主は私のカウンセラー

誰がこのイスラエルの民と契約を結んだのか。それは、ダビデの方からイスラエルの民と契約を結んだのです。「イスラエルの民があなたを王とします。あなたに仕えます。」ではなく、『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と、ダビデが牧者の王としてイスラエルの民を治めてくださいとの申し出に、ダビデが主のみ前に彼らと契約を結んだのです。王でありますが、イスラエルという羊の民に対して、羊飼いとして、羊であるイスラエルの民に忠誠を尽くすという仕える姿がありました。その姿は、真の王なる牧者であるイエスさまの姿を見ることができます。そしてイエスさまご自身も父なる神さまに、真の大いなる父なる神さまに伺い、みこころをいつも求めて、十字架にまで従われ、仕えられた方であります。

私たちが主と同じ姿に変えられていくことを目指す信仰 生活の歩みは、このような牧者の態度を学ぶことを通してなされることであり、それは、私たちが主に伺う者とも成長させられていくことにもつながるということを教えられます。

それでも、私たちは「王ではない!ダビデ王ではない!」から関係ないと思ってしまいがちですけども、新約の私たちクリスチャンは、王のポジションが与えられているのです。ペテロの手紙第一二章九節、

『しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。』

私たちは、神によって選ばれた祭司、王、聖なる国民であります。ですから、「ダビデ王は特別だから」という話では終わらないのです。ダビデ王やイエスさまと同じような働きを、この時代にあって担わされている神の民であるということを覚えていきたいと思います。ですから、主を前に置き、主と共に進んでいく、主に伺う者と成長していくことは、すごく大切なことであるということを教えられます。

また、ダビデ王は王となって、ペリシテ人たちから二度にわたって、執拗に攻撃を受けるわけです。私たちも王ならば、そのポジションを与えられている者なので、悪魔、悪霊どもの敵から攻撃を受ける立場であるということも覚え、今日もう一度、暗闇に対して目を向けていきたいと思います。

話は少し変わりますけども、ここに何が見えますか?

この中に虫がいるわけです。どうでしょうか?本当に神さまって素晴らしいデザイナーだなぁと思うのですが、これは蛾だそうです。この真ん中にある棒きれのように見えますが、こういうのを擬態と言います。上手に隠れていますね。コリント人への手紙第二十一章十四節には、

『しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。』

悪魔・悪霊は、「私は敵だよ〜」とは、近づいて来ないのです。今見たような変装が上手な生き物たちもいますが、悪魔は狡猾で、変装がとっても上手で、光のみ使いにまで変装するぐらいだと言うのです。ですから王とされた、祭司とされた私たちは、ダビデと同じように攻撃対象とされた者として、悪魔はうまく隠れて、あらゆる方法をもって、執拗に誘惑をかけ、攻撃をかけてくる敵であるということを覚えていきましょう。その敵に対して、霊的な目を開き、私た見極め、騙されることなく、立ち向かい続けることも覚えていきたいと思います。

少年ダビデがゴリヤテと戦う時に、「おまえはペリシテ人の所へ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」こんな言葉を王の口からダビデに語られるわけです。そんな言葉を聞いたら、気落ちして、怖気づいてしまいそうなのですが、そんな王の言葉ですら、ダビデは受け取りませんでした。ダビデは主に伺って、主の言葉、主にだけ信頼して戦いに出て行って、主の勝利を受け取って、全イスラエルを治める王とされていくわけです。

本当に悪魔は巧みに私たちを誘惑し、攻撃してきますので、「敵の声は聞かない」と宣言しましょう。また、皆さんの中で、敵、悪魔の声を聞いたことがある方おられますか?神さまの声を聞いた私の息子もいますけども、悪魔の声を聞いたことがありますか?もし、悪魔の声が何か映画やアニメに出てくるような、モンスターやゾンビのような、気持ち悪い声色で声をかけてきたら、そんな声は絶対聞かないですよね。でも往々にして、そんな声ではなくて、普通の声だったり、また、実は私たちの思いにつけこんでくると思うのです。「おまえは能力がないじゃないか。おまえには勝てない。おまえには力がない。絶対無理だ。もうおしまいだ。」そんな言葉が私たちの中に飛び込んでくる時というのは、実はどんな声かというと、自分の声ではないでしょうか。私たち自身が落ち込む時、気落ちする時というのは、自分の思いの中、自分の声によって、神さまご自身を見られなくなったり、主に伺えなくなったりしてしまう時があるのではないかということを、霊的戦いという視点から、自分の声のふりをした悪魔の誘惑があるということを教えられました。

私たちが聞くべき声は、その自分の声のふりをした悪魔の声ではなく、主ご自身の声だけです。主に伺っていきましょう。その時に神さまの不思議な完全なる大勝利が与えられることを覚えていきたいと思います。

最後に短くもう一つの証しをさせていただいて終わりにします。二〇〇四年にリバイバルミッションで沖縄ミッションが開かれました。そして私はその当時、アメリカの語学学校へ行かせていただいて、そして戻ってきて、英語が少しだけできるようになっていたので、とりあえず英会話学校のパートタイムの仕事に就ければなと思って準備をしていたのです。書類審査が通って、試験を受けることになりました。そしてペーパー試験を受けて、その後に面接でした。しかし面接を待っている間に、何か心に平安がありませんでした。救われて間もない私であったのですが、沖縄ミッションの準備の集会から本大会までの準備などを沖縄に住んでお手伝いをしないか?そんな話が私にあったのです。その話を聞いて私は、不思議に心が熱く燃やされたのを感じたのを覚えています。

しかし救われて間もない私に何か特別にできるわけでもなかったので、まずはやはり働くことが優先だと思い試験を受けていました。その時期には、そんなに聖書のことも、聖書のみことばも知らないような、主に伺うこともしないような私でしたけども、不思議に、ローマ人への手紙の十二章一節から二節の言葉が心に響いていたのです。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の
みこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

こんなみことばが、救われて間もない私の中で、なぜかとどまっていたのです。『生きた供え物としてささげなさい。』『この世と調子を合わせてはいけません。』面接を待っている間も、このみことばが響いてきて、このみことばに押し出されるように、面接を受ける前に、「いや、申し訳ないですけど働くことが難しいので、面接を受けずに帰らせていただきます。」と帰ってしまったのです。受けたところで受からなかったかもしれないですけど、偉そうに「帰らせていただきます。」なんて言ったのですが。その後、沖縄に住まわせていただいて、リバイバルミッションの準備の集会から本大会に至るまでお手伝いをさせていただきました。それも滝元明先生と同じ屋根の下で生
活をしたのです。そして明先生の裏表のないまっすぐな信仰生活を、目の当たりにして、体験させていただきました。

また大会準備の小さな集会で毎晩熱いメッセージを明先生をはじめ、順先生やリバイバルミッションの先生方が語られるのを聞いて、主ご自身と出会わせていただく恵みの時を過ごさせていただきました。

もしあの時の瞬間、神さまご自身に押し出されていなかったら、今こうして教会においてフルタイムで奉仕をさせていただくということには、もしかして導かれなかったのかなとも思います。主に伺いを立てることもできないような弱い、そんな者でしたけども、みことばを通して主が私に語ってくださっていたんだなと、今思い返されます。私の末っ子の息子に、神さまが「おまえに祈りを教えたい。」そんな言葉をかけられましたけども、主ご自身が私たちにしてほしいことがあるはずです。私たち一人ひとりは王であり、祭司であります。ダビデ王と同じポジションにあります。大切な一人ひとりであることを覚えていきたいと思います。そして今日皆さんも主に伺ってみてください。そして悪魔の声を絶対に聞かないで、主に大胆に、従順に、従っていきましょう。私たちが思い描いたことない完全なる大勝利の未来が主によって打ち立てられていくということを信じて、この二〇二三年、希望の年を過ごしていきたいと思います。

箴言十九章二十一節、先日、岡本信弘先生が語ってくださったみことばです。

『人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。』
『There are many plans in a man ’s heart, Nevertheless the Lord’s counsel―that will stand. 』

この「主の計画こそが実現する。」という所、「the Lord’scounsel-that will stand. 」主の助言が打ち立てられていくということであります。主に期待して、主を前に置き、ともに励まし合いながら、祈り合いながら、この信仰の戦いを戦い抜いていきたいと願わされます。特に今週、様々な主の働き、戦いがありますので、私たち行く者も、待っている者も祈って、この主の戦いの前線に出て行って、ともに戦っていきたいと願わされます。

最後にお祈りしてメッセージを閉じさせていただきます。

ハレルヤ。父なる神さま、イエスさま、聖霊さま、今日、主が私たちの最善の、最強のカウンセラーであるということを、覚えさせていただく、この礼拝の時を与えてくださり、ありがとうございます。主よ、私たちをまず主に伺う者とさせてください。そして主ご自身がその先に完全なる主の守りと、また不思議な、圧倒的な、完全なる勝利を用意されていることを信じて感謝します。

この二〇二三年、残すところの歩み、またこれから続いていくあなたとの歩み、主に目を向けます。主を前に置きます。僕は聞きますと、主のみ声に耳を澄まし続けて、神さま、私たちを主に伺う者と更に成長させていってくださいますようにお願いします。今、困難、苦難、危機的な状況のただ中におられる方々も、主の勝利の完全なる勝利のプロセスの中にあることを宣言します。しかし、その中で弱さを覚えている兄弟姉妹の上に、どうかあなたが油注ぎを与えてくださって、あなたが一方的に声をかけてください。私たち主に伺う者となっていきたいと願いますが、主は一方的にも語ってくださる方であることを今日も様々な箇所を通して教えられましたから、主よ、あなたが私たち一人ひとりに語り、励ましてください。

そして今週は様々な所に出て行って、主の戦いがなされていきます。主が共に行ってください。また主が先立って、主の圧倒的な勝利をとってくださいますように。万軍の主が私たちの前を今週も進まれ、主の大いなる勝利を受け取る週となることを主のみ名によって宣言します。今日の恵みの時を心から感謝します。続けられる聖餐式の中にも主ご自身が豊かに臨んでください。すべての栄光を主にお返しして、イエスさまのみ名によって父なる神さまに祈りをささげます。アーメン。