもしれませんが、事実であってほしいです。
イエスさまは夢の中にも現れることができます。今から四年前の事ですが、家内に膵臓癌が発見され、死にかけていた頃でした。当時、私の孫は三歳でしたが、夢の中にイエスさまが現れて、「バーバに治る薬をあげるよ。」と言われました。その後、飲み薬で本当に治ったではないですか。そして同じ夢の中で、「バーバは一度は治るけど、死んで天国に行っちゃうよ。でも、完全な姿でやがて帰ってくるから心配しないで。」と語られたというのです。
私は彼に、「どうしてイエスさまだとわかったの?」と聞いたら、なにしろ、「はっきりとわかった」と言うのです。三歳児にわかるぐらいですから、イスラム教徒にだって、誰にだって、イエスさまはご自分を現すことができるのです。
彼は今でも、その時に見た夢をはっきりと覚えています。
主がガザの人たちに夢の中で現れたというニュースが本当であってほしいと思います。私たちは、超自然的な主のご介入を祈りたいです。ネタニヤフ極右政権の中にも、ハマスの中にも、夢の中でもいいから、イエスさまが現れて、「わたしが本物の神だ!旧約聖書に預言されているメシアだ!」と自己紹介してくれないと、世界はどんどん暗くなります。この時にこそ、クリスチャンが正しい領土観と神の国の世界観を持って、イスラエルのために、ガザのために、バレスチナの為に、とりなしていくことが重要です。
イエスさまの誕生を最初に知らされたのは、「羊飼いたち」でした。彼らがメシア到来の情報を最初に受けた人たちでした。
“さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。”(ルカの福音書二章八~九節)
イスラエルに行きますと、羊飼いたちを見ることができます。彼らは貧しい人たちです。二千年前と同じ文化の中で生活しています。ベドウィンと呼ばれる人たちで、彼らはシナイ半島を行ったり来たりしています。貧しく、国籍もないような人たちの所に、神はみ使いを送って、最も大きな喜びを宣言されたのです。
しかし近年、この羊飼いたちは、特別な羊飼いたちであったことがわかっています。
それは、「エルサレムとベツレヘムおよび周辺の野原は、普通の羊が飼われていたのではなかった。ユダヤ人の規則によれば、神殿奉仕のための羊であった。ベツレヘムの羊飼いたちは、やがてエルサレムの神殿で犠牲となる運命にある羊たちを見守っていたのである。」ということです。
彼らは、ただの羊飼いではなかったわけです。
そうだとすると、旧約聖書の関連から、深い意味が浮かび上がってきます。
「羊飼い」とは言いますけど、彼らは、羊だけを飼っていたわけではなく、ヤギも一緒に飼っていました。イスラエルに行きますと、羊とヤギが一緒に放牧されているのをよく見かけます。
ベツレヘムの羊飼いたちは、神殿で生け贄に使用される羊とヤギを飼育していたのです。旧約聖書においては、羊とかヤギを殺して血を注ぎ出すことが、神と出会う条件でした。
なぜ羊とかヤギを殺して神の前に出なければいけないのか疑問ですよね。このことに関して、以前、お話しさせていただきました。
宗教とは英語で「Region」と言いますが、語源はラテン語の「レリジオ」です。それは「きつく結ぶ」という意味です。「宗教」とは何か、それは二本の綱を固く結ぶ、結び目のことを意味します。
宗教学者たちが世界の宗教を広く調べて、「人類史的な尺度から宗教を見ると、動物供犠を中心とする犠牲の祭儀、供犠が宗教そのものであった。」と結論づけています。
聖書をその視点で見ますと、神と人が断絶した後、神との関係を結ぶために、宗教学者たちが指摘しているように、「動物供犠」が必要であった事がわかります。羊やヤギの血を流して神の前に出るなら、神と人の世界がつながり、交わることができたのです。
良い意味においても、悪い意味においても、霊的世界と結び目を作るためには、動物の血が必要です。悪魔もこの法則を頻繁に使って、人々を束縛しています。
仮庵の祭りの少し前、九月には、「ヨム・キプール」があります。それは二頭のヤギが用意されて、一頭は神への生け贄です。そしてもう一頭は、アザゼルへの生け贄でした。アザゼルとは、荒野に住んでいるとされる、悪魔の名前でした。二つの条件が満たされる時、民族の罪は赦されたのです。神との結びには、必ず、動物の血が必要だったわけです。
イエスさまがお生まれの知らせは、最初、羊飼いたちに対してでした。そこで飼育されていた羊やヤギは、やがて神殿で犠牲となる動物たちでした。
イエスさまの誕生は、羊とヤギに対しても福音でした。なぜなら、イエスさまが神の子羊となって下さることにより、動物供犠は必要なくなるからです。喜ばしい知らせ、福音は、全被造物に対する喜びの知らせです。
イエスさまは、「神の子羊」であり、天と地を永遠に繋ぐ役割のお方です。イエスさまは最初で最後の生贄となってくださいました。
イエスさまが十字架にかかって死なれた時、大声で叫んで霊を父なる神に渡されました。イエスさまは殺されたのではないのです。その時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。「地が揺れ動き、岩が裂けた。墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。」と記されています。これはまさしく、神と人との間の隔てがなくなった瞬間でした。人はやがて復活できることを証明して下さったのです。「墓が開いて眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った」からです。すごいではないでしょうか。
イエスさまの十字架刑は「過越の祭り」の期間に行われました。神殿で子羊が屠られて、至聖所に血が持ち込まれたのは午後の三時でした。その時刻に、イエスさまは十字架で死なれたのです。
また十字架は、ヨムキプールと関連があります。
ヨムキプールでは、完全に同じ形の傷のないヤギが二頭必要でした。一頭は神に、一頭はアザゼルにささげる為です。ヨムキプールの場面を、十字架の場面にも見ることができます。マタイの福音書二十七章十五~十七節、
“ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」”
イエスさまは十字架につく前、裁判にかけられたのですが、裁判官のピラトは、「イエスには何の罪もない・・。」と気づいたのです。いろいろ考えて、イエスさまを釈放しようと試みたのです。
その頃、民衆がよく知っている「バラバ」という囚人が捕らえられていました。過越の祭の習慣として、恩赦がありました。ピラトは「イエスか、バラバか」どちらかを釈放する提案を民衆に示しました。バラバは普通では許されない囚人でした。「どちらかを釈放する。選べ。」と提案したのですが、民衆は、「バラバを釈放しろ。イエスを十字架につけろ!」と叫んだのです。
新改訳2017だと、この表現が次のようになっています。お気づきでしょうか。
“そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。”(マタイの福音書二十七章十六節)
2003だと、
“そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。”
2017訳では、「バラバ・イエス」となっているのです。すでにご自分で調べられた方もおられるかもしれませんが、バラバは本名ではないというのです。本名はなんと、「イエス」です。
当時、「イエス」という名前はポピュラーで、特に、長男の名として広く付けられていたようです。そのため、ニックネームをつけてイエスという人物を呼んでいて、「バラバ」はニックネームでした。
バラバは、正確にはアラム語で「バル・アバ」これは、「父の子」という意味でした。
「イエス」とは、特殊な名前だと思うかもしれませんが、日本で言ったら、最近はあまりないけれど、次郎、太郎、三郎みたいな、苗字で言ったら、鈴木とか、田中とか、ごく一般的なものでした。「イエス」と言っても、「どのイエスなの?」みたいな感じだったわけです。
それで「イエス」という名前がついた人たちには、ニックネームをつけて呼んでいたのです。イエスさまも、「ナザレのイエス」というニックネームがついていました。なぜなら、「ナザレ」という村は小さくて、そこにはイエスという名の人がいなかったのでしょう。だから、「ナザレのイエス」と言ったら、「あぁ、最近、奇跡とかやってる話題の男ね!」とわかったわけです。
「バラバ・イエス」も、「バラバ」は「父の子」という意味でした。律法学者やラビの中で、人々から尊敬された人々が、「アバ」と呼ばれていたのです。
“おそらくバラバの父親は、優れた宗教的指導者で、民衆の間に影響力を持った人であったと思われ、彼自身も「民衆に人気のあった囚人」という意味だと思われる。”と言うのです。
ピラトは群集に、「バラバ・イエスか。キリスト・イエスか。」と選択を迫ったわけです。
バラバとは、「父の子」で、父親は有名人でした。イエスさまも父なる神の子でした。
なんと、バラバは、「父の子」、キリスト・イエスも「父の子」です。二頭のヤギみたいです。バラバ・イエスは「神による無条件の赦し」を表し、キリスト・イエスはアザゼルのヤギのポジション、死の霊、サタンを打ち砕いて下さいました。十字架の場面においても、旧約聖書の預言に沿った、深さ、広さ、高さがあって感動です。
イエスさまの十字架を心から感謝しなければいけないです。
コロサイ人への手紙二章十三〜十五節はイエスさまの十字架の全容が述べられています。
“あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。”