主は私のカウンセラー

『ダビデは主が彼に命じられたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を討った。』

と二十五節にありますけれども、これはこのような位置関係にあります。
エルサレムの少し上の方にゲバ、ゲゼルがあり、レファイムの谷という所があるのですが、そこで敵を追って、レファイムの谷からゲゼルまで、海の方まで、ペリシテ人を追いやったのです。完全なる圧倒的な勝利を神さまがくださったわけです。

この二つの戦いの中で、私が心に留められていることは、まずダビデが主に伺った。神さまをカウ
ンセラーとして、最善の、最強のカウンセラーとして、神さまに助言を求めた。そしてその助言にダビデは従う覚悟も、信仰も、備わっていたところです。

もしカウンセリングを受けて、助言を受けたとしても、それに従わなければ何の意味もないですね。ダビデは、その従う準備もして、主に伺っていたわけです。そして主の戦略をいただき、主が圧倒的な勝利を与えてくださったわけです。私たちの現実的、霊的な戦いにおいても、私たちが「主に伺う」ことから始めるとき、あのような神さまの素晴らしい勝利を受け取らせていただけると
信じます。

今週、私たちは更に主に伺って、主のみ声に聞いて、従って、主の勝利を受け取っていきたいと、そのように願わされます。

少し話は変わりますが、先日、家庭集会があり、高速道路を使って車で会場に向かっていました。そんな時に、高速道路で工事の渋滞情報が出ていて、四十分ぐらい通常より遅れるという表示がありました。家庭集会の会場へ行くには二つのルートがあり、新東名か、古い東名か、二つのルートを選択できたのです。あと二キロで決めなければならないという、危機的な状況に直面しました。私は主に伺ったと思いますか?

私はこんなみことばをもらっておきながら、一生懸命、携帯を開いて、Google マップで調べていました。本当に四十分の表示が合っているかなぁと一生懸命調べて、「あと二キロしかない!」その中で私は、主に伺うというタイミングはゼロでした。すみません、こんな話をしていて申し訳ないなと思うのですが、時に私たちは危機的な状況に陥った時に、主に目を向けるというのは難しいなと思うのです。そんな時こそ、私たちは、まず一呼吸して、主に目を向けて、主に伺う。そのような態度を持つ者となっていきたいと、私自身教えられております。

もう一つ、お話をお分かちします。これ何かご存知でしょうか。

一九一二年、浮沈の船と呼ばれた豪華客船のタイタニック号ですよね。イギリスからアメリカのニューヨークへ向かう途中、氷山
に衝突して沈没してしまいました。沈没の前に、氷山があるという警告を六度も受けていたそうです。そして沈没する直前にも、氷山の警告を受けていたというのです。浮沈の船、豪華客船。驕り高ぶりもあったかもしれませんけども、その警告を真摯に受け止めず対処しなかったために、多くの尊い命が奪われてしまったということですね。もしもその警告に対して、運転士の方々が耳を澄ましていれば、このようなことは起こらなかったかもしれないということです。本当に主に伺う。主のみ声を聞くということは、本当に大切なことである。特にこの戦いに際して、私たちは主に伺っていく、主をカウンセラーとしていくということが本当に大事なことであるということを、こんなお話からも私自身教えられております。

しかし主に伺ったら、主は語ってくださるのか?皆さんの中で主の声を聞いたことがある方はおられますでしょうか。いろいろな形で主の声を皆様、受け取っておられると思うのですが、最近あった私の息子の話をお分ちしたいと思います。

我が家の末っ子の息子は、順先生のお孫さんと三日違いの誕生日で、とても仲の良い友達。仲間というか、仲間や友達じゃ片付けられないような、いつもくっついているような、いい友人なのですが、最近週末になると順先生のお宅に泊まらせていただいているのです。土曜日の夕食から、そして日曜日の朝食まで大変お世話になっています。

そんな中、順先生が、彼らをとりなしの祈りに連れて行ってくださって、その時に私の息子が神さまの声を聞いたと言うのです。「なんでおまえが順先生の家に泊まれるか知ってるか?それは私がおまえに祈りを教えたいからだ。」そんな言葉を神さまが語ってくださったということなのですが、その時よりも以前にも同じようなことがあったみたいです。それは夢の中で「なんで順先生の家に泊まれるか。それは私がおまえに祈りを教えたいからだ。」という言葉をはっきり聞いたそうなのです。主は生きておられて、私たちに語ってくださるということを、もう一度皆さんとともに覚えていきたいと思います。
我が家では二人の息子たちが同じ部屋で二段ベッドで寝ているのですが、彼らを寝かしつけるのは私の役目なのです。最後お祈りしてもらって寝るのですが、彼らの祈りは、自分のことを「感謝します。」それで終わってしまうのですが、その夢で主の声を聞いた後だったのですが、彼が私に、「パパ、明日は何かあるか?」とかって聞いてくるのです。「明日は水曜礼拝で賛美リードするけど。」と言ったら、「じゃぁそのために祈る。」と言って祈ってくれたのです。今までは自分のことばかりで「美味しい給食で感謝します。」とか、そういうことばかりでしたけど、初めて自ら祈りの課題を相手に聞いて、そして人のために祈るということをしたのです。

私自身、本当に嬉しかったですけども、同時にその主のみ声を聞くことができる彼を羨ましくも思いましたし、また、本当に主は生きて、私たちに語ってくださる方だということを、改めて教えられて、彼を通して励ましを受けております。私たちも主は何も語ってくださらないだろうと思わないで、主に伺う者ととなっていきたいと願わされます。

またみことばに戻ります。

『そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』

と神さまご自身に、このようにまで言わしめるダビデってすごいと思います。ではダビデが初めから、主の心を行う、成し遂げるような主に対して絶大な信頼の態度を持つような人物であったのでしょうか?

私の末っ子の息子が神さまの声を聞いて、そして人のために祈り出した。主によって、聖霊さまによって変えられつつある彼の姿を見て、ダビデも同じように、様々な経験を通して、成長させられていったところがあるのではないのでしょうか。

ダビデとゴリヤテとの戦いはよく知られていますね。巨人ゴリヤテに対して、ダビデは立ち向かっていくわけですけども、その時には羊飼いの経験を通して、今までも羊飼いの私を獅子や熊から救い出してくださった主がおられる。だからその主に信頼して、主は必ず守ってくださる。そして主が必ず勝利を与えてくださると主に信頼し、万軍の主のみ名によってゴリヤテに立ち向かい戦いに出ていって、主からの勝利を受け取ったわけです。

またダビデサウル王から何の理由もなく、命を狙われ、追われるような時を過ごしました。

赤の矢印がダビデが辿ったルートです。青の矢印がサウル王が追いかけていったりしたルートです。時に、ペリシテ人の地に逃れ、よだれを垂らして、気がおかしくなったかのようなふりを敵の前でしなければならない厳しい状況をくぐり抜けたりしました。また、ペリシテ人の地に一年四ヶ月の間滞
在して、敵陣の中で住むような時もあったわけです。そんな中でも、ダビデは、主が完全に守ってくださったというところを経験しました。ツィクラグという所を与えられ滞在していましたが、ある日、戦いに出て行った後にアマレク人に町が襲われ焼かれて、奥さんも子どもも連れ去られました。しかし、そのような絶望的な状況の中においても、何一つ奪われることなく、家族が皆守られ
たという記事があります。その時にも、ダビデは「主に伺った」とあります。三十章八節です。
『ダビデは主に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

そのような経験を通して、主ご自身に対する信仰、主への信頼、主に伺うということを学びつつ、成長させられていったダビデの存在があるかと思います。

また詩篇の十六篇を見たいと思います。一節、

『神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。』

飛んで八節、

『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』

このようにダビデが歌っております。「私をお守りください。私はあなたに身を避けます。」と、危機的な状況の中で、『私はいつも、私の前に主を置いた。』そのような態度をダビデは取っていたわけです。「前に置く」という言葉を調べると、主人の前の僕の描写であるというのです。主ご自身を私たちの前に置くということは、主人と僕の関係、ダビデは主を前に置いて、主を主人として、いつも仰いでいた。どのような危険な中においても、危機的な状況の中においても、主を自らの主人として、主を畏れて、主に信頼して、主に伺い、主を前に置いていたということなのです。

ですから、そんなダビデでありましたから、神さまのみ心にかなう行動をすることができるようになっていったわけです。今日は詳しくは見ませんが、サムエル記第一の二十四章四〜六節において、そしてまた第一サムエル記二十六章八節から十節において、自分自身を追いかけてくるサウル王を殺すことができるようなチャンスがありましたが、ダビデ自身は、『主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』そんなふうに語ったのです。サウルの上着の裾を切り取っただけで、心を痛めるような、そんな人物となっていました。

また二度目は、「殺してはならない」ということですが、『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。』主ご自身に全てを委ねて、主に信頼して、ここで自分自身が行動するのではなく、主を待つという態度、忍耐というものをダビデに見ることができます。そのため、サムエル記5 章の二回目の戦いで、主の行進の音を、耳を澄まして待つことができたのではないかと覚えさせられます。今、様々な試練や、困難、苦難、危機的な状況をくぐり抜けている、その最中にある方々が、今この中にも、またインターネットで参加しておられる方々にも、おられるかもしれません。それは、やがてダビデのように、主に伺う者へと成長させられていく過程を通っている時であるかもしれないということを、このみことばを学ぶ中に覚えさせられています。

そのような過程の最中にあれば、苦しい、辛い、そんなところがあると思います。しかしその先には、ダビデが二つの戦いで、主の鮮やかな戦略によって受け取った主の完全なる大勝利が待っているということを覚えていただきたいと思います。そのために、私たちもダビデのように、主を前に置く。主人である主を前において、主に仕え、主と共に進み続けていく者となっていきたいと思います。

そしてもう少しみことばを学んでいきたいと思います。ダビデは全イスラエルを治めるようになった。全イスラエルの王となったわけですが、その契約の方法というものを見たいと思います。サムエル記第二五章一節〜三節、

『イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧ください。私たちはあなたの骨肉です。これまで、サウルが私たちの王であったときでさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした。主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」イスラエルの全長老はヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで、主の御前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。』