献身と自己変革

『この世と調子を合わせてはいけません』という言葉を、ギリシャ語(聖書の原語はギリシャ語で書かれているので)で調べてみると(もちろん私はギリシャ語を全く読めませんが…)、「直訳すると、『この世と調子を合わせさせられてはいけません』となる」と書いてありました。日本語に訳すと少し変な言い回しで、どういう意味なのかと何度も何度も読み返してみました。「この世と調子を合わせていけません」と、「この世と調整を合わせさせられてはいけません」の、この二つの言い回しは、それほど大きな違いはないかもしれませんが、「この世と調子を合わせてはいけません」というのは、私たちに一方的な命令として言われているような感じがします。一方、「この世と調子を合わせさせられてはいけません」とは、他人とか外から来る影響、この世の影響をブロックして、簡単に受け入れないようにしましょう、ということではないかなと教えられ ました。
クリスチャンになった私たちは、神さまから霊的な影響を多く受けるようになりました。同時に、私たちがこの世に住んでいる以上、この世の影響も受けていることになります。そのどちらに傾くかによって、人生は大きく変わってくるわけです。
世の中を見ると、良く変わっていればいいのですが、世も末だと思うほど、どんどん自分本位になっているように感じます。五十年前には、こんな世の中になるとは誰も想像しなかったのではないかなと思います。
一カ所、聖書をお読みします。ローマ人への手紙の一章二十〜二十一節です。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。』

今、日本だけでなく世界においてもそうですが、とんでもないような、考えられない事件や事故、問題が、毎日のように報道されています。どこで歯車が狂ってしまったのかなと思うほどですが、こうなってしまった最大の原因は、偶像礼拝だと思います。日本には八百万の神がいるといわれ、多くの人が偽りの神を拝み、偶像に結びついている行事がたくさんあります。そのことを皆さんもよく知っていることでしょう。しかし、このみことばにあるように、「彼らはまことの神を神としてあがめず、感謝もしなかったゆえに、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心が暗くなって狂って」しまっているのです。
また、もう一つの原因は、自分本位だと思います。「自分さえよければいい」ということが、当たり前になっているのです。
例を挙げれば、夜遅く電車で帰ってきた時、自転車置き場に鍵のかかっていない自転車があれば、「ちょっと借りていけばいいや」と乗って帰り、放置して返さないとか、雨が降った時に、ちょうど置きっぱなしの傘があるのを見つけて、「あっ! これ私が使わないともったいないよね」といった感じで傘を持っていってしまう、自分勝手を押し通すような人が増えているように感じます。
ネットにこんな記事が載っていました。
中学生が、「先生。どうしてカンニングはしちゃいけないんですか?」と担任の先生に聞いたそうです。そうしたら先生は、「先生もよく知らないけど、学校ではしちゃいけないことになっているようだから、しないでくれよな」と言って、そのあと、「大人になったら何でもごまかしていいから」と言ったというのです。驚きです。本当にこんなことを言う先生がいたのかと呆れてしまうのですが、「万引きしても見つからなかったらいいじゃないか。しないほうが馬鹿じゃないの」というのも同じ、自分本位から出ていることだと思います。
昔ではあり得なかったことが、今は当たり前になっています。テレビでも、できちゃった婚をおめでたいと報道し、不倫や姦淫の話を公然と臆面もなく話しています。それが当然、おかしくないでしょ、と思っている時代なのです。でも、このままで本当にいいのでしょうか。

『この世と調子を合わせてはいけない』という意味は、クリスチャンでない人とつきあわないとか、この世と断絶することではありません。神に属するクリスチャンが、この世の考え方に支配されたり、また自分本位の考えで行動したりするということがあってはならないということなのです。
クリスチャンになったからといって、私たちは百パーセント世の中の影響を受けないなどということは、無人島にでも行かない限り無理なことです。日々の生活の中で、どのぐらい神さまの霊的な影響を受け、またどのくらい世の中の影響を受けているかと考えた時に、例えば半々だとしたら、ある時は世の中を優先し、ある時は神さまのみ心を優先するということになっていることになります。
皆さんは、「この世と調子を合わせたいなんて、思っていない」と思っているでしょう。さらに、「私はこの世と調子を合わせてはいない」と思っている方もいるでしょう。しかし、この世では、私たちは常に影響を受け続け、知らない間に慣れてしまい、世に染まってしまうというようなこともあると思います。ですから、クリスチャンは、「この世のものとは違う」という「自覚」が必要なのです。生まれ変わった私たちは、この世のものとは違うんだということを覚えていなければなりません。そして、何を最優先にするのかをしっかりと心に据えて、主を選び取っていく必要があります。

この世は常に変化しています。特に新しい年に夢を膨らませて始まった二〇二四年。一月一日に、いきなり大きな地震や津波で、多くの人が被害を受けました。
私はいつも寝る前に明日の天気を確認します。「明日は寒いかな、暑いかな」とか、「雨が降るかな」とスマホで見るのですが、最近は最初に、「明日の北陸の天気はどうかな?」と調べて、被災地のためにお祈りさせていただいています。望先生をはじめ、何人かの方々が被災地に出向いて、水や食料などを配ったり、教会に行ってお交わりをしたり、とりなしの祈りをしたりしています。教会やミッションでも、義援金を募集しています。誰もが現地に行けるわけではありませんから、皆さんで祈り、また支援していけたらと思います。
二十九年前には阪神淡路大震災が、十三年前には東日本大震災があって、皆さんはそれを教訓に、実際的にいろいろな準備をしたり、災害が起こらないように祈っておられたりしていると思います。この地域は今は守られていますが、いつここに地震が起こるかわかりません。また、突然事故に遭ったり病気になったり、家族が召されてしまったりと、自分ではコントロールできないような変化を余儀なくされることがあると思います。
これらのことは、人間の力ではどうすることもできませんが、そんな時にも主の助けがあり、私たちは祈ることができます。他の人のためにとりなすことができます。クリスチャンだからこそです。皆さんも大変な事柄に遭遇した時、「クリスチャンでよかった~」と思ったことがあるのではないでしょうか。

クリスチャンには主の助けがありますが、自分を顧みる時、「今のままじゃ駄目だ。変わりたい!」と思っている方もおられると思います。
ちょうど今は、高校・大学受験の時期ですね。就職試験はほとんど終わっているかと思いますが、新しい年度に向けて今までの環境を変え、もう一度頑張ろう、目標に向かって進んでいこう、と思っている方が大勢おられると思います。しかし、希望する学校や会社に入れなかったということがあるのも事実だと思います。

「変わる」と「変える」という言葉には、違いがあります。地震や病気など、自分の意思とは別のところで変化が現れるのは「変わる」。それに対して、「変える」は、自分の意思を持って決断すること、行うことです。皆さんがクリスチャンになる時、自分の意思で今までの生活から百八十度向きを変え、主と共に生きていくという決断をされたから、今ここにいらっしゃるのです。
『心の一新によって自分を変えなさい』といっても、なかなか自分ではできない、と難しさを感じている方もいると思います。ある人は、どうして私は自分を変えることができないんだろう、と思っておられるでしょう。「変えなさい!」と言われて、「変えたい」と思ったとしても、そう簡単にできるものではありません。
人は弱いですし、知らず知らずのうちに世の中に流されてしまっているということもあります。学校や会社において、初めのうちは、「これは違うのではないか?」と思ったとしても、みんながやっているからと、いつしかそれが当たり前になってしまう。他の人に倣って、「これって別に間違ってないんじゃないの。これで正しいんじゃないの」という考えになって流されていってしまいます。ですから、それぞれが神さまへの献身をしっかり保って、他の人がどうであれ、間違っていることはしっかりと、「そうではない!」と正しい行動がとれる人になっていきたいと願います。

聖書には、『立っている者は倒れないように気を付けなさい』というみことばがあるように、自分は大丈夫だ!と思っている時がいちばん危ないのです。皆さん、「自分は大丈夫」ではないのです。でも「主が共におられたら大丈夫」だということを覚えてください。イエスさまは、どんな時にも、私たちに力を与えることができる、解決を与えることができる方です。
また、『人にはできないことが、神にはできるのです』とあります。死んだ魚はそのまま流されていってしまいます。また大木でも川に置いたら流されてしまうのです。でも小さな魚でもいのちがあったら、どんな濁流でも逆行し上流に上っていくことができます。私たちは弱い者ですが、主が私たちに新しいいのちを与えてくださいました。そのいのちによって力が与えられ、この世に流されることなく主と共に歩むことができます。この世に逆行する働きかもしれませんが、クリスチャンとはそういう存在であるということを覚えていただきたいのです。

パウロがローマ人への手紙十二章一節と二節で伝えたかったことを要約すると、「すべてのことを神に委ね、自分自身を神にささげなさい。そのためには、この世が私たちに対して影響を与えようとする時、その影響を決して許してはならない。それに屈してはならない。むしろ心の一新によって向きを変えて、常に神さまに目を向け、霊的な扉を大きく開いていただき、自分の心が変えられていくことを求めなさい」ということではないかと思います。

二節のみことばに、『神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る』とありますが、皆さんがいろいろな問題にぶつかった時に、「神さまは何を考えているのか?」、「どうしてこうなるのか?」と思うことがあると思います。私もそう思う時があります。しかし大切なことは、どうしてこうなるのかと考えることではなく、「神さまが何を望んでおられるのか」、「神さまが私に何をさせようとしているのか」ということを考えることです。
先ほど、「世の中にどのくらい影響されているか」という話をしましたが、現在五十パーセントだとしたら、イエスさまへの思いが、七十パーセント、九十パーセント、百パーセントになって、私たちの思いが主と同じ思いに変えられていくように、神さまの思いで満たされていくように、自分自身を変えていっていただきたいと思います。そうする時に、私たちは神のみ心をつかみ、み心を悟ることができるようになっていくことを覚えてください。

コロサイ人への手紙三章十五節にはこうあります。

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配する…』とあるのですが、支配するという言葉の印象は、「束縛される」とか「自由がなくなる」というように、あまりよいものではないかもしれません。しかし私たちの心が「主に支配される」なら、私たちは本当の自由を得ることができるのです。そしてこの言葉は、神さまがどれほどまでに私たちを愛してくださっているのかということを知るための、キーワードなのです。
私たちは教会の中で、ただ人間的な性格の一致や共通の趣味の一致ではなく、神と共に生き、神の働きをサポートし、神の働きを実現するために、同じ心を持ってそこに集う者たちだ、ということをぜひ知ってください。ですから、あなたが教会に集うのは、大きな意味があるということを覚えて、ぜひ教会にお越しください。
私たちの信じているまことの神であるイエスさまは、明日のことを知っておられ、そしてあなたのことを誰よりも愛してくださっています。そしてあなたに最善の祝福を与えようとしてくださっています。そのイエスさまに信頼して従っていく時、私たちは本当の喜び、恵み、祝福をいただくことができるのです。