永遠の愛

『すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。』

と書いてあります。そして悟った彼は、

『顔を神である主に向けて断食をし、粗布をまとって灰をかぶり、祈りと哀願をもって主を求めた。』

と書いてあります。
このみことばの前提にあるのが、エレミヤ書二十九章十節・十一節です。これは七十年前に語られた言葉です。それを七十年後になって、彼は文書の中でエレミヤが書いた言葉を見つけたのです。「七十年が経ったら、私たちはもう一回回復することができる!」そして彼が、そこで神さまの前に悔い改めました。ダニエルのとりなしの祈りです。「主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、心に留めて事を行ってください。私の神よ。あなた自身のために遅らせないでください。あなたの都と民には、あなたの名が付けられているからです。」
「わたしの名をもって呼ばれるわたしの民が」と、私たちに名をつけてくださって、神さまの名前で呼ばれている。イエスさまを信じるということは、イエスさまによって罪贖われて、養子になることです。そしてイエス・キリストにある私となります。私たちはイエスさまの名前で呼ばれる者です。
このみことばが指し示しているところは、「わたしの名をもって呼ばれるわたしの民が」、へりくだることを指しているのだと私は思います。
このみことば、「永遠の愛を持って」という、この「愛」は、新約の時代において、イエスさまによって完成していきます。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。』と書いてあります。
今日ここにいらっしゃる方の中で、イエスさまをご存知でない、まだ信じてない方がいるかもしれません。遠く離れているかもしれません。でも、すべての人のためにイエスさまは身代わりになって死んでくださいました。そしてどんなに汚れていようと、どんなに間違っていようとも、イエスさまは永遠の愛で私たちを愛してくださっているのです。

今日皆さん、このコロナの三年間の中で、いろいろなものを失ったかもしれません。友達を失った方、あると思います。僕も友達を何人か失いました。いろいろな主義主張があるじゃないですか。昔は一緒にやっていても言うことが違って、あれ?大丈夫?みたいなね。マスクつけないで大丈夫?みたいのがあったかもしれません。
またこの教会で三年過ごすうちに、「教会に行くの億劫になっちゃったな。ネットでいいや。寝転がっても見れるからなぁ。」みたいなね。僕も正直楽でした。やっぱり僕らはずいぶん傷ついています。
でも今日もう一回イエスさまの愛に戻らないといけない。イエスさまは永遠の愛で私たちを愛し続けています。今日これを受け取りましょう。その中から私たち、回復されていきましょう。
この教会の中でもいろいろな出来事があって、いろいろな不協和音があるかもしれません。家族の中でもあるかもしれません。でも今日もう一回、遠くなってしまった友人のためにも祈りたいと思います。イエスさまの愛で祈りたいと思います。イエスさまは遠く離れても、永遠の愛で、「あなたを愛している」と言ってくださった方です。私たちもその愛を持って生きたいと思います。

今日最後に皆さんと一緒に祈ってみたいと思います。今日は兄がここにいないので、最後にいつも兄が出てきて締めてくださいますが、今日はいないというのも少し何か意味があるかなぁと思います。兄もネットで見ていると思いますけど。
以前の、僕が半年前にメッセージした時も、うちの兄がいませんでした。享子さんの看病でずっとメッセージしませんでしたよね。なんか時もあるかなぁとね。これから彼は目が開かれますから。もう、新しい「順」になりますから。輝かしいハゲ順になりますから。僕も新しいハゲ望になりたいと思うのですが。

今日最後に祈りたいと思います。イエスさまは私たちに、永遠の愛で愛してくださっていることを受け取りましょう。また私たち自身も、その愛によって、溶かしてもらいたいです。僕も割といろいろな方々と関係を結んでいくことは得意なのです。Facebookもやっていますし、インスタもやっています。僕の情報を全然ボンボン出します。どこで何の魚釣ったとか、何食ったとか。でもそんなことをやっているうちに、なかなか関係がうまくいかなくなってしまうことがあるのです。
でも私は、この頃少し学びました。「もう一回仲良かったところの初めの愛に戻ろう」と、決断することです。意外と九十パーセントは僕の方に壁があります。向こうも壁、持っています。僕の顔を見ると、会わなかったことにしようみたいな。皆さん町の中で会って、「あぁ、あぁ」みたいな、少し複雑な思いのある人っていますよね。「あー!元気?」とも言えないし、すれ違っているのに見なかったことにしよう。そうするとお互いに無視したということになるのです。
今日は私たちの実生活の中、またいろいろなところの中で、欠けてしまって、崩されてしまっているものが、今日それを回復していただきたいと思います。お祈りします。

愛する天のお父さま、私たちがあなたに向かって「愛します」と、告白するだけではなく、あなたは私たちを永遠の愛で愛し続け、また愛をもって誠実に関わり続け、私たちとともにあなたが愛をもって歩んでくださいますから感謝いたします。
そして私たちを「乙女イスラエルよ」と呼んだように、初めの愛にある私たちとして、間違ってしまった私たちではなく、愛する者として、私たちの名を呼んでくださることを感謝します。そして私たちにはあなたの名がつけられていて、あなたの名が付けられている私たちが祈るときにあなたがそれに応えてくださると、みことばで約束してくださっていることを覚えてありがとうございます。
神さまどうぞ、主よ、今日、すべての方々、ネットで見てらっしゃる方々、一人ひとりに、イエスさまが十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったという愛のゆえの出来事をもう一度受け取らせてください。
ねじ曲がってしまった、ひねくれてしまった、とんでもなく汚れてしまった私たちであっても、あなたは永遠の愛で愛してくださっていることを一人ひとりに知らせてください。聖霊ご自身が一人ひとりに今日、イエスさまの愛を体験させてください。ともに生き、ともに働き、ともに住み、一緒に歩いてくださる。イエスさまご自身を今日一人ひとりにもう一度教えてください。
主よ、あなたの愛で私たちを溶かしてください。聖霊ご自身がどうぞ深く私たちの内側にお越しください。この三年の中で、私たちが失ってしまったものをもう一度回復させることができるように、どうぞ主よ、この新城教会の礼拝をも回復させてください。いや、しかしこの三年間の中であなたは私たちを成長させ、新しいことを与えてくださいました。感謝します。互いに熱く愛し合いなさいと、あなたが私たちに戒めを与えてくださっていますから、熱く愛し合う者となることができるように。キリストのからだなるこの教会を、日本の教会を、世界の教会を、あなたが今日、あなたの愛で回復させてください。私たちには愛がないですから、天のお父さま、今日は一人ひとりに触れてください。

しばらく皆さんご一緒にお祈りしましょう。

あなたの愛を感謝します。永遠の愛を、無償の愛を、「乙女イスラエルよ」と呼んでくださるあなたの愛を感謝します。あなたに戻り、あなたの愛の中に私たちを生かしてくださいますように。今日一人ひとりに聖霊ご自身が触れ始めてくださっていることを覚えます。家に帰ってからも、聖霊ご自身が一人ひとりに語り続け、触れ続けてください。そして現実に、今病の方々があったら、どうぞ主よ、その病に触れてください。いやしてください。回復させてください。心が深く傷ついている、その心のもっとも深いところにイエスさま、あなたの愛を、また良い父である天の父なる神の愛を届けてくださいますように。あなたにすべてを委ね、また感謝し、尊きイエス・キリストのみ名を通して、この祈りと願いをみ前におささげいたします。アーメン。