献身と自己変革

2024年1月28日(日)新城教会牧師 岡本信弘

ローマ人への手紙12章1〜2節
“そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。”

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。二〇二四年が始まって、もうすぐ一ヵ月が過ぎようとしていて、早いなぁという感じですが、皆さんに祈っていただいて、教会、ミッション、プレイズの働き、それぞれが守られて今あることを心から感謝します。
また、こうして今日もこの場所に健康で立てることを心から感謝します。この年末には、健康がとても大切だと思わされたことがありました。それは、プレイズと取引のあるクリスチャンの出版会社の社長(関東の方)と会った時のことです。以前から病気がちであったのですが、さらにひどく体調を崩されて、「このままでは事業を続けられないので、これからのことを相談したい」と連絡があったのです。それから何度か出向いて話をしている状況ですが、やはり健康でないとできないことが多いなぁとつくづく思わされました。私は、今は皆さんのお祈りに支えられて、こうして健康が支えられていて本当に感謝ですし、何よりも主の恵みだなと思わされています。
また、私の責任を持っているプレイズのことも、皆さんに祈っていただいていることを感謝します。なかなか報告する機会がないので少しお話しさせていただくと、コロナでこの三~四年は少し大変でした。しかし昨年はコロナが一息ついて、いろいろなことが回復し、利益も上がってきていることを感謝します。まだまだ多くの借り入れがありますが、この働きが今後も祝福され、リバイバルの前進のために少しでも献金してサポートできる企業になれればと願っていますので、続けてお祈をよろしくお願いします。

さて、私にこの二〇二四年のために与えられたみことばは、ローマ人への手紙十二章一~二節です。カウントダウンでも語らせていただきましたが、今日は、「献身と自己変革」というタイトルで学んでいきたいと思います。
このみことばの中で、パウロは、「信仰の土台となる基本的な生き方」、そして、「主に喜ばれる信仰生活」について重点を置いていると思います。
ここから三つのことを学びたいと思います。一つは一節に出てくる、『あなたがたのからだを、生きた備え物としてささげなさい』というクリスチャン一人ひとりの「神への献身」。二つ目は、『この世と調子を合わせてはいけません』という「主を選び取ること」。そしてもう一つが、『心の一新によって自分を変えなさい』という「自己変革」。この三つのキーワードから共に学んでいきたいと思います。

まず、「神への献身」。それはここにあるように、私たち自身を神にささげなければならないということです。一節をもう一度、お読みします。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』

私たちクリスチャンは、以前は罪だらけの生活で死の恐怖の中にいた者でしたが、神さまのあわれみによって救われ、贖われて今ここにいるのです。そんな皆さんは、主のために生きていきたい、主のために何かをしたい、と思っておられると思います。
イエスさまを信じた時に古い自分が死んで、主によって与えられた新しいいのちに生かされています。自分で生きているのではなく、主によって生かされているのです。一人ひとりが新しい者に生まれ変わり、神の子とされたということを、ぜひ自覚していただきたいと思います。
パウロは、誰よりもイエスさまの迫害に燃えていた人でした。民を扇動し、多くのクリスチャンたちを投獄し、悪魔の手先のような働きをしていたのですが、イエスさまに出会った時、百八十度人生が変わりました。ピリピ人への手紙三章八節で、パウロはこのように言っています。

『それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』

イエスさまに出会ったことによって、パウロは「すべてのものが損と思う。すべてがちりあくただ」と言うほどに、この世にあって生きているのは自分の喜びや満足のためではなく、こんな私を愛し、私のためにいのちまで捨ててくださったイエスさまのために生きことが私の使命だ、と確信したのです。これが主への献身であって、神さまが私たちに望んでおられることではないでしょうか。

「献身」といえば、一月二十日に、スリダブで三時間のPPHがあって、私は証を頼まれました。「先生のほうが私たちより人生経験が長いので、献身とか、そのほか経験してきたことを話してほしい」と言われ、献身、結婚、そして神さまから与えられた使命についてお証しさせていただきました(リバイバルミッションのYouTubeでもアーカイブが残っていますので、また見ていただければと思います)。私は、若者だけが参加していると思っていたのですが、後から「先生スリダブ見ましたよ! 証を聞きました」と、何人かの若者ではない(みんな若者ですけど(笑))、そういった年代の方たちが声をかけてくださって、いろいろな人たちがYouTubeで参加しているんだなぁと思わされました。

その中でまずお話ししたのは、献身についてです。献身の思いは小さい頃からずっと持っていましたが、実際に献身したのは二十五歳で、会堂ができてちょうど三年目の時でした。当時私は実家のスーパーで忙しく働いていました。教会には、順先生をはじめすでに何人かの献身者がいたので、私が入るまでもないのではないかと思っていましたが、明先生に、「いつか献身したいと思っているのですが、この教会には何人のスタッフが必要ですか?」と聞いてみました。すると先生は、「兄弟。神さまは恵みによってここに素晴らしい五百人入る会堂を与えてくださった。しかし会堂ができたからといって、人が集まるわけではない。人が来てもケアするスタッフが用意されていなかったら、神さまはここに人を送ることはないんだよ」と言われたのです。昔のことはあまり覚えていないのですが、この言葉は今も「明先生の名言」だと思ってはっきりと覚えています。私はこの言葉を聞いて、今がその時だと決断して、フルタイム献身をしたのです。

皆さんは、「献身」ということ考えたことがありますか? もちろん、フルタイム献身だけが献身ではありません。救われた私たち一人ひとりが、クリスチャン人生そのものを神さまの前にささげる、これが献身です。私たち自身を神の前に差し出すという行為こそが、クリスチャン生活の中心でなかったらなりません。 私たちが何を主の前に差し出し、主の前に献身の意思を表していくかは、とても重要なことです。
よく、「神の時がある」と語られます。先週も順先生が、一九九〇年代、甲子園ミッションの時には、我も我もと、どこからともなく多くのボランティアスタッフが集まってきたことを証しされていたのですが、まさしくあの時も「神の時」だったと思います。
また、全国各地から多くの献金が集まってきたことも、神の時に起こった出来事でした。全日本リバイバル甲子園ミッションで、私は財務運営の責任を持っていたのですが、準備が始まった九二年の二月から、本大会を含めた九三年十一月までの一年九ヵ月の間に、なんと六億円もの献金が入ってきたのです。入ったと言っても、私のものではないし、実際に見たわけではないのですが(笑)、神さまが人々の心を動かし、与えられたものだとわかります。
そのように、ボランティアのスタッフとして献身して働いてくださった人たちや、献げものをしてくださった方々、祈ってくださった方々によって支えられてきたことを、忘れることができません。
実家のスーパーマルイチをやっている、昔話の好きな私の兄がいつも言うのです。「八〇年代後半はバブルの時代で、商売が順調で儲かった。でも、九〇年代前半にはバブルがはじけて、店の売り上げが減っていた頃だったけど、甲子園ミッションや教会のために献金をしたことによって、店が祝福されて持ちこたえた」と。
ここにおられる方はほとんど知らないと思いますが、甲子園ミッションの前後は、新城教会も大きな試練の時で、経済的にも大変な時期だったのですが、多くの方々の、「主のために献げたい。主のために何かしたい」という献身の働きがあって、大変なところを乗り越え、今があるということを、覚えておいていただきたいと思います。

みことばに戻ります。一節でパウロは、

『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物としてささげなさい。』

と言っています。この『からだをささげる』とはどういうことなのでしょう。

ある信仰書に一つのエピソードが書かれていました。時々しか礼拝に来られないクリスチャンの方に牧師先生が、「礼拝には毎週来れるように頑張りましょうね」とアドバイスをしたそうです。するとその人は、「先生、私の心はいつも神さまに向いて教会に行きたいと思っているんですけど、忙しくて足がそちらに向いていかないんです」と弁明したそうなのです。確かに日々忙しい生活の中、行こうかどうしようかと迷う時があるかもしれません。
私たちが何かを決断する時に、いちばん大事なことは何でしょうか。それは優先順位です。ビジネスでもそうですが、何を初めにするべきか、その優先順位を間違えると大変なことになってしまいます。
礼拝に来たくても、病気であったり遠方であったり、様々な事情で来られない人ももちろんいます。しかし、来られる状況にあっても、ある人は、「ネットでも礼拝のメッセージ聞けるからいいでしょう」と思ったり、次週のプログラムを見て、礼拝に行く価値があるかな、などと思ったりするのは少し違うのです。
一方で、礼拝にはいつも参加しているけど、メッセージを聞いて、「今日は恵まれた」、「今日はいまいちだった」などと評価すること、「教会に来たら一週間ぶりに友達に会えるから」という理由で教会に行こうと思うこと、これも少し違うのです。これらは、本来の礼拝の目的ではありません。
皆さんは毎週礼拝に来られていて、礼拝の重要性をよくご存じだと思います。
礼拝というのは、私たち一人ひとりが神の前に立ち、感謝をささげ、心から賛美をささげて神さまをあがめ、主に祈る。そして神の前に自分自身をささげる。これが礼拝なのです。パウロは、クリスチャンがささげるいけにえは、死んだ動物ではなく、生きている自分自身であって、自分の存在のすべて、自分の生活そのものが、神さまへのいけにえだと語っています。霊的に、私たちの思いやからだ、すべてを神の前に差し出すことを神が望んでおられるのです。そのような礼拝(今、百パーセントできているわけではありませんが…)をさせていただきたい、といつも願っています。

続いて、「主を選び取ること」と「自己変革」について考えていきましょう。二節をお読みします。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

『この世と調子を合わせてはいけません』とはどういうことでしょう。今の世の中、常に変化の波が押し寄せてきていて、私みたいに歳をとると、時代についていけないと思うことが多々あります。現代において私たちは、望むと望まざるとにかかわらず、スマホやネットからたくさんの影響を受けています。スマホを持たなければいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、スマホがなくては生活に支障が出るほどの時代になっているのが現実です。ですから、この世と調子を合わせないとことのほうが、難しい時代になっているかもしれません。