2022年10月30(日)新城教会牧師 四元雅也
ペテロの手紙 第一 4章10節
『それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』
ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日はこうしてお話しさせていただく機会が与えられたことを心から感謝いたします。
まず皆さんに心から感謝したいことは、今年は八月と今月の二回、私の子どもたちが結婚式を挙げさせていただき、皆さまにお祈りをいただいて無事に行うことができ心から感謝します。こういう時期ですし「コロナになりましたので結婚式延期します」とは言えないので緊張感があったのですが、守られましたことを感謝します。
今年は結婚式が続いています。すでに報告されていますけど、四月にはA夫妻がアメリカで結婚式を挙げられました。そして五月にはインターナショナルの方、B夫妻が結婚されました。そして六月にはC夫妻。そして八月にD夫妻。そして十月にE夫妻と結婚式が挙げられました。今から一年遡るともう一組あります。去年の十一月ですが、F夫妻です。私はF君の叔父にあたりますが、本当に結婚式の中で笑いあり号泣ありで、楽しい素晴らしい結婚式でした。
そして、やれやれこれで今年の結婚式も打ち止めかと思われましたが、今日の週報にまた新たな告知がされていました。新しいカップル誕生ということで驚きです。来週、G君とHさんが婚約され、早くも十二月三日に結婚式を挙げられるということで、すごい恵みですね。ですからこの一年間に六組、七組という結婚式が開かれるという、これまでの新城教会の歴史にないほどの恵みでした。これも一つのリバイバルではないかと思わされます。
でも、実は過去に一度だけありました。九三年に甲子園リバイバルミッションがあったのですが、その翌年、九四年から九五年にかけて、二年ぐらいの間に十組以上結婚したという「結婚豊作年」がありました。怒涛のような二年間で、ご祝儀貧乏が続出したという、その原因の一端は私にもあるわけですが、私たち夫婦は九五年十一月十一日に結婚させていただきました。来月、満二十七年の結婚記念日を迎えます。
今日の午後は河川敷で賛美と祈りの時間が持たれます。先週の礼拝メッセージでは、新城教会のリバイバルの働きと河川敷との関係が、順先生と享子先生との結婚秘話の絡みで証しされていました。私も聞いたことがなかったので、大変驚きました。
今、この教会では河川敷でよく祈りや賛美が行われていますが、なんと順先生ご夫妻のカップル誕生にその原点があったということであります。すごいですね。求め、探し、叩くという、しつこいまでの祈りということを先週は語られていましたけど、来週婚約されるG君も、今年はよく祈っておられました。皆さんも今日は河川敷で、新しい結婚の油注ぎのためにも祈っていただきたいなと思いますので、ぜひご都合がよろしければ、みなさん参加してください。
今年になって新城教会の中では、コロナで二年以上とどまっていたものが、いろいろ動き始めました。その一つが結婚の祝福ですが、続けて教会の中に現わされていくように、皆でお祈りをしていきたいと、そんなふうに思います。
それでは、メッセージの本題に入っていきたいと思うのですが、今日は第一ペテロ四章十節のみことばから、「神さまの恵みの良い管理者とならせていただくために」というタイトルをつけさせていただきました。
『それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』
このみことばから学んでいきたいと思います。
今日のメッセージのトピックは、今のみことばから、エコロジーについてお話をしていこうかなと思っています。
今年の五月に「聖書とエコロジー」という本が出版されました。リチャード・ボウカムという神学者が書いた本です。この教会でも時々紹介されている山口希生先生が翻訳されています。先生は神学者で山崎ランサム先生と同じ神学校で教えておられます。この本を読んで、いろいろ勉強になったことがあったので、皆さんにご紹介しながらお話を進めていきたいと思います。
「エコロジー」は最近よく耳にする言葉だと思います。今、エコロジーがとても大事だと言われていますが、エコロジーとは一体なんぞや?
それをネットで調べてみますと、こんなふうに書いてあります。
“・生物とそれを取り巻く環境の相互関係を研究し、生態系の構造と機能を明らかにする学問。
・人間を生態系を構成する一員としてとらえ、人間と自然環境・物質循環・社会状況などとの相互関係を考える科学。”
なかなか難しい説明ですけど、この「エコロジー」という言葉の響き、この響きには、皆さん、どんなことを思われますか?なんとなく地球上に存在するあらゆるものが、その命のあるなしに関わらずに互いに繋がっている。それぞれ互いに依存し合って、私たちの命も含めた、地球の営みが成り立っている、そんな感覚を持った言葉ではないかなと考えておられるでしょうか。「私たちは個々に一人で生きているんじゃないよ!いろんな人との繋がりがある、動植物との繋がり、また命のない地球の様々な資源、またすべての被造物、それらと私たちは繋がっている」というようなことを「エコロジー」という言葉の持つニュアンスから私たちは受け止めることができるのではないかなと思います。
ご紹介した本は、聖書的な観点から、エコロジーについて述べています。私たちは被造物の管理人であるということが、何年も前からメッセージを通して語られ、私たちも教会として受け止め、一人ひとりが地球の管理人だという意識を持って生きてらっしゃると思うのですが、そのような私たちの立場をさらにみことばの解き明かしを通してしっかりと受け止めていく、そのために良い本だと思いました。その中から学んでいきたいと思います。
さて、聖書が私たち人間を被造物の管理人として任命されている事は、聖書の書き始めの創世記一章から二章に、すでに描かれています。神さまによる世界の創造が記されている、その箇所です。ここでは神さまが六日間にわたって世界の創造作業を行われ、最後に人間を造られたと記されています。
本の中で、この六日間をリチャード・ボウカムは、こんなふうに区分しています。
六日間の創造を、表の左側、一日目から三日目と、右側の四日目から六日目の二つに区分して、それぞれにテーマを挙げています。
一日目から三日目は、一つにまとめて、世界を形作る土台となる環境を創造され、それにそれぞれ名前を付けられました。
そして四日目から六日目までは、さらに神さまによって造られたその環境の中で生きるすべてのものを造られ、それを祝福され、さらにこれらの上に祝福としての責務、役割を命じられたということが書かれています。
創世記の一章一節には、創造以前のことが少し描かれており、地・水・闇が形なく不毛、混沌としている中で、神の霊が動いていた。
そして、一日目の創造が始まっていくのですが、表で一日目に神さまは、光を闇から分離して、「光あれ!」とおっしゃられ、神はそのできた光を良しと見られ、分けられた光と闇に「昼」と「夜」という名を付けられたとあります。
第二日目には、神さまが大空を造られ、大空の上の水と下の水とを分け、上の水がある場所を天と名付けられた。
第三日目、神さまは分けられた下にある水を、一所に集められて、乾いた陸地を造られ、乾いた土地と下の水を、それぞれ「地」と「海」と名付けられた。また、それに加えて植物を生じさせられた、神さまはこれらをご覧になって良しとされたと書いてあります。
このように、その後に出て来る生き物が住まう環境を、神さまは一日目から三日目までで整えられました。
第四日目は、神さまは一日目に造られた光を司る、太陽・月・星々を造られ、それぞれ役割として、太陽には昼を治めさせ、月には夜を治めさせることを命じられ、それを良しとされたと書いてあります。
第五日目に神さまは、海の中に住む生き物を生じさせ、また大空を飛ぶ鳥を創造されました。神はそれらを良しと見られ、その生き物たちに「産めよ、増えよ、満ちよ」という三つの祝福を与えられました。創世記一章二十二節、
『神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。』
これが第五日目。
そして第六日目には、神さまが地の上に住まう生き物、動物とか地を這うもの、虫たちとかそういうのもそうだと思いますけど、それを造られ見て良しとされた。最後に神さまは、創造の集大成として人間を造られたということです。
人間を造られる時、神さまは特別にみことばを発せられました。創世記一章二十六〜二十八節、
『神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」』
このように、神さまは造られた生き物全てに対し、二度にわたって祝福のことばとして、「生めよ。増えよ。満ちよ。」と発せられていることが分かります。
この中で、神さまが人間を創造された時には、それまで創造された海の生き物、空の鳥、地の上の生き物とは違った祝福を宣言されたわけです。それが「地を従えよ。」「生き物たちを支配せよ。」という言葉であります。
「従える」は、ヘブル語で「カバッシュ」そして「支配せよ」とは「ラダー」と私たちに命じられました。これは旧約聖書の中に何回も出てくる言葉です。
ここから、人が他の被造物たちとは違って、この地を管理するものとして召されているという事を私たちは知ることができるのです。これは以前から語られていることです。
ここで「支配せよ」と、神さまが人間に対して語られているのは、どういうことなのか?ということを考えていきたいと思います。
「カバッシュ=地を従えよ」という言葉は、その前に書かれている「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」という、全ての生き物に対して先に語られた祝福の言葉の後ろに付け加えられています。「地に満ちよ」と「地を従える」ということが、互いに関連性を持つような形で人に命じられているということに注目したいと思います。
「カバッシュ」という言葉は、他の聖書の箇所ではどんなところで使われているかというと、「占拠する。所有する。」という意味で使われている言葉です。
例えば、イスラエルの民が荒野の旅を経て、カナンに入る時に、そこにいた先住民を滅ぼして、そして彼らに変わってそこを自分たちの土地とする。そこを占領し、所有する。そういった時にカバッシュという言葉が使われているわけです。先にいた敵を追い払い、土地を所有するということです。
それまで先に土地を占拠していた者たちを、敵として追い払うことです。神さまが与えられる土地そのものを敵対者として、力ずくでねじ伏せて征服しなければならない対象として「土地」を指しているものではありません。
先に「地に満ちよ。」と言われているように、占拠して討ち滅ぼしていくのは、そこにいた敵たちに対してであって、土地に対してではないということです。
人によって従わせるべき土地とは、そのまま、人がそこに住んで満ちるべき土地であって、従わせるべき土地と満ちるべき土地は同じなのです。だから、何か強制的に力を持って支配しなければならないと言っているものではない、ということになります。
だから「地を従えよ」とは、地に対して戦いを挑んでこれを服従させるとか、そういう意味を持つものではなくて、本当の意味は何かと言うと、「農耕する」ということなのです。なぜなら人間は、農業を通して土地を改良し、より豊かに産出されるものによって、さらに地に増え広がり満ちることができるからです。
創世記二章十五節を見ると、そのことが書かれてあります。