2024年1月21日(日)新城教会主任牧師 滝元順
詩篇 70篇4~5節
“あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。私は苦しむ者貧しい者です。神よ私のところに急いでください。あなたは私の助け私を救い出す方。主よ遅れないでください。”ルカの福音書 24章32~34節
“そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。”
ハレルヤ!今朝の賛美の中で流れていたテーマは「神の国の到来!」と「復活のイエスさま」、そして「やがて帰って来られるイエスさま」でした。感謝します。
そして、私のメッセージも、そのようなテーマを導かれています。
「イエスさまは帰って来られます!」と、お隣の方に宣言してください。「イエスさまは帰って来られます!」
イエスさまが帰って来られることが事実でないなら、信仰をやめた方がいいです。棄教した方がいいです。なぜなら聖書の中心は、やがてイエスさまがこの地に来られるという約束だからです。
先ほどのお知らせの中にもありましたが、今週は韓国からパク宣教師が来てくださいます。水曜主日礼拝でメッセージを語ってくださいます。また木曜日は、木曜賛美集会の前に、交わりの時を持ちたいと思いますので、ネパールに行かれた方々など、ぜひ、集まって下さい。ご一緒に、世界宣教のビジョンに燃えたいと願います。
機会があったら、もう一度ネパールにも宣教に行ったらいいと思います。若い方々にぜひ参加していただきたいです。
私のために祈ってくださって感謝します。
主は私に慰めを与えてくださり、新しい命を与えて下さいました。昨年生まれた孫ですが、本当にいい子です。見てください。既に、私の為に、このようなTシャツを着ています。
英語がわかる方は意味がわかると思います。「私はおじいちゃんが好きで好きで好きでたまりません!」というTシャツを着てくれているからです。私が買ってプレゼントしただけの話ですが。
今日は午後から晴れると思いますので、ぜひ県民の森の祈祷会に行って下さい。先週も多くの方が行かれて、たいへん恵まれました。新年に県民の森で祈ることは重要だと感じました。
なぜなら一九九二年、ここで聖霊が注がれて、それからずっと祈り続けられている森だからです。先週の月曜日の夜も祈りました。ここは天と地が結ばれている地で、天のはしご・階段があると思います。ベテルという場所がそうであったように、神は場所を選ばれます。先週は二人の少年と一緒に、祈祷会の祝福を真剣に祈りました。彼らは「被造物も協力して祈るように」と祈っていました。大雨の中でとりなしの祈りをしたのですが、終わると晴れました。主がこの場所に栄光を現そうとしておられる!と確信しました。
先週は県民の森祈祷会に子どもたちも行って、そこに落ちているどんぐりや小枝を使って、こんなふうに地面に書いていました。「Don’t be late. おくれないで!」私が今年、導かれているみことばを地面に書いてくれました。子どもたちにも今年のテーマが浸透していて、本当に嬉しいです。私たちが叫んで祈る時、主は必ずことを成してくださいます、特に「遅れないでください!」という祈りは大切だと思います。
ダビデが、『私は苦しむ者貧しい者です。神よ私のところに急いでください。あなたは私の助け私を救い出す方。主よ遅れないでください。』と祈っています。
様々な苦しみの中で、ただ「助けてください!」という祈りだけでなく、「主よ。遅れないでください!」という祈りに、ダビデは導かれました。今の時代、この祈りが特に必要です。
終わりの時代になると、『国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。』とあります。日本はどこに行っても地震から逃げ場がありません。
能登半島で起こった地震、現地は大変です。リバイバルミッションでは先週から調査を開始して、支援の働きを始めています。新城教会も、義援金を集めて届けたいと願っています。義援金の箱がありますので、ささげていただきたいと思います。まずは新城教会関係で被害を受けた親族とか、ご友人の方々に支援ができたらと考えています。明日は我が身かもしれません。守りを祈らないといけないです。太平洋側に大きな地震が来ると言われて久しいです。地震が起こったら、生活は一瞬にして崩れます。すべてを放棄して対処しなければなりません。それが十秒後に起こるかも知れない不安定な島の上に、私たちは暮らしています。神さまが天地創造をされた時、本来、日本列島は人が住んではいけない場所として創造されたのではないかと思います。
日本列島が防波堤のようになって、地震や津波を吸収して、大陸が守られるように地球を設計されたのではないかと時々思います。
バベルの塔の罪によって人類は拡散し、日本列島に人々が住み着いてから、この列島に住む人たちは、常に地震による苦労を体験しています。
しかし人は被造物の管理人ですから、管理人が神に祈るならば、状況は変わると信じます。
『国は国に敵対して立ち上がる。』とありますが、イスラエルでのガザ戦争もたいへんです。日本は現在、国内問題が多くて、あまり報道されていませんが、実際は大変な状況になっています。人類はこれからどうなるのか心配です。
先週は、イエメンのフーシ派に対して、英・米が応戦をエスカレートさせました。ガザで始まった戦争が、世界に拡大しているのです。イスラエルはガザでハマスと戦っているだけでなく、レバノン国境でヒズボラと戦っています。
そして今度は、イエメンのフーシ派が、イスラエルに協力する国々の船舶に攻撃を仕掛け、それに応戦しているのです。この背後にはイランが関わっています。下手をしたら、第一次、第二次世界大戦もそうであったように、第三次世界大戦にまで発展しかねません。現実を知ったら、夜も眠れないぐらいの状況が迫っています。聖書の告げる「世の終わり」に近づいている今日この頃ではないかと思われます。人類の歴史は、もはや神の介入がない限り、収拾が付きません。どんどん破壊が拡大しています。これは聖書の預言の成就と共に、さらなる祈りを要請されているのではないでしょうか。
これを見てください。イエメンでのデモです。
パレスチナ人とガザを支持する集会に、これだけの人が集まっています。「イスラエルを潰せ!」という集まりです。日本ではあまり報道されていないですが、祈りが必要です。
でも一つ、私にはわからないことがあります。世界の戦争のほとんどが、調べてみれば、一部の利益の為に作り出されたものです。戦争は偶然に起こるのではなく、意図的、計画的に作り出されるからです。
中東に、カタールという小さな小さな国があります。しかしカタールは、イスラエルとハマスの仲介役になっています。そして、わからないのは、ここにアメリカ中央軍の本部があり、米兵一万人が駐留しているからです。さらにカタールには、ハマスの本部もあるのです。何が起こっているのでしょうか。こんな小さな場所に、どちらが敵で味方なのか、もしくは全員がグルなのかわかりません。こういう現実も忘れてはなりません。世界には裏の世界があるわけです。これから世界情勢はどうなるのか・・。
ハマスは高級ホテルのスイートルームを拠点としてガザに指令を出しているとも言われます。なんだかわけがわかりません。
霊的な目を開いて、正しく祈らなければならない時代であることは確かです。
クリスマス礼拝の時もお話ししましたけれど、「救い」とは、切り倒された切り株から出ると話しました。
イザヤ書十一章一〜、
“エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。”
一般的に、大木が切り倒されたら、二度と再生しません。しかしそんな状態の中から救いは現わされるのです。
日本も、世界も、切り倒された大木のような状態です。将来に希望を持つことが難しい現実があります。しかしこのように暗闇が深い時にこそ「救い」は現されるのです。
弟子達にとって最も大きな失望は、イエスさまの十字架の死でした。イエスさまには十二人の弟子がいましたが、ユダが裏切って十一人となりました。しかし周りには七十人の弟子たちとか、多くの人たちが従っていたわけです。なぜならイエスさまこそ、イスラエルをローマから解放し、国を再興されるに違いない!と信じていたからです。
しかし期待とは裏腹に、イエスさまは捕まえられ、ローマによって処刑されてしまったからです。
イエスさまの十字架の死は、イエスさまに期待し従っていた者たちにとっては、最も大きな誤算であり、失望であったに違いありません。
しかし切り株からの救いを表すかのように、イエスさまは、死から復活されたのです。それは普通では絶対に信じられない出来事です。死んだら生き返ることは不可能です。しかしイエスさまは、死から復活されたのです。そして弟子たちに姿を現されたのです。
信仰のゴールをどこにおけばいいのでしょうか。多くの場合、「救いのゴール」が、死後の世界に設定されている事が多いです。「死んだら天国に行ける」という望みで決着していのです。それも一つの救いである事は確かです。家内は死にましたが、今、天にいるのは望みです。私も死んだら、同じ場所に行って、会うことができるはずです
この教会、七十一年目になるわけですが、多くの方々が救われて召天されました。今や天の新城教会の方が賑やかかもしれません。そこがゴールのように考えるのですが、それは大きな間違いです。イエスさまが死から復活されたように、私たちの信仰のゴールは、死後の世界ではなく、復活です。
現在、世界で最も著名な神学者は、NTライトでしょう。彼がどうして優れていると評価されているのかというと、世界に聖書学者は多くいても、イエスさまが生活されていた時代と背景について、実際的によく研究し、豊富な知識を持っている聖書学者は少ないからです。
しかしNTライトは、時代背景と当時の文化をよく知った上での聖書学者です。初代教会のクリスチャンたちが、どんな世界観を持っていたのかを詳しく研究して、本を書いています。
前にも紹介したことがあるのですが、彼の著書に「驚くべき希望」があります。読まれたらいいと思うのですが、そこに、このように記されています。
“初代教会の人々の将来の希望は、その中心に復活を確固として捉えたものだった。初期のキリスト者は、単なる死後の命を信じていたのではない。彼らが単に死んだら天国に行くと語った事は、事実上全くない。そして彼らが天国は死後の目的として話す時は、天的な命を最終的な体の蘇りに至る途中段階の一時的なものとみなしていた。”
初代教会の人たちは、救いのゴールが「死後の世界」とは考えていなかったのです。それは途中段階で、死からの復活が最後ゴールだとしっかりと理解していたと言うのです。
「彼らが単に死んだら天国に行くと語った事は、事実上全くない。」と言うのです。
続いてこう語っています。
“イエスは十字架で強盗の一人に、「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」と言ったが、次の章を見るとパラダイスが彼らの最終目的はなかったことは明らかである。パラダイスはむしろ、神の民が復活の前に一時的に休息する喜びに満ちた園だ。イエスが「父の家には住むところがたくさんある」と言った時の「住むところ」にあたる単語「モレー」は、一時的な宿泊所を意味する。”
初代のクリスチャンたちは、死後の世界をゴールとは考えていなかったのです。「パラダイス」は、「一時的な宿泊所」だというのです。現在、家内も、一時的宿泊所にいることになります。
「永遠のいのちとは何か」、それは「死後のいのち」ではなく、「死後のいのちの後のいのち」です。やがて地上に現れる新しい地を天国と呼ぶのです。初代のクリスチャンたちはそのことをしっかりと理解していたのです。