神さまの恵みの良い管理者とならせていただくために

『神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。』

私たちは「被造物を支配する」という言葉の意味を、もしかしたら、人間が被造物すべてを支配下に置き、それらをコントロール下に置くことだと理解しているかもしれません。ですが、これは聖書的な見方ではないのです。これは現代的な価値観からの見方・考え方なのです。

十月九日の礼拝メッセージの中で、順先生が啓蒙思想の中で生まれてきた進化論とか、優生論とか、そのような考え方について触れてお話されていました。
実に、近代から現代に至るまで、人間は科学の力・学問の力によって、自然の仕組みを解き明かし、理解して、最後にはこれを、人間のコントロール下に置くことができるだろうと考えてきました。十八世紀くらいからです。そして、このような価値観の中で、人間は科学を発展させてきたのです。
その間、三度の産業革命が起き、人間社会は目覚ましい発展をして、文明社会は拡大され、近代から現代にかけ凄まじい勢いで増え広がってきたのです。人口がそれまでの歴史と比較して、爆発的に増加してきたわけです。

先月、霊的戦い専門過程の中で、私が講義させていただいたテーマで、「現代の戦争・未来の戦争・パート三 第四次産業革命」という、これも小難しいテーマですが、お話させていただきました。先月、礼拝午後のダイジェストセミナーでも少しお話しさせていただきましたが、人間は、これから地球の環境・生態系をコントロールし、人間の持つ能力をもさらに拡大して、世界を変革していこう、そういう野心を持っているという事をお話しさせていただきました。

 ロボット技術、

羊が出ていますが、これはクローン羊です。ドリーという名前が付いていたと思います。最初にできたのはもう二十年以上前だと思いますが、今でも同じ遺伝子のクローン羊たちがコピーされ続けて生きているみたいです。

ナノテクノロジーとか、

遺伝子操作技術とか、

また従来の半導体の性能を遙かに超えると期待されているような量子コンピューター技術など。
これが五年前にできた量子コンピューターの写真です。
こういった種々の技術を通して、世界は新たな産業革命を迎えようとしている黎明期だと言われています。
その目標としているところは、人間中心主義です。人間が神になり替わっていくというような価値観であります。このような技術革新の背後で、私たちの世界を見る価値観も影響を受けているわけです。だから神さまが私たち人間を地球の管理人・被造物の支配者だと言う時に、私たちは知らず知らずのうちに被造物に対して人間の支配下に、コントロール下に置くというような価値観で受け止めてしまいがちなところがあるのです。でもその背後で、人間は被造物を蹂躙したり、傷つけているという現実があるのです。

実は「支配する(ラダー)」という言葉のもつ聖書的な意味は、聖書の時代も含め、中世よりも前の時代の人々の中では、どのように受け止められていたかと言うと、決して現代のようにではなく、むしろ、当時の人々にとって被造物を支配し従えるということは、被造物の有効利用を指すものでありました。具体的に言うと、先ほど創世記二章十五節に書かれているような、農耕、狩猟、あるいは建築、鉱業、それも被造物の恵みを享受する中でそれを有効に活用していくこと。それは、自然の調和の中で、その法則に則ってなされていました。現代のように経済のロジックで動き、人間中心的に搾取する、そういう支配・コントロールという類とはまるっきり違うものだったというわけです。

被造物の支配権とこれらをコントロールする力を握っておられるのは創造主なる神さまだけであり、被造物の所有権は神にのみ属する、そういうものでした。中世以前の人々は、人が被造物の管理者である件について、「支配する」「従える」という言葉についてはそのように受け止めていたのです。
創世記に書かれている「人による被造物の支配」というものを完全なる所有・支配と受け止めるのは、明らかに現代の科学万能主義とか、人間中心主義という中から出てきた渇望です。世界を人間の思う通りに作り変えて、人間を自然界に対する神にしようという欲望から出てきている考え方なのです。

結論を言うと、人間は地球や被造物を「完全に所有しコントロールする」のは“絶対に不可能”なのです。私たち人間は、まだ幼子のように、宇宙と地球とその中にあるもののすべてが、まさに絶妙なバランスで調和し、被造物全体があたかも生きているかのように複雑に作用し合って、世界というものが成り立っているという、神さまが定められた仕組みのごくごく一部を、やっと説き明かして、「あぁ、素晴らしい!すごい!」と、その途轍もなさに息を飲んでいるに過ぎません。人間が神さまになり替わって被造物をコントロールできるなんて、傲慢にも程がある態度なのです。

現代の地球を見ると、そういった人間の傲慢の中で、自然環境破壊、多くの動植物の絶滅、様々な資源の枯渇、そういった様々な問題が提起されて、今、地球全体的に、人間社会を含めた世界が持続可能な形で存続されていくことの大切さが認識され始めています。このままでは人間が世界を滅ぼし、いや地球が人間を拒絶し人間が滅びていく、という危機感を人間は持つようになりました。そして「エコロジー」が世界規模で叫ばれている現実がり、これらが人間の傲慢がもたらした結果であるということを、人間は気づき始めているのです。

「支配する」、また「従える」とは、聖書の書かれていた時代にそのように理解されていたように、被造物の恵みを受けて、そのシステムの中で人間がこれらを育み労わる、そして利用するというところに本質があるのです。
みことばに書かれていた農業。「この地を耕させ、守らせた。」という言葉ですけど、これはその他の被造物、魚とか動物と人間との間にある、決定的な違いの一つです。魚や動物が農業することはありません。ただ被造物の中に造られた循環システムの中で生み・増え・満ちるという営みをしているわけですが、人間は違っていて、自ら耕し、そこに出てくる産物を管理して、さらに地に満ち溢れ広がることができる、ということです。
そういう「権利」を人間は神さまから「授かった」ということです。地を耕すことを通して、さらに地に満ちていくことができるということです。

この、「生め・増え・満ちよ。」という言葉は、他の生き物たちにも同様に神さまが語っておられます。だから当然、人間が農耕ができるからといって、他の生き物たちが生きている領域を侵略して、それを壊し、削り取ってまで自分たちが生きていく範囲を拡大していく。他の生き物たちを無視して、人間本位の行為をしてもいいという意味ではありません。神さまはすべての生き物にも人間と同じように「生め・増え・満ちよ」と、同じ祝福を与えておられるからです。
神さまはそのようにして、人間がこの地で農耕する、様々な働きを被造物の中ですることによって、他の被造物たちよりもより増えていくことを許されているのですが、それは他の生き物たちをないがしろにしてもいいという事ではないのです。
神さまが人をご自身の似姿に創造され、水の中、大空、そして大地それぞれに生きる場所を定められた。数々の種類の生き物たちをある意味で「支配」し、「地を従える」ことを神さまによって認められた“権利・権威”は、同時にそれらを「育み」「守る」という“役割・責務”を与えられているということを知らなければならないのです。
創造の秩序の範囲を超えず、それに資する形で、被造物すべてに対して振舞うことを、創世記のみことばによって私たちは知ることができます。人間も、神などではなく被造物を構成する一員だというわけです。

聖書が説く「エコロジー」の概念を、このようにまとめることができるのではないかと思います。

“人間は、被造物を構成する一員であり、自然環境・物質循環・社会状況などとの相互関係をもち、これに対し「支配する」権利と同時に、これを責任を持って「従える」責務を神から委託された生き物として存在している。”

これが聖書が説くエコロジーの概念です。私たちは神からの委託に応えて、人としての役割を被造物の中で果たさなければならないのです。

では与えられた責務を私たちはどのように受け止め、また実行していくことができるのか。今すぐに経済活動を停止して、鋤や鍬を持って土地を耕しに太陽の下に出ていくべきなのかと言うと、そういうことではありません。

話が変わりますけども、これも最近、礼拝や霊的戦いセミナーの中でお話しされている内容なのですが、十六世紀に、マルチン・ルターやジャン・カルヴァンたちによって宗教改革が起きました。これはヨーロッパで起きたキリスト教の一大ムーブで、それまでのカトリックによる支配を脱し、プロテスタント・キリスト教信仰が生まれ、その支配によって築かれていた社会構造が一変して、近代から現代に繋がる新しい社会構造が誕生しました。

カルヴァンが主張した中で、最も後世へ影響を及ぼしたものが「予定説」というものです。その中でこういったことが語られていました。

“人が神によって「選ばれた者」であることは、「勤勉さによって結ばれた果実」によって確認される。”

カルヴァンは、人それぞれが、自分の持っている仕事を、主によって天から与えられたもの「天職」として認識する。天職を全うし、正当な方法で懸命に勤しんだ結果得られる富の「蓄財」は、神の栄光を現わす義の果実であると位置付けたということです。
一生懸命、みんながそれぞれ自分の仕事を忠実にこなし、得られた富は「善」だという考え方です。これは中世のカトリック支配の中では全く違った概念でした。蓄財は「卑しい」もの、後ろめたいものであると教えられていました。富を蓄えることは、罪悪感を持つものだと考えていました。

この新しい考え方が当時、新しく出てきた新興商工業者に大きく支持され、彼らは遮二無二働きました。それが後の産業革命を支える社会的価値観の変革であったわけです。カルヴァン主義が「近代ヨーロッパの礎を築いた」と今でも言われている所以です。

彼らにとって「職業」は、いわば「神の栄光を現すためにサタンと戦う戦場」という積極的な意味を持つようになったわけです。そのため、日常生活をしっかりと管理し合理化して、より多くの良いものを安く世に送り出し、成果を受けるために、働き方を工夫していきました。「神の栄光を現すために!」と、仕事に関わらない自分のための楽しみ、美味しいものを食べようとか、身を飾ろうとか、立派な家に住もうとか、快楽を追い求めていくことは慎しまれ、忌み嫌われました。もっぱら職業的な活動に勤しむというのが正しい行いだと考えられたのです。
それ以前は、神に仕えると言えば、世を離れ修道院に閉じこもって、自給自足生活をしながら、禁欲的で宗教的な態度を持つことが素晴らしい人、神の前に仕える正しい人だと位置づけられていましたが、宗教改革によって敬虔さの基準が変わりました。神さまの前での敬虔さは、世俗の中で自分の職業に対して天職としての誇りを持ちそれに対して忠実になる。それ以外のことに対しては禁欲的な態度を持つ。「世俗的禁欲主義」と言われ、そのように変化していきました。
これは利潤を追求する経済活動を正当化し、彼らの職業に対する真摯な態度を支える土台になっていきました。彼らは儲ける事を追求していきました。そのためにあらゆる感情、欲求を抑え、全部を犠牲にして、労働のためにささげることが、神さまに対する敬虔のバロメーターになり、「一生懸命仕事をされている。あの人は神に仕える敬虔な人だ!」と見なされるようになりました。
そのような態度から生まれた成果は、その人たちに当然のことながら富の増大をもたらし、その利益により何か欲しいものを買うのではなくて、それを今度は投資に回して、より事業の拡大に充てられていく。そういった中で蓄えられた富が人の人徳を表すバロメーターになったのです。
そのような考え方で、過去の「儲ける=悪」というものが完全に無くなって、儲けることは善だと価値観が変貌していきました。
こういうクリスチャンの価値観の変革によって後に生まれたのが「資本主義」です。それは利潤を追求するのが第一目的で、その動機となるのは、贅沢な生活を送るとか、財産を後に残すとか、そういった豊かさではなくて、金儲けそのものが人の善だという価値観です。
こういったクリスチャンの倫理観が現代のような資本主義を中心とした社会を生み出すゆりかごになったと考えることができます。
資本主義は産業革命を産んで、もたらされた富は確かにこの社会全体を豊かにしました。そして科学技術の発展は、より便利な生活をもたらし、より多くの産物を生み出して、今に至るまで世界の人々が増え広がっていくことを支えているわけです。今、確かに人は、生み、増え、地に満ち、地を従えるということがなされているのです。