主よ。遅れないでください!
復活の主と共に生きる。

しかし当時、世界をギリシャ哲学と文化が覆っていました。それはギリシャ神話を背景とする世界観で、キリスト教もその影響を多分に受けたのです。その世界観に汚染された結果、ギリシャ神話の神々の世界がそうであるように、「天国は死後の世界!」と変えられてしまったわけです。

イエスさまが死から復活されたように、「死後のいのちの後のいのち」があるのです。私たちも、初代教会のクリスチャンと同じにならないといけません。それを真の「将来と希望」とするのです。

イエスさまが死から復活されたその日、女たちが墓に行って、イエスさまの体がないことを確認しました。また復活のイエスさまと出会ったり女もいて、弟子たちと周りは騒然としたのです。
その日、二人の弟子たちが、エルサレムからエマオという村に向かっていました。

“ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。”

一スタディオンは百八十メートルと言われますから、エルサレムから十二キロくらい離れたエマオ村に向かっていたのです。エルサレムはこの日、騒然としていました。二人の弟子の一人はクレオパですが、もう一人の名前はわかりません。彼らはエルサレムでの騒動を知っていましたが、エマオに向かっていました。

“彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。”

と記されています。二人の弟子たちは、朝、イエスさまがよみがえった!という情報をゲットしたと思うのですが、混乱していたのです。「そんなことってあるか!」と、二人でいろいろ論じ合っていたみたいです。
そうしたら、なんとよみがえられたイエスさまが二人に近づいて話しかけられたのです。しかし『二人の目はさえぎられていて、イエスであることがわからなかった。』

その様子を描いた有名な絵画があります。こんな感じだったのでしょうか。昔この絵が、我が家に長いことありました。

“イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。”

イエスさまは二人に、「あなたたちが話し合っていることは何ですか?」と尋ねられたのです。すると二人の弟子たちは、

“そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」”

と、弟子のひとりは、本人であるイエスさまに、こんな言葉をかけているのです。
ルカの福音書二十四章二十五〜二十七節、

“そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。”

二人の弟子たちは混乱しながら、討論していたのです。しかしそこに、復活されたイエスさまが近づかれたのです。そして、それが事実であることをイエスさまは、旧約聖書から始めて、その流れを二人の弟子たちに説かれたのです。

ここから学べることがあります。復活のイエスさまと出会うための条件は、まずは、イエスさまの復活のことを話題にすることです。お昼にカレーライスを食べる時間がありますが、皆さんはどのようなことを話題にされますか。明日はカレーライスの日らしいです。そんなことではなくて、イエスさまのことを話題として話し始めると、イエスさまが、「話していることは何ですか?」と近づいてこられるのではないでしょうか。
クリスチャンの交わりの中で、イエスさまを話題にすることは大切です。特に、イエスさまの復活について、新しい命について話題にすると、理解できないかもしれないけれど、知らないうちにイエスさまが近づいて、我々に教えて下さるのです。

“彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。”(ルカの福音書 二十四章二十八~三十一節)

弟子たちは、イエスさまと気づかないまま、いろいろと聞いて、もっと聞きたいと思ったみたいです。しかしイエスさまはもっと先に行かれるようでした。それで、「一緒に泊まってください!」と勧めたら、イエスさまは一緒に泊まってくれたのです。
しかしその時、『イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。』とあります。

その瞬間、彼らの目が開かれたのです。「パンをとって祝福して裂いて渡された。」これは何を表しているのでしょう。それは最後の晩餐で行われた、「聖餐式」を表しています。
「聖餐式は重要!」と、私は毎回語っています。聖餐式は復活のイエスさまと出会う場所です。
いつも話していますけれど、私は朝起きたら、必ず最初に聖餐式を行うことにしています。聖餐式は、復活のイエスさまと出会う場所であるからです。
復活のイエスさまと出会うと、変えられるのです。次に二人がこう語っています。

“二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。”

彼らは復活のイエスさまだと、知らずして交わり、心に変化が起こったのです。どんな変化が起こったのかというと、『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。』
復活のイエスさまと共に歩むと、内に心が燃え始めるのです。

心は燃えていますか?
あまり燃えてないという方は、復活のイエスさまと出会って下さい。復活のイエスさまと共にいれば、どんな状況の中でも『心は内で燃えていたではないか。』と、イエスさまの姿は見えず、認識できなくても、心が燃え始めるのです。

甲子園ミッションから、三十一年目になるのですが、あの頃って、私も若かったです。そして心が燃えていました。誰にも勧められなくても、献身者が五十名ぐらい与えられました。リクルートしたわけでもありません。自動的に集まってきました。どうしてかと言ったら、全国で、若者たちが心燃やされたからです。主のために働きたい!と、心燃やされて集まったのです。甲子園ミッションは心燃えた人たちによってなされました。

その頃と比べると、最近、内に燃えるものが少なくなったなという方、もう一度、復活のイエスさまと出会い、心を燃やして下さい。

彼らはイエスさまを認識した後、すぐに方向を変えて、エルサレムに戻ったのです。人々は喜びに溢れていました。すると、

“これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。”

なんと、復活のイエスさまご自身が現れたのです。これは預言的な意味を持っています。やがてイエスさまは、地上に、肉体を持って姿を現されるということです。

イエスさまが肉体を持って現れた後、
“そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。”

と記録されています。姿を消してしまわれたのです。けれども彼らは、

“彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。”

イエスさまは昇天されたのです。イエスさまの姿が見えなくなってしまったのです。
しかし弟子たちは失望しませんでした。復活のイエスさまと出会い、『大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。』と、その火は消えなかったのです。

イエスさまは復活されましたけれど、続いて昇天されました。イエスさまの昇天と聞くと、なんかH2ロケットの打ち上げのようなイメージがあります。しかしこれも二千年前の人たちの世界観とは、だいぶ違います。彼らはどう理解したのか?
NTライトは著書で、

“昇天は、真に人間であり続けるイエスについて語っている。イエスは人間であり続けるがゆえに、重要な意味で私たちの元を去り、同時に同じぐらい重要な意味で、新しい形で私たちと共におられるのだ。・・・聖霊と聖礼典こそ、イエスがここにおられるための方法だからである。イエスは今も人間であり、実際に体を持っている。しかもそれは私たちの体以上に、もっと確かな体なのである。”

と述べています。イエスさまが昇天されたのは、私たち以上の完璧な体で新しい形で私たちと共にいる為だというのです。私たちの元から去ってしまったように見えるけれど、「新しい形で、私たちとイエスさまは共にいる」というのが、昇天の意味だというのです。
「新しい形でイエスさまと常に共にいる」・・・復活のイエスさまと常にいる条件について、ライトは「聖霊と聖礼典」だと語っています。
これは何か。聖霊の働きと、聖礼典、すなわち、バプテスマと聖餐式のことです。とりわけ聖餐式は重要です。聖霊さまと聖餐式によって、二人の弟子達と同じように、私たちも復活のイエスさまと共にいることができるのです。その結果、心が燃えるのです。

九二年に聖霊が注がれた後、心が燃えました。霊的戦いが始まって、戦いに出て行く前に、主が語られたのは、「戦う前に聖餐式を行え。」でした。今から振り返ると、それは復活の主イエスさまと共に戦うためでした。

心が燃えていなかったら、聖霊によって歩むことです。
今日、県民の森に行って、聖霊さまを求めて祈ってください。祈祷会の後は、聖餐式があります。復活のイエスさまと共に過ごす為です。

三週間ぐらい前、この教会に来られている、常に少年の心を持ち続けているおじさんと交わりをして、私はたいへん恵まれ心が燃えました。その証し、許可をくださったので、名前は言いませんけれど、きっとわかるかとは思いますが話します。
彼はどこの出身かというと、九州の出身です。それも鹿児島県の出身です。彼は少年時代、一応教会には行っていたそうです。でもあまり積極的なわけではなく、高校も行き始めたけれど、面白くなくて途中で辞めてしまったそうです。心暗く、引きこもりのように、日々を過ごしていたというのです。
でも彼は、いつも祈っていたそうです。ある時、彼が住んでいた街、鹿児島の十万人そこそこの街ですが、二ヶ月弱ぐらいの間に、大きな事件が三つも起こったそうです。悲惨な殺人事件とか、高校生の鉄道自殺とか、いろいろ事件が起こって、心が苦しくなったと言うのです。
どうしてこんなことが立て続けに起きるのだろうか?と、主に祈ったそうです。その時は心も暗く、悲しみの中で祈ったそうです。
お母さんが熱心なクリスチャンで、引きこもっている彼を教会に連れて行ってくれたそうです。そうしたら、鹿児島のある教会で、チラシをもらったそうです。それが何のチラシかと言ったら、リバイバルミッションの決起集会が福岡であるという案内のチラシだったそうです。
そのチラシをもらった時、神さまから「この集会に行きなさい。答えがある。」と語られたと言うのです。でも彼は、仕事をしていなくて、お金がないので、どうやって福岡まで行こうかと考えたそうです。
それで彼は鹿児島から、自転車で二日間かかって、福岡まで行ってリバイバルミッションの集会に出たそうです。そうしたら彼の心に火がついたというのです。そして自分が街に住んでいるのは、街の祝福のために祈らなくてはいけない!いや!自分の街だけでなく、日本のために、世界のために祈る使命がある!と、心に火が点いたと言うのです。
それで、いてもたってもいられなくなって、私も知っているのですが、自転車少年、九州全県を自転車で巡って、ミッションの集会に参加したのです。私は本当にびっくりしました。「あの少年、また来た!」「また来た!」どのようにして来たのかを聞くと、「自転車で来た」と言うのです。毎晩、どこに泊まっているの?と聞いたら、「電話ボックス」と言いました。ダンボールで電話ボックスの隙間を埋めると暖かく寝られると話していました。「すごいなぁ!」と、感動しました。相当心が燃えないと、そんなことはできません。
私たちは、彼が少し哀れに見えて、弁当を一個差し上げました。「これでも食べて、次の集会に来て!」と言ったら、彼は喜んで受け取った途端、弁当を逆さまに落としてしまいました。でも、落とした弁当を丁寧に拾って、食べていました。次の集会にも、次の集会にも、彼は自転車で九州を一周して参加しました。