2026年4月12日(日)新城教会牧師 岡本信弘
第一コリント人への手紙13章13節
いつまでも残るものは、信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美いたします。
早いもので、もう四月となりましたが、私は、今年初めてメッセージをさせていただきます。こうして健康で主の恵みの中、奉仕させていただけること、私も家族も守られていることを、主と皆さんに、心から感謝いたします。
また、私が任せられているプレイズの働きも、様々な事業がありますが、神さまの守りの中で祝福されて、三十六年目を迎えました。本当に心から感謝します。
昨年から経営を始めたベテルファームのことを少しお話しします。家庭で花や野菜を育てておられる方もいらっしゃると思います。先週までは桜がとてもきれいに咲いていましたが、私はそんなことにもまったく興味がありませんでした。そんな私が、植物を育てる事業に携わるなど、夢にも思っていませんでした。自分でも驚きですが、周りからも「本当に大丈夫」と心配されています。それでも、新しい発見がたくさんあり、とても楽しく仕事させていただいています。
写真をお見せします。
このハウスは、横が約十m、奥行きが五十mですが、同じようなハウスが七棟あり、それ以外にも路地で、ローズマリーやタイムを育てています。ハウスで育てているのは、主力商品の「セルバチコ」です。ご存じの方は少ないと思いますが、少し苦みのあるルッコラの仲間の野菜です。
もう一枚の写真は、三月七日に撮ったものですが、別のところで種を植えて、芽ができた苗(少し青緑に見えるもの)を植え付けたところです。そして次の写真。これが四月七日、ちょうど一カ月たった様子です。成長して、すでに収穫できるまでになっています。皆さんも家の周りの草木や雑草の成長の早さに驚かれることがあると思うのですが、私は今までそういったものに目を留めてこなかったので、一カ月でこれだけ成長してるの見て、神さまの創造ってすごいなぁと、あらためて教えられました。今週から収穫しますが、少しだけ根を残しておくと、さらに一カ月後には、この状態まで再生します。
農業部門が順調に拡大し、プレイズ全体の働きもさらに祝福されるように。多くの収益をあげられる事業体となり、ミッションや教会にもっと献げられるようにと願っていますので、続けてお祈りいただければと思います。
話し変わりますが、先々週は、『数えてみよ主の恵み パート6』の集会が行われました。これは、私の兄の趣味ともいえますが、皆さんが忍耐を持って参加してくださって、感謝します。弟としては、兄が何か余計なことを言うのではないかと毎回ハラハラしますが、今回は、森勝利さんと菅沼志保先生が証しをしてくださり、とても恵まれた時でした。
最近よく語られていますが、この教会が、新城教会として正式に設立されたのは一九五六年です。私はこの年に生まれたので、私は教会の歴史と共に生きてきたというわけです。そして、今回のこの集会のテーマは、一九七〇年代でした。
その年、私は中学生でした。その後、高校生、社会人、そして一九八〇年には結婚したので、一九七〇年からの十年間は、私にとって本当に変化の大きな、そして多くの恵みをいただいた年月であったように思います。
この集会の少しあとに、以前にもお証ししたことがある丸山悟先生が、印刷の打ち合わせのためにプレイズに来られました。先生は、現在、相模原市で牧会をしておられますが、その昔、私たちはマルイチ(私の兄が経営していたスーパー)で一緒に働いていたことがありました。私は、詳しいことをほとんど覚えていなかったのですが、彼ははっきりと覚えていて、その時のことを次から次へと二~三時間も話してくれました。
彼がマルイチで働くきっかけとなったのは、一九七九年、今から四十七年前、彼が中学を卒業した年でした。彼は中学に行けなくなり家で引きこもっていましたが、ある時教会に来て救われ、一九七九年十二月に洗礼を受けたそうです。
そのころは、まだこの会堂が建築中で、隣の、今ヘブンズアイスがある場所(プレイズハウスという名前でした)で集会をしていたのですが、彼が後ろのほうの席に座っていたのを見つけて、私が、「丸山くん。今何してるの?」と声をかけたそうです。彼は、「僕は、中学に行けず、家に引きこもっていたのですが、何とか中学を卒業して、近くの鉄工所で働いています。でも、これからどうなるか心配です」と答え、それで私が、「マルイチに来て働いたらどうだ」と言ったことで、彼は次の週からマルイチに働きに来たということでした。
当時私はマルイチで、魚をさばき、肉を切っていましたので、彼にもいろいろと手伝ってもらい、また、兄の指導を受けてマルイチで二年間働きました。教会生活もしながら少しずつ成長していくなかで、順先生からのアドバイスを受けて、定時制に通い、大検を受け、アメリカの大学に留学して学びました。彼は本当に頭がいいんですよね。その後、アメリカの有名な神学校に入り、優秀な成績で日本に帰国したのです。今は、平岡先生と同じバプテスト連合の牧師をしながら、教団の理事をしたり神学校で教えたりして活躍しています。次回の「数えてみよ主の恵み」に証しに来てくださいとお願いしておきましたので、いつか直接、証しが聞けるかもしれません。
彼は、私に会うたび、「あの時、先生に声をかけてもらわなかったら今の私はなかったですよ」といつも言ってくれます。私は何もしていないけど、と思いながら、彼がそう言ってくれること、そして何より、彼が主に用いられ素晴らしい主の働きをしてるのを見て、心から感謝しています。このように、振り返ることによって知れる恵みがあるなぁ、素晴らしいなぁと思います。
しかし、「昔は良かった」というだけでは何も変わりません。初代のクリスチャンたちがこの地域において戦い、その結果、残してくれた信仰の遺産を忘れず、今まで守られ祝福されてきたことを感謝し、さらに次の世代へとつないでいかなければなりません。そして、主が帰ってこられるまで、一人ひとりが神さまから託されている賜物をしっかりと受け取り、リバイバルのために前進していきたいと切に願います。
さて、本題に入ります。今日は先ほど読んでいただいた御言葉から、『いつまでも残るもの』と題して、信仰、希望、愛について語らせていただきます。
信仰、希望、愛、どれもとても耳障りのよい、きれいないい言葉ですよね。それぞれ別のようなものに思えるかもしれませんが、実はこの三つは深いつながりがあり、どれも形のない、目に見えないものという共通点があります。それぞれが重要であって、一つでも欠けたらクリスチャン生活が、不十分なものになってしまうものでもあります。
まず一つ目の「信仰」。
クリスチャンにとって絶対になくてはならないものは、神への信頼、信仰です。それは、ここにいる皆さん誰もがご存じのことだと思います。この信仰について、少し掘り下げてみましょう。
今年、私が二〇二六年の御言葉として心に特に留めているのは、ヤコブの手紙二章十七~十八節です。
『同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。』
行いを伴う信仰ということに心に留めているヤコブは、特に強い口調で、「行いのない信仰なんか死んだものだ」と言うのです。
一方で、信仰の大切も、聖書ははっきりと教えています。
『信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。』(ヘブル人への手紙十一章一~二節)
また、続く六節には
『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。』
とあります。ヤコブやパウロ、また宗教改革をしたルターの言ってることは矛盾してるのでしょうか。そうではありません。それぞれに視点が違うだけなのです。
パウロは、「人は何によって救われるのか」ということを語り、自分が何をしたという行いではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、そして救われるということを強調しています。
一方ヤコブは、「本当に救われた人ならば、そこにはどのような実が現れるのか。本当に信じているなら、その信仰は必ずその人の生き方に現れてくるはずだ」。信仰が本物であるなら、そこには必ず行いが伴ってくるはずだと語っているわけです。
どちらも、神さまを信じる点では同じであって、違った方向から語っているのです。
ヤコブ人への手紙二章十四~十六節を見ますと、こうあります。
『だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着るものがなく、毎日の食べ物にも事欠いているときに、あなた方のうちのだれかが、その人に「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要なものを与えなければ、何の役にたつでしょう。』
この御言葉で神さまが語っておられるのは、単に貧しい人に食料を与えなさいと促してるわけではありません。信仰が成長し、まず自分から犠牲を払ってでも本当に困っている人に手を差し伸べるという行いができるか、ということです。
聖書中には、素晴らしい義人たち、預言者たち、王たちが出てきますが、行いをもって信仰を表した代表的な人は、アブラハムではないでしょうか。アブラハムは七十五歳で神に呼び出され、神さまから、「あなたに子どもを与える」と約束をいただき、信仰を持ってそれを受け取りました。しかし、それから長い年月、そのことは実現されず、息子イサクを授かったのは、彼が百歳になった時でした。
やっと授かった最愛の一人息子を神さまは、「あなたの子を私に捧げなさい」と命じられました。人間的に、どれほどの苦しみ、葛藤があったことでしょう。アブラハムにとって、理解を超えた最大の試練ではなかったかと思います。しかし、そのような時にも、彼はなおも神を信じ、神に信頼し、そして神の言葉に従い、イサクを捧げようとしたのです。ここに信仰がありました。その従順な行いは、神さまへの信頼の表れでした。そしてその行いは、神さまに喜ばれ、それゆえ後に彼は、「神の友」と呼ばれたのです。
ヤコブが言っているように、信仰が成長し、その表れである行いによって証しされていくのです。行いといっても、目に見える献金や奉仕、伝道といったものだけでなく、与えられている賜物を生かして、とりなしをしたり、愛を持って隣人に寄り添ったりすることも大事な行いです。
もし皆さんの目の前に、お金もなく食べるものもなく、困り果てている人がいたらどうしますか。多くの人が「当然助けますよ」と言われるでしょう。今の私たちには食べるものがありますし、寝るところがあります。恵まれた状況といえます。しかし、この御言葉のヤコブの時代は、一部の上流階級の人を除いて、多くの人が日々の生活にカツカツで、食べるものがあるか、寝るところがあるか、明日はどうしよう、といった状況でした。そのような貧しい、同じような状況の者が、他の人に手を差し伸べることができますか?
これは、計算ではなく、ただ人を助けたいという思いで行動できるかということを、問われているのだと思います。クリスチャンの方たちは信仰を持っています。しかし、その信仰を私に見せてくださいと言われたらどうですか。信仰というのは目に見えませんし、形もありません。目に見えない信仰を、目に見える形で示すとしたら、それはその人の行いであり、その人の生き様ではないでしょうか。
ヤコブは、口で信じていると言うだけでは、本物の信仰とはいえない、と言っていますが、行いがなければ救われない、と言っているわけでもありません。本当に信じているなら、その信仰は自然とその人の生き方に表れてくるはずだ、と語っているのです。信仰は行いによって証しされます。そして行うことによって、さらに成長して信仰が確立されていくということも事実です。初めからできるわけではありません。信仰を持っている私たち一人ひとりが成長し、行いの伴ったクリスチャンとして神様の愛を伝えていく、証しをしていく、それが生きた信仰の結果ではないでしょうか。
二つ目の「希望」について考えてみましょう。
希望という言葉を辞書で引いてみると、「将来に向けてこうなってほしいと願い、それが実現すると信じて待つ心」と記されています。皆さんは将来に希望を持っていますか?
人の思い描く将来とはどの時点を言うのでしょう。五年、十年、長くても二十年くらいではないでしょうか。だんだん歳をとると、将来に対する不安も多きうなってくるかもしれません。では、聖書にはどう書かれているでしょう。エレミヤ書二十九章十一節にこうあります。
『わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のみ告げーそれはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』
聖書が教えている将来というのは、単にこの地上の七十年、八十年、百年のことではなく、生まれてから永遠に続く未来を、将来として位置づけているわけです。
経済・政治が不安定で、問題山積、あちらこちらで戦争が起きていて、日本もいつ巻き込まれるかもわからないような時代に生きている私たち。「将来は明るい」と言える人は本当に少ないと思います。
些細なことで、世の中は一変してしまいます。六年前のコロナウイルスの発生もそうです。大したことない、と初めは思っていましたが、あっという間に世界中に広がり、世の中が完全に変わってしまいました。
先日、三重県の高速道路で、痛ましい交通事故がありました。一瞬にして六人の尊いいのちが失われました。また、新城では、今年になってからまだ数カ月なのに、交通事故で三人の方が亡くなり、火災で全焼してしまった家が何軒かあります。他人事ではありません。人生は思いがけない出来事の連続で、「一寸先は闇」とよく言われますが、明日のことは誰もわからないのです。しかし、神さまは私たちに将来と希望を与えると語ってくださっています。
人は、幸せに関してどのような価値観を持っているでしょうか。目に見えるものが重要で、お金があったら満足、健康があったら幸せ。反対に、お金がなくなり貧しい暮らしになったり、病気になったりしたら、もう夢も希望もない、と多くの人が考えます。それは、この地上での人生にしか目を留めていないからではないでしょうか。
聖書は、『人はたとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょう』と語っています。たとえ全世界、皆さんが欲しいと思うものすべてを手に入れたとしても、いのちがなくなったら何にもならない。それは無意味だと言っています。
新約聖書に出てくるパウロは、多くの手紙を書き、人々を導いた偉大な人物でしたが、ピリピリの手紙三章七~八節でこう言っています。
『しかし私は、自分にとって得であったこのようなものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの すばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。』
パウロは、人の羨むようなものを手に入れることができ、誇るべきものを持っていました。当初彼は、キリスト者迫害の先頭に立っていた人で、多くのクリスチャンたちを投獄していました。しかし、イエスさまに救われ、キリストを証しする人に変えられたのです。そして、そんな以前の自分が持ってたものは、キリストを知ることに比べたら取るに足らないものだ。すべてが色褪せて見え、価値のないもの、損だったと言っているのです。
皆さんはどうですか。人生を振り返る、と言ってもまだ数年の人もいれば、七十、八十年の人もいますが、長い人生の方は、後悔したことが何度かあるかと思います。それは人それぞれですが、年配になってからクリスチャンになられた方の後悔の一つは、「もっと早くイエスさまに出会うことができていたらよかった」ということではないでしょうか。私はクリスチャンの家庭に生まれたことによって、幼いころから神さまはただお一人、イエスさまだけ。この方以外に救われる道はない、と教えられて、それを信じることができました。それはただただ恵みであると、主に感謝ですし、親にも感謝しています。
イエスさまに出会ったクリスチャンには、この世の人とは違う未来があります。クリスチャンには、主がやがて帰ってこられるという希望、この地上の歩みの先に天の御国があるという未来です。また最近は、天の教会と地の教会という、新しい視点が順先生から語られています。私の数十年のクリスチャン人生でも初めて聞くことです。クリスチャンとしてこの世の人生を全うし、やがて天に帰ることができ、イエスさまと顔と顔を合わせてお会いできるという望みは以前から持っていましたが、それに加えて、天の教会と地の教会が一つになる、完全な神の支配が現されることを聞き、大きな喜びと期待があります。
この希望は、クリスチャンにとって、ある意味当たり前といえます。クリスチャンの持っている希望は、単なる妄想とか幻想ではありません。この地上のものだけだけではなく、永遠に続くイエスさまへの信仰があってこそ成り立つ希望です。
そしてもう一つ、「愛」について考えてみましょう。
愛とは、素晴らしい言葉です。信仰も希望も大切ですが、一番優れているのは「愛」だと語られています。
愛にはいくつかの表現があります。男女の愛を表すエロス、友情の愛を表すフィリア、家族愛を表すストルゲー、そしてもう一つは、無償の愛を表すアガペーです。その中で聖書が最も大切にしている愛が、無償の愛であるアガペーです。私たちが信じている神さまは、アガペーの愛で私たちを愛してくださっています。私たちを救うために、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちにいのちを与えてくださいました。イエスさまがなぜそこまでする必要があったのでしょうか。
ローマ人への手紙三章二十三~二十四節にはこうあります。
『すべての人は罪を犯して、紙の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。』
ここに、すべての人は罪を犯した罪人であると言っています。そのままでは義と認められることができないので、私たちを我が子として愛してくださっている神さまは、何としても私たちを罪から救い出し、脱出させたいと願い、ご自分の愛する御子イエスさまをこの世に与えてくだったのです。死刑囚が死刑囚の身代わりになることはできません。もしできるとしたら、罪のない人が身代わりになる場合だけだと思います。それが、ただ一人、罪のない人としてこの世に生まれてくださったイエスさまなのです。
ヨハネの手紙の第一 四章九~十節にはこうあります。
『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私の罪のために宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』
これが福音であり、グッドニュースです。どんな知らせよりも、どんな大きな幸運よりも大きな喜びです。
「この地上でいちばん大切なものは何ですか」と尋ねたら、多くの人は「いのちです。いのちがなくなったらすべてが終わりですから」と答えるのではないでしょうか。しかし、イエスさまは、そのいのちを私たちのために投げ出してくださったのです。
『キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。』(ヨハネの手紙の第一 三章十六節)
愛を表すのはなかなか難しいことです。自分を投げ出すことは簡単ではありません。聖書に語られているイエスさまの愛は、見返りを求めない無償の愛、アガペーの愛です。子どもをいのちがけで守りたいと願う親の愛は、これに似ていると思います。子どもが重い病気にかかったら、自分のいのちに代えても助けてあげたいと親は願うでしょう。親は父でも母でも同じ思いだと思うのですが、いつの時代にも母の愛は偉大だとよく言われます。なぜ父の愛とは言われないのかと思ったりするわけですが…(笑)。
親が子供のために犠牲を払うのは、ある意味では自然なことかもしれません。しかしイエスさまは、あなたが神に背を向けている時も、神などいないと否んでいる時でも、あなたのすべての罪を背負い、身代わりとなるために十字架にかかり、いのちを投げ出してくださいました。それは、神さまの大きな愛のゆえです。
世の中には、「自分の人生は自分で切り開くものだ」「私は自分の力で生きている」と思っている人が多くいます。しかし、私たちは私たちを罪から救うためにいのちを投げ出してくださったイエスさまの愛に生かされ、支えられているのです。そのことを信じ、その愛を受け取るなら、永遠のいのちを持つことができます。
ルカの福音書十章に、夜中に強盗に襲われて倒れていたユダヤ人を助けたサマリア人の記事があります。当時のユダヤ人とサマリア人は交流もなく、敵対関係にありました。しかし、このサマリア人は、自分もそこにいたら襲われるかもしれないという危険を顧みず、敵対関係にあるユダヤ人を介抱し、宿屋まで連れて行きました。お金と時間を使い、助けたのです。これこそが無償の愛です。
それ以上に、イエスさまの十字架の死は、この世の価値観からすれば何の得もない、むしろいのちを失ったのですから、いちばんの損失でした。反対に、私たちは、イエスさまのその犠牲によって、大きなご利益を受けたのです。