〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
・・それから終わりが来ます。

時々教会で神の不思議なわざというか、現象を見て驚く人がいますが、神が何か新しいことを始める時には、目に見える形で現象を起こされることは、聖書を読めば明らかです。
弟子たちが宣教に出る前、エルサレムの二階座敷で祈っている時、聖霊が注がれました。

“しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」”(使徒の働き一章八節)

弟子たちが祈っている時、聖霊が激しく臨んだのです。そして炎のような分かれた舌が現れて、他国の言葉で語り始めて、酒に酔っているのではないかと、他から見たらおかしくなったのではないかというような現象が伴ったのです。それが聖霊の注ぎの原点でした。

以後、二千年の歴史の中、様々な場面で神がことを始める前に、様々な現象が起こっています。

 近代の聖霊運動発祥の地は、二十世紀の初頭にアメリカのロサンゼルスで起きた一つの出来事でした。ロサンゼルスへ行きますと、「アズサ・ストリート」という場所があるのですが、ここに激しく聖霊が訪れて、後に近代ペンテコステ運動の原点となりました。その働きは一九〇六年から一九〇九年までの四年間続いたのですが、貧しい黒人クリスチャンたちに激しく聖霊が注がれたのです。
どんな現象がともなったのかと言うと、聖霊の風が吹いてきて、人々がアズサ・ストリートに入るだけで倒されて、ホーリーローラーズと呼ばれるほど、道をゴロゴロと転がったと言うのです。そんなの見たら、どう思います?ちょっとおかしくなったと思うかもしれません。でも、今やプロテスタント教会の中で、最も大きな勢力が聖霊派です。世界で数億人にも拡大したのです。

甲子園ミッションの準備期間にも同じことが起こりました。聖霊が注がれた後、愛知県民の森の広場に入っただけで、人々がすっ飛ばされて、ゴロゴロ広場を転がったのです。それを見て、「なんだこれは?おかしいんじゃない?」と言って、受け入れることができない人たちも多くいました。しかしそれは、初めて起こったことではなく、歴史の中に主がご介入される時、起こることです。
聖霊が注がれた後、愛知県民の森の広場が、アズサ・ストリートのようになりました。
そのことを聞きつけて、全国から県民の森にまで祈りに来た人たちがいました。
ある時、一人の青年が、タンクトップの服装で祈りにやって来ました。そうしたら、教会の子どもたちが「そんな格好していると危ないよ!」と彼に話していました。なぜなのか彼には分からなかったのですが、その広場に入った途端、聖霊の風が吹いてきて彼はゴロゴロ転がされ、肩を擦りむいていました。「だから言ったじゃない!」と子どもたちに言われていました。
聖霊さまが働かれると、奇異に見えるような現象が起きることもあります。しかし聖霊の働きは、ただ単に、現象だけにとどまらないのです。必ず、実を結びます。初めは少しおかしいかなと思うかもしれないけれど、実を結ぶ日が来るのです。

アズサ・ストリートリバイバルの中心人物は、ウィリアム・ジョセフ・シーモアという黒人牧師でした。当時は黒人の方々が差別されていた時代でした。シーモアは献身して神学校に行きたいと願ったのですが、神学校は黒人の入学を許可しませんでした。彼は熱心に、「神学校で学びたい!」と願いました。すると神学校側は、「ならば、教室の外、野外に椅子を置いて学べ!」と言い、シーモアは外から授業を聞いたのです。それでも彼は主に仕えたのです。

しかし後に、彼が導いた集会に聖霊が注がれて、近代のペンテコステ運動の基礎となるとは、誰も予測しなかったのです。
アズサで注がれた聖霊は、二千年前にエルサレムで注がれた聖霊の火に他ならなかったのです。
私たちの所へ来てくださった聖霊も、二千年前にエルサレムで注がれた聖霊の火の継承でした。

火は、マッチ一本の火であっても、山火事の火であっても、品質は変わりません。全く同じです。マッチ一本の火でも、山火事の火も、火は火なのです。
ということは、小さな火でも、大事に育てれば山全体を燃やすことだってできます。新城教会に点いた聖霊の火、甲子園の時に日本に点いた聖霊の火は、決して消えてはいません。

歴史を振り返る時、一つの出来事が後になって、大きな神の働きとなる事実を確認できます。
アズサ・ストリートのリバイバルを、ノルウェーのメソジスト派の牧師T・B・バレットが、リバイバルを体験するためにやって来ました。「ストリートに人が転がっている!本当か?」みたいな感じだったのかもしれません。ノルウェーからアメリカのロサンゼルスまで、はるばるやってきたのです。するとバレットにも聖霊が注がれて、聖霊の火と共に国に帰ったのです。
するとスカンジナビア半島全体に聖霊の火が広がったというのです。それのみならず、なんとスウェーデン・ノルウェー・デンマーク・ドイツ・フランス・イギリスへと広がったと言うのです。

以後、スウェーデンがリバイバルの中心となったらしいのです。
昨日の集会にベアンテ・ボーマンさんというチェロ奏者が来て、演奏して下さいました。本当に素晴らしい演奏を聞かせて下さいました。甲子園ミッションの時は、リバイバル・トレインと称して電車の中でチェロを演奏してくれました。あれは印象的で忘れることができないのですが、彼はスウェーデン人です。

二十世紀の初頭、アズサ・ストリートで起こったリバイバルの火がスウェーデンに移り、若者たちに聖霊が注がれたのです。そのリバイバルは、まずは悔い改めのリバイバルだったそうです。スウェーデンは森と泉の国です。森の中で木こりたちが木を切っていると、突然、聖霊が注がれ、罪が示されて、「俺はこのままじゃいけない!教会に行って祈ろう!」と教会に行ったら、なんと、村の教会に、森中から木こりたちが集まって、泣きながら悔い改めて祈っていたというのです。

三十年前、私たちに聖霊が注がれた時も同じでした。激しい現象が起こっただけでなく、皆が深いところからの悔い改めに導かれ、聖められ、主に仕えることを教えられました。

スウェーデンの青年たちに主は、「ヨーロッパに聖霊の火は広がったけれど、アジアに伝わっていない。アジアに行きなさい!」と語られたのです。
その結果、スウェーデンから、モンゴルや中国に、大勢の宣教師たちが遣わされたのです。
当時は、日本が朝鮮半島や中国に進出し、傀儡国として満州を治めていました。そこに神社を作ったりして、日本は宣教師たちを迫害したのです。それでも、彼らは伝道を続けたのです。
日本の敗戦後、中国に毛沢東によって共産革命が起こって、宣教師たちは中国から追い出されたのです。しかし彼らは本国には帰らないで、当時の諸悪の根元、敗戦国日本に来て伝道を開始したのです。よくぞ日本に来たものだと思います。
戦後、スウェーデンの宣教師たちが多かった地域がどこかというと、他でもなく、中部地方だったのです。東三河・西三河には、多くのスウェーデンの宣教師たちが来て、宣教を開始したのです。しかしこの人たち、モンゴル語とか中国語は勉強していたのですが、日本語は全くできない人たちでした。特に、新城市の隣町、豊川市に来た宣教師たちはそれで悩んでいたようです。
すると神は、一人の青年に不思議な方法で語りかけられました。その語りかけを受けたのが誰かと言うと、滝元明でした。
 なかなかの髪型をしております。その下にいるかわいい少年、誰でしょうか。今では少し姿が変わった皆さんの前に立っているおじいさんです。
当時父は、豊橋の麻工場で働いていました。ある日、仕事中に、不思議な声を聞いたと言うのです。「今日家に帰ると、あなたは一つのことを聞くでしょう。レナンデル先生の秘書があなたの家に来て、あなたを伝道集会に招きますから、それを受けなさい。その後、あなたは日本中で伝道集会に招かれるようになります。」という、無茶苦茶、具体的な声を聞いたというのです。
もしもそういう声が仕事中に聞こえたら、すぐに病院に行った方がいいかもしれませんよね。やばいぞこれ!幻覚・幻聴ではないか?と。
しかしその日父が家に帰ったら、仕事中に聞いた事が実現していたのです。母が家にいたのですが、その日、レナンデル先生の秘書が来て、「滝元さん、豊川で今度、伝道集会を開催しますが、その集会で話してくれますか?」と頼まれたと言うのです。

一九五〇年、私の父は故郷に福音を伝えたい!という思いでこの地域に入ってきたのですが、それは彼がクリスチャンになって一年後の事でした。聖書一冊、読んでもいないような中、父は、この地域で伝道を開始しました。しかしその後、彼はクリスチャンになって数年後という若さで伝道集会の説教者として働くようになったのです。それも十日間連続の伝道集会だったそうです。広場にテントを張って、伝道集会を開催したというのですが、豊川市の人たちが、大勢集まりました。宣教師は白人で、同時、珍しかったから人々は見に来たのです。スウェーデン人が来たのが良かったのです。アメリカ人が来たら、原爆を落とした敵が来たわけで、石を投げたのかもしれません。しかし日本人って、白人に弱いところがあって、スウェーデン人は白人でも、アメリカ人ではないということで、大勢集まったらしいです。
そこで父はどういうメッセージを語ったのかというと、一九五〇年代の父を現代に連れてきて、皆さんの前でメッセージを語らせたら、皆、傷ついて帰るかもしれません。「何をこの男は言うんだろう?ひどい!」と、怒って帰ってしまうかもしれません。
彼は、「イエスさまを信じたら天国!信じなかったら地獄に落ちる!地獄は火が燃えている!皆、地獄の火の中に落とされ、燃やされる!」みたいな、恐ろしいメッセージでした。今ならば、パワハラと言われてもおかしくないメッセージを語りました。しかしそのメッセージを聞いて、「私はイエスさまを信じます!」と、大勢の人たちがクリスチャンになったのです。いや、信じられないです。

しかしそこには理由があるのです。なぜなら豊川市には、戦時中、豊川海軍工廠があって大勢の若者たちが兵器を作っていたのですが、一九四五年八月七日、終戦の少し前ですが、アメリカ軍のB29が爆撃して、三十分で若者たちが二千人以上死亡し、負傷者は一万人ぐらい出たわけです。豊川市の人たちは地獄を体験したのです。豊橋も爆撃を受けました。太平洋戦争で日本人は地獄を見たのです。目の前に地獄が繰り広げられたわけです。
戦後まもなく、その街に伝道者が来て、「イエスさまを信じなかったら地獄だ!」と語ったのです。生きていても地獄なのに、死んでからもまた地獄だったらたまらん!と、イエスさまを信じたわけです。
しかしその時代にクリスチャンになった人たちが、日本教会の基礎となりました。あの時しかチャンスはなかったのです。現代では、そんなメッセージは語れません。しかしスウェーデンの先生たちが日本に来た背景に、振り返れば壮大な神の計画があったのです。

エルサレムから流れた聖霊の火が、二千年の時を経て、ロサンゼルスに来て、デンマークから訪れた一人の牧師が聖霊の火を受けて、国に戻って、ヨーロッパに聖霊の火が点火し、スウェーデン人の若者たちによって中国やモンゴルに点火され、宣教師たちが追い出された事によって、日本のリバイバル運動へと繋がったのです。それは神の偉大なみ業に他なりません。

そして新城教会に、一九六〇年代、初めて聖霊が注がれたのです。それもやはり、スウェーデン宣教師たちの影響でした。
彼らは「聖霊を求めましょう!」とよく話していました。その結果、新城教会でも、聖霊が注がれ、異言を語ったり、預言をしたり、そんなことが起こったのです。

 主は彼らに預言を通して、「山間部に入り福音を語り、教会を作りなさい。」と語られました。この三人は、製材所の職工さんたちでした。
新城教会が建っている場所も、昔は丸太置き場でした。お隣のスポーツジムも製材所で、丸太が置いてありました。
この青年たち、休憩時間に、丸太の間に入って祈っていたのです。「聖霊を注いでください!満たして下さい!」と祈っていたのです。
「山間部に入って福音を伝えよ」とは、青年たちにとって、自分たちの考えとは、全く逆の命令でした。彼らは東京や名古屋に出て行って、大きな材木問屋を作りたい!と願っていたからです。特にその野心に燃えていたのが田中政男という青年でした。彼は貧乏な家に生まれて、金のことしか考えていなかったそうです。しかし結構能力があって、将来は大きな材木問屋を作るんだ!と心を燃やしていました。
しかし彼に聖霊が注がれた時、「浦川に行け!」と預言で語られたのです。浦川なんて、どこにあるのかわからなかったけれど、飯田線沿線で佐久間ダムの近くに、「浦川」という駅があることがわかって、結婚した次の週、浦川に行ったと以前にもお話ししました。それは伊勢湾台風の次の週でした。行ってみると、教会として借りた家が、こんなふうになっていたのです。
 一階は流されて、二階にハシゴをかけて新婚家庭にして伝道していたのです。信じられない。皆さん、これ、できますか?私には無理だと思います。この時代、私は岡本正広さんとよく、ここに遊びに行きました。水害に四回も出会っても、それでも伝道を継続したのです。
田中先生の「百円玉に誘われて」という著書があります。百円でイエスさまを信じたような、金目当ての人だったのですが、変えられて伝道者になったのは、これこそ聖霊の働きではないでしょうか。聖霊さまは私たちの内側を大きく変えられるお方です。