永遠の愛

2023年5月14日(日)SIR代表 滝元望師

 

エレミヤ書の31章3節4節

『主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。』

お祈りします。ハレルヤ、愛する天の父なる神さま、あなたのみ名を心からあがめます。そして今日私たちをここに集めてくださり、そしてこの所であなたを礼拝することが許されたことを心から感謝します。そしてあなたは、このコロナ二〇一九も、この国にあっては、先週から新しいところへとシフトさせてくださって、そして私たち一人ひとりを励まし、あなたが一人ひとりを回復させてくださっていることを覚えてありがとうございます。忍耐の三年間でしたが、神さま、あなたがともにいてくださったことを覚えてありがとうございます。
この礼拝の中で、私たちがもう一度、神さま、あなたご自身からのみことばをいただき、あなたからのことばを語りかけられ、回復し、いやしを受け取る時となることができるように導いてください。このしもべがここで語りますが、私の語る言葉以上に、聖霊ご自身が一人ひとりに語ってください。主よ、一人ひとりに必要なことをあなたが届けてくださいますように。またこの語るしもべの上にも、聖霊によって、導きを持って、そして語るべきことを皆さんに届けることができるように導いてください。この時を主に委ねます。尊いイエス・キリストのみ名を通してこの祈りと願いをみ前におささげいたします。アーメン。

おはようございます。先週からコロナ二〇一九が五類になったということで、今日こうやって見ると皆さん随分マスクから解放されておられます。でも、付けている人が解放されていないという意味ではないのです。いろいろな事情があると思うのです。医療関係者の方々は、まだしっかりと付けていらっしゃいますからね。
このゴールデンウィーク、私は四国の四万十に行きました。子どもたちとそこで川遊びするために行ったのですが、途中、パーキングエリアに寄りました。関西のパーキングエリアとこの辺りのパーキングエリアとマスクの着用率が断然違いました。関西の方はマスクしている人が少ない。このあたりは逆。やっぱり関西の方は維新の会が存在するように大塩平八郎の乱あたりから、御上に対する反発心があるのでしょう。政府が言うことに対しても「なんじゃあれ?マスクなんか必要ねぇぞ!」みたいなのが、あるのかなぁと思ったりしましたが、皆さんどうですか。三年間長かったですよね。

実は私は三年間のダイアリーがあって、今日あったことを簡単に書いています。歳も取って、だんだん忘れっぽくなっているので、そのためにも必要かなと思ったのですが、一番これをつけるようになった理由は、狩猟をやるようになって、今日は弾を何発打ったとか、そういうのをきちんと帳面に記しておかないと、一年に一度警察に行って取り調べを受けるので、その時に「何発撃ったか分かりません」とか言ったら即、銃を取り上げられます。それで「今日はカラス一羽どこで。」とか、そういうのを全部書いておいて、それをまとめて市の農業課に持って行って、それでカラス一羽で二百円の報奨金をもらえるのです。そのためにこれをつけ始めました。
三年前の五月十四日、皆さん、何がありましたか?五月十四日、思い出してください。五月十四日は土曜日でした。さっきも少しこれを開いて見ていたのですが、Pray for Revivalの収録がありまして、午後は、孫たちを連れて市内の池にブラックバスを釣りに行きました。ブラックバスを釣って食べるためです。僕はキャッチ&イート派なので、すべて食べるのです。ザリガニも食います。うまいですよ。アメリカザリガニ、馬鹿にしてはいけません。これは特定外来生物に六月から指定されますので、ザリガニもこれから生きたまま移動させてはいけなくなります。捕まります。厳密に言うと。だから「子どもたち、アメリはザリガニはその場で殺して、食うこと。分かった?スルメで釣れるからな。」とにかく三年前はそんな日でした。

皆様ご存知で、これまで祈ってくださったように、私の息子が、四年一ヶ月の闘病生活をしていて、二〇二〇年五月には、藤田医科大学病院いました。ちょうどそこでも彼が少し肺の調子が悪くなってICUに入っていたというのが記録されています。皆さん三年前。大変でしたよね。小学校も休みになっていたので、うちには横浜から小学生二人がやってきて、彼らをずっと面倒見るということがありました。今日は何をやるとか、彼らに表を作らせて、「ゲーム・ゲーム・ちょっと勉強」みたいなね。でも薪割りさせたり、自転車でピアゴに行ってみたり、そういうことをやっていました。皆さん三年前、思い出せますか?大変だったなぁということは分かりますね。
今日こうして皆さんが、この三年間の大変なことを共有しながら過ごしたというのは、ある意味ではすごく大変だったし、いろいろな問題がありますし、分裂も、いろいろな分断もあるかもしれませんけど、同じ大変な試練を我々は共有したということにおいては、とても大きな意味があったのではないかなぁと思います。

先の大戦と呼ばれる第二次世界大戦の太平洋戦争においても、三年八ヶ月の間、戦争を私たちの国は体験しました。それ以降、全国民が同じようなものの中に縛られたというのはなかったのではないかなと思います。当時は三年八ヶ月ですが、今回は約三年。一月ぐらいからぼちぼちぼちぼちコロナコロナと言い出して、寛太は横浜から一月二十七日に豊明の藤田医科大学病院に転院してきたのですが、あの時を思い出すと、出エジプトのような感じがします。新幹線に乗せたのですが、寝たまま新幹線にストレッチャーを入れられるのです。そういうのがあるのです。それで連れて来て、三年前なぁ…と思います。
でもこの三年間、私たちは大変なところを過ごしましたけど、やっぱり神さまが、イエスさまが一緒にいてくださったということは、確実なことだと思います。今日、それを覚えつつ、一緒にこのメッセージをともに主から聞いていただきたいと思います。

このメッセージを語るにあたって、私はいろいろなことを調べました。今日、二つのテーマを少し皆さんと一緒に分かち合いたいと思うのですが、先ほどのみことばはまた後半に出していきますけど、最初は私自身の働きのルーツを少し探ってみました。
それで行ったのは、ここに行きました。
私は、実は神さまのために働くようになったのは、一九七八年ぐらいからです。大学を卒業して、そのままグロリアシンガーズというバンド、賛美グループを中心とした働きに献身して、それと同時に、父がしていた日本リバイバルクルセードという働きのスタッフというか、事務員をしながら、そこで細々とお金をもらって、そしてグロリアシンガーズで歌いに行くと、そこでまた日銭をもらって、それで暮らしていました。
結婚したのは一九八一年なので、独身の時代から父の下で働いていました。私の働きというのは、この日本、この新城教会の牧会陣の中には一度も入ったことはないのです。今でも皆さん、私を見て「あのハゲ誰だ?」と思いますよね。同じハゲでも少し違うんじゃないか?みたいなね。
今日うちの兄は来ていませんけど、昨日、目の手術をしました。さて、どうなったでしょうか?今朝、我々の兄弟ラインというのがあるのですが、仲良くやっています、この頃はね。それでまず片目の手術をしたのですが、右目の眼帯を取ったら「見えるようになった!」と。今週またもう一方やると言っていました。よかったなぁと。
今うちの兄、いろいろなところで奥さんが亡くなって、メッセージなんかでもそのことばっかり言っているので僕はいい加減にしろよと思っているのですが。「人の奥さんの顔なんか見たくねぁや」なんて僕なんか思うのです。僕は絶対自分の妻の写真なんか出せないですね。「今日出さないから心配しないでね。」うちの兄はああいう人なのです。やっぱり彼も闘病生活の中で、いろいろな意味で戦いを経験して、そして大変だったと思うのです。

メッセージの準備のために行ったのが、この写真の所でした。これは東栄町です。「洋平さん、東栄出身ですね。」
こういう教会があります。今ここは、礼拝はここで開かれていません。ここに一人だけ、中村一夫先生の奥さんの中村いくさんという九十二歳の方がお住まいになっています。元気です。そこでいろいろ、一時間ぐらいお交わりをしましたけど、本当に元気でした。
中村先生には六人の子どもさんがいらっしゃいます。こんな東栄伝道所という。そして、伝道をずっと続けていらっしゃったのですが、実はこの所というのは不思議なことに、リバイバルミッションの原点があります。私自身は日本リバイバルクルセードという働きのスタッフをしていました。その働きの原点が東栄で開かれた伝道会あります。
一九六九年の夏に伝道会が開かれました。これをなぜ僕が覚えているかと言うと、私もそこにいたのです。中学三年生でした。当時は陸上部で、僕はこの辺の東三河の中学校の長距離走のチャンピオンでした。走るのだけは猿のように早かったので、そこでも走っていました。
当時は三日間か四日間の集会だったのですが、一軒の農家を借りて、そこにみんなが寝泊まりしながら伝道会をしていました。そして一九六九年に初めて、先週もうちの兄が紹介していましたけど、グロリアシンガーズ、まだその当時は名前がなかったのですが、うちの兄がギターを一本だけ持って、僕らが直立不動で歌を歌ったことを覚えています。
この一九六九年夏というのは、アメリカでウッドストックという所で大きなロックフェスティバルがあった時で、そのことが話題になりました。宣教師が「とんでもないことが起きている!」と、「ウッドストックという所に四〇万人ぐらいの若者が集まって、ヒッピーが集まって、そこで大きな罪が行われて、これは大変だ!と言っていました。僕なんかその当時、「ウッドストックって、どこなんだろう?」と、皆さん、ウッドストックを知っている方がどのぐらいいるか分からないのですが、ジミーヘンドリックスというのが歯でエレキギターを演奏してみたりとか、ジャニス・ジョップリンという女性が退廃的な歌を歌ったり、そういうヒッピー文化が花ざかりの時でした。
実は話をしているうちに、滝元明と田中政男先生と二人でクルセードをやらないのか?そういう話になったのです。そこで最初は滝元と田中で「滝田クルセード」でいこうと言っていました。なぜかと言うと、当時、本田弘慈先生が「本田クルセード」というのをやっていました。なので滝田クルセード。そりゃないだろう、みたいなね。その時に誰かが言いました。「リバイバルクルセードがいいんじゃないか。リバイバルのためにやろう。」そこで発足したのがこの日本リバイバルクルセード、ジャパン・リバイバルクルセードです。
 一九七〇年一月に発足会が、当時の私たちの教団の本部があった東京でなされて、本田弘慈先生が来て下さいました。眼鏡をかけた上の段にいる人です。

その横にいる子は、中村道枝ちゃんという中村先生の娘さんです。集合写真を撮ったので、これは中村先生からお借りした写真です。

そして、超教派の宣教団体としてスタートしました。その時にこの穐近祐先生が教団の監督でした。穐近先生人はすごいひらめきのある人と言うのでしょうか。少し順先生に似ているんですよ。僕もハゲで似ていますが、ハゲだけではないのです。突拍子もない事を言うのです。僕なんかドキドキする。
僕もこの頃うちの兄が言うことにドキドキしています。いや神学的に大丈夫かぁ?みたいなこと、僕思うのです、実際。ごめんなさいね、皆さんの中でもそう思っていらっしゃる方、いると思います。「天の教会って言っていいんかい?聖書にたった一回しか出てないだろ!」なんて僕なんか思うのです。
一応僕の場合は聖書をもう少しマイルドに読んでいくほうなのでドキドキするのです。