歌え賛美は山を越える

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

このみことばが与えられたところから始まって、聖書問題に加えて、子どもたち用のクイズも出しました。明牧師が「甲子園ミッション」というその働き、旗を掲げて、さぁリバイバルのために!全日本のリバイバルのために私は立ち上がる!と、立ち上がって、そして示されたみことばがこのみことばだ。『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』なんかわかるようなわからないようなみことばだなと思ったのですが、その時に父が、「主が声を出すと」というテーマ曲を作れと言ったのです。「作れ」と言われて、私はなんて答えたかと言うと、「はい!わかりました!」とは言わなかったのです。「作れって…。作らん。作ってない!」という、生意気にもそういう言葉を返して、振ってきたものをキャッチするだけなので、作ることなんかできないと、そういうふうに言ったのですが、でもそれからほどなくして天から、「主が声を出すと」という歌が降ってきたのです。ですが、あんまりにもダサいなぁと思ったので、違うでしょう!と思って、私は受け取ってなかったのです。
それで今回、オールデーバイブルの中での、付録問題を出したのですが、「『主が声を出すと』は、一九九三年の全日本甲子園リバイバルミッションのテーマ曲でしたが、さて、この歌が与えられて初めて歌った場所はどこでしょう。」知るはずない!という、そういう問題ですけど、初めてどこで歌ったか。私、この歌を初めて歌ったのは、雁峰山か、ダイヤモンドヘッドか、カルメル山か、インドの山の上か、どこだと思いますか?小学生、わかる人!いいよ、中学生でもいいよ。何番だと思いますか?はいどうぞ。四番。残念!インドの山の上ではありませんでした。これはなんとイスラエルのカルメル山という山の上で初めて歌ったのです。こんな問題を今回出したのですが、カルメル山の上で、エリアとバアルが戦った、火の下ったあの山で歌ったという、そんな思い出深い場所でした。

そしてもう一つ、勝利の宣言、この曲はどこで降ってきたのでしょう?「主が声を出すと」のみことばは、十章十三節で、それから約一年後に、「天と地を造らぬ神々は♪」という、戦いの賛美の代表曲みたいな歌があるのですが、この歌が降ってきたのです。ちょうど一年後でした。これどこで降ってきたかと言ったら、カルメル山でもなければ、何でもない、軽井沢の恵みシャレーという所ですけれども、実は恵みシャレー行ったことある方、いらっしゃいますでしょうか。たくさんいらっしゃいますね。恵みシャレー、実はなくなってしまったのです。ついこの間、恵シャレーの隣にあるペヌエルチャーチで奉仕させていただいたのですが、何もかもなくなっていました。なんか次の時代に来たんだなぁということをすごく感じました。本当に神さまはそんな時代の流れとともに、次のことを主が導いてくださっていると思います。

もう一つ、その時出した問題ですけど、「一九九八年に行われた東京ミッションのテーマ曲は何という曲でしょう?テーマのみことばはどこでしょう?」これはあまりにも簡単ですね。昔からの方にとっては簡単なのですが、甲子園とか昔からいての常識と全くない中での常識と、全く違うので、やはり主がくださる新しいものを受け取るためには、絶えず新しい主からの思いと、主が今与えようとされているものの中にいかなければいけないなと、すごくそんなふうに思っています。
テーマ曲は「光のある間に」というテーマ曲です。そしそしてそのみことばは、ヨハネ十二章三十五〜三十六節、

『イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。』

このみことばから主が与えてくださいました。でも神さまがくださる時というのは、本当に神さまの一方的なリバイバルの働き、聖霊さまの働きというのは、それぞれ皆さんも同様に主のみことばとして、ガツと、くださるものだなぁと思うのです。
当時子どもたちがみんな家にいて、車を運転していたのです。そして車を運転していて、車の中ではCDが流れていました。その頃にはもうザワメキが与えられていたので、ザワメキのCDが流れている中で、子どもたちがまだ小さい時、三人の子どもがCDが流れているにも関わらず、全く違う歌を大声で歌っていたのです。そして大声で歌っているそんな真っ只中で、どういうわけか、「光のある間に」の歌が降ってきたという、すごく不思議だったのです。

そして今回出した問題、ザワメキ七、「光のある間に」のレコーディングの場所はどこでしょう?はい、わかる人!①ロサンゼルス、②新城、③東京、④ハワイ。どこだと思う?何かプレゼント持ってきたらよかったね。何も持ってきてないのでごめんなさい。わかる人!どうぞ。一番!ロサンゼルス!残念でした。ブー!もう一人誰かどうぞ。四番!ハワイ!ピンポーン!すごいですね。四番だったのです。ハワイでレコーディングしたという、そういうレコーディングだったのですが、一歩一歩の歩みの中で神さまが本当に導いてくださったなぁと思って、心から感謝しています。

神さまがリバイバルのために「歌え賛美は山を越える、谷を越える、海を越える。そしてわたしの栄光を現すから歌い続けなさい」と言ってくださっていることをすごく強く感じています。

もう一箇所、聖書を開きたいと思いますけども、詩篇五十七篇八節、

『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

このみことばはリバイバルに向けて、賛美をささげるという、とても大切なみことばだと思うのですが、実はこのみことばは、表題に書かれているように、『指揮者のために「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに。』
洞窟に逃れて隠れているような時にダビデが歌った歌なのです。そんな中で彼は歌い続けて、

『神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。』

ある意味、コロナの戦いの中で洞窟にいたような私たちだったかもしれないのですが、そんな中でダビデが歌い続けました。

『神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。セラ 神は恵みとまことを送られるのです。私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。』

ある意味この洞窟の中でのダビデの叫び、すごいと思うのです。逃れ苦しんで、どうしていいかわからないよう中で、「でも主のみ名は全世界であがめられますように」と彼は歌い続けています。そして六節、

『彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。セラ 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

続いていきますけど、本当に神さまはもう一度私たちに、『十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。』と、暁を呼びさます働きをもう一度し続けていくんだよということを、神さまが今この時、語ってくださっている、そんな時代に今来ているのかなぁと、そのようにすごく強く感じさせられています。
神さまの約束は、今日のテーマのみことばが、ヨハネ十二章二十八節なのですが、

『父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」』

これが神さまが私たちに語ってくださっているみことばだと信じています。すでに栄光を現した。様々な戦いの中で主は栄光を現してくださって、祈りに答えてくださって、確かにこの短い歴史の中、この新城教会にとっては七十年ですけども、その中でもご栄光を現してくださいましたけども、すでに栄光を現したが、もう一度栄光を現す!というのが、主からの、今私たちに対する約束のみことばであると信じて進んでいきたいと思います。
賛美が山を越え、海を越え、全世界を越えていく時に、主のわざがなされていく。「すでに現されたわたしの栄光」というのは、やはり父のみ前で、天の軍勢が賛美し、主の栄光にルシファーが傷をつける前の、その賛美で包まれていた主のみ座であったのではないかなと思うのです。

もう一度、ヨハネ十二章二十八節を見ると、『父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現した』、その栄光というのはやはり主の賛美で満ちていたみ座の状況だったのではないかなと思うのですが、『またもう一度栄光を現そう。」』というのは、この最後の時代の天と地が一つとなって主のみ座に賛美をおささげしていく時に、主のご栄光が現されていくと信じています。
様々な戦い、日々の皆さんの戦いの中に、病の戦いや人間関係の戦い、会社の戦い、様々な戦いがあるかと思いますけども、「もう一度、主よ!栄光を現してください!今も主が生きて働かれるお方であることを私たちに見さしてください!」ということを、もう一度、主のみ前に祈り続けていく時に、神さまはその働きをなし続けていただけると信じています。
そのためにこそ、『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』と叫ぶときが来ているのではないでしょうか。洞窟の中で叫んだダビデの祈り、叫びは、今の私たちとは異なっており、聖霊さまと一緒にいる時代の中にあるわけで、ダビデ王様、ダビデはこの時はまだ王とは言われてなかったですけど、ダビデがいた時代、彼は本当にすごかったと思うのです。やはり主の選びの器で、聖霊さまという方が、今のように絶えずいて絶えず語ってくださる時代ではなかったのにも関わらず、「私はいつも主を仰ぎ見る」と、主のみ顔を仰ぎ見て生きて、「神さま!」という方をはっきり見ていたゆえの祝福がダビデ王に注がれて、そしてダビデの口を通して一番最もなされたのは結局神さまへの賛美だったのではないかなと思うのですが、そのダビデが『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』このように語っておりますので、私たち一人ひとりももう一度、新たな思いと新しい思いで、主が最初に栄光を受けてくださった栄光をもう一度、「栄光を現してください!」という叫ぶ時が来ています。この時、天の父がイエスさまに直接お語りになったその言葉のように、それを聞いた時にイエスさまが天の父の声を聞いた時に、一緒にいた人々は何と言ったかと言ったら、「雷の音が鳴ったかな?」というぐらいだったのです。神さまの声として受け取れなかったのです。でも神さまは今はっきりと、聖霊さまが私たちと共にいてくださる時代に今、「私はもう一度栄光を現す!」と語ってくださっていますので、そのことを信じて、心からの賛美、心からの主への礼拝を、天と地、一つとなって歌い続ける、そんな働きをさせていただきたいと心から願います。
一言お祈りさせていただいて、みことばに代えさせていただきます。お祈りします。

ハレルヤ、愛する天のお父さま。あなたの素晴らしいみ名をあがめて、心から感謝します。あなたは今も生きて、ともに働かれる素晴らしいお方であることを心から感謝します。あなたはすでに素晴らしいご栄光を現してくださったお方であることを心から感謝します。しかし今「もう一度、わたしは栄光を現そう」と語ってくださっていることを心から感謝します。
主よ、様々な戦いが今も主よ、私たちの目の前に多くあります。病の中で戦っておられる愛する兄弟姉妹もいらっしゃいます。主よ、どうぞ栄光を現してくださって、主よ、もう一度現してください。あなたのご栄光を現してください。そして私たち主よ、イエスさまの帰られる道を備えるために、栄光を受けてくださった天の父が、もう一度主イエスさま、天と地が一つとなって戦うこの季節、戦い続けますから導いてください。そのために聖霊さま、あなたが私たちとともにいてくださることを心から感謝します。
ここまで守り導いてくださった主に心から感謝します。あなたの素晴らしさをもう一度ほめたたえ、心から賛美し、この祈りと願い、父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン。