〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
天と地をつらぬく教会!

死後の世界と、生きる者たちの世界は、分離していているように考えます。イエスさまが帰って来られる日か、我々が天に帰る日まで、完全に分断されているように考えます。しかしそうではない!天と地は一つだ!ということを、身近な人たちの死を通して、私自身、体験させられました。教会は天の声援に支えられながら、地上の戦いを精いっぱい戦う場所です。

家内は大変花が好きで、よく花を育てていました。去年の今頃は元気で、いっぱい花を育てていました。天に帰る少し前は、一つの鉢に自分の好きな花をいくつか植えて、よく花に話しかけていました。「主を賛美しましょう!」とか、「私のために祈ってね!」とか、話しかけていました。
花には命があります。誰が与えた命かと言ったら、神が与えた命ですから、必ず、神さまと被造物には、相互のチャンネルがあります。花も、人と同じ被造物です。そして我々は、被造物の管理人です。彼らも一緒にとりなして祈ってくれる存在です。

家内がいつも愛して、声をかけて育てていた花ですが、家内が天に帰ってからは、冬もあって、全て枯れてしまいました。でも四月の復活祭の頃、もう一度、花を咲かせたとお話ししました。しかしその後、また枯れて見る影もなくなってしまいました。でもたまに、水をあげるというか、雨が多かったので、雨がかかるところに出しておきました。
そして、今日、見てください。
 また花が咲いたのです。枯れた花でも、二度も復活しました。ですから、人が死んだって、絶対に復活がある!と信じます。なぜなら、花を創造されたのは神さまですから、花を復活させる神さまは、人を復活させないはずがありません!

教会では人の死をよく体験します。亡くなって天国に行くのはいいのですが、私にはなんとなく、敗北感がありました。「一生懸命いやしを祈ったのになぁ…。願いが叶わず、いやされないで天に帰ってしまった・・・。」みたいなところがありました。
しかし家内が天に帰って、主から強く教えられたのは、「クリスチャンにとっての死は、決して敗北ではない!」ということでした。それは勝利であるということです。
昨年から家内を含めて、少し若めの方々が、天にお帰りなって、ある方は、ちょっと敗北ではないか?と感じておられるかもしれません。しかし今日は、その考えを改めていただきたいです。

今も病で苦しんでおられる方がいます。祈っていただきたいです。特に、朏美衣さんの為に祈って下さい。ヘブンズアイスクリーム&コーヒーを立ち上げる時も頑張って下さいました。しかし病で、結構、危ない状態です。
先日、彼女の所にお見舞いに行ったら、彼女がこう言うのです。「順先生!私、天国に行ったら、享子さんと一緒になって、真剣に祈るからね!だから、順先生もこの地上で真剣に祈ってよ!」
いきなりの発言に、びっくりしました。しかし、いや〜すごいなぁと感動しました。天と地は繋がっている!と。彼女は霊のうちでは、既に、勝利のポジションに立っている!と感じました。

『主の聖徒たちの死は主の目に尊い。』(詩篇百十六篇十五節)

ピリピ人への手紙一章二十一節には、

『私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。』

「益です。」とは、「得だ!」ということです。「儲かる!」という訳も成り立ちます。死んだらすべてが終わりではないのです。パウロはちゃんと分かっていたのです。
「生きることはキリスト」とは、イエスさまのために生きるという宣言です。そして「死ぬことは益!」なぜならば、天と地は繋がって一体だからです。

ヘブ人への手紙二章十四節に、

『そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、』

イエスさまは死の霊を、どのようにして滅ぼされたのか、それは、「ご自分の死によって」です。人生の中で最も弱まった瞬間、最も強力な死の力、悪魔を打ち砕いた!のです。
ということは、イエスさまの死がなかったら、最大の敵、誰も勝利できない死の霊を、やっつけることは出来なかったのです。
人生が終われば、魂は体から抜け出なければなりません。いつかその日が来るわけです。私は七十二歳ですから、そう遠くはないはずです。
でも、クリスチャンにとって、最も、神に貢献できる瞬間は、「死ぬ瞬間」だと、私は信じています。
旧約聖書は、新約聖書に起こる霊的領域を、実際のストーリーで現している面があります。士師記にサムソンという勇士が出てきます。

『彼が死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。』

と記されています。死ぬ瞬間は、最も多くの敵である悪霊どもを打ち砕く瞬間であると思うからです。イエスさまが十字架の死の瞬間、最も強い死の霊を滅ぼしたのと同じようにです。イエスさまは言われました。「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分も十字架を背負わされているのならば、イエスさまと同じように、死ぬ瞬間、最も大きな仕事が待っているはずです。

私たちの目には見えない世界があるのです。物理学的に言えば「高次元」と表現してもいいと思います。現代の宇宙物理学は、我々が生きている三次元空間よりも、さらなる高次元がある事を理論上の定説としつつあります。実験で確かめることはできないのですが、理論的にはほぼ間違いないだろうといわれます。私たちが過ごしているただ中に、更なる高次元が重なっているのです。
もしも平面に住んでいる人がいたとしたら、立体に住む人たちのことは分かりません。我々は立体の中に住んでいますから、平面を走るゴキブリは、どこにいるのか一目で分かります。平面上のゴキブリにはすぐに薬剤を発射できます。でもゴキブリが飛び立つと、少し面倒くさくなります。
高次元の存在は、低次元をすべてを把握しているはずです。今まで霊的世界、宗教の世界だと考えられていた領域が、現実だと分かってきたのです。神が人類に少しずつ、情報開示をしておられます。

二千年前、聖書はすでに、神の国のことを、「第三の天」と呼んでいました。他の箇所では「諸天」とも表現していますから、三以上あると考えられます。

 人は第一の天に生きています。死んだ瞬間、人はどうなるかということです。
第二の天は悪魔の国です。我々の上に悪魔の国が、覆い被さっています。では、第三の天、神の国に行くためにはどうしたらいいのか。それは第二の天、悪魔の国を突き破らないと神の国には到達できません。
しかしイエスさまを、自分の神とするならば、神の国の鍵が与えられます。その鍵を持っていれば、第二の天を打ち破り、第三の天の扉を開くのです。
イエスさまを信じなくとも、人生をおもしろおかしく過ごせます。しかし、やがて死に直面したら、第二の天止まりです。
 それは悪魔の国止まりです。なぜならば第三の天の扉を開ける鍵がないからです。クリスチャンは死ぬ瞬間に、最も大きな仕事をすると言いましたけれど、最も多くの敵をやっつけるとは、第二の天を突き破ることを意味すると思うのです。
パウロは、「死ぬのは益だ。」と言いましたけれど、彼は第三の天に行った体験があったからです。

やがてこの地上から出ていかなければならない日が来るわけですが、その日は、人生で最も大きな仕事をする瞬間です。神さまに貢献する日です。決して恐れることはありません。私たちは天と地の繋がりの中で、永遠に生きる存在です。

エペソ人への手紙の三章十五節・十六節で、パウロが、こんな祈りをしています。

『天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力を持ってあなたがたを強めてくださいますように。』

父なる神さまは、地上の家族だけではなく、天上にも家族を持っておられて、天上の家族と地上の家族の上に座しておられます。「天上の家族と地上の家族をつらぬく、父なる神さまに祈りをささげます。」と述べています。天と地は繋がっています。

新城教会から七十年の間で天に帰られた兄弟姉妹たち、彼らは、決して分断されていないのです。天の家族として、私たちは地上の家族として、父なる神にあって一つであるということです。
ヘブル人への手紙十二章一節には、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。』

このみことばは、何度も何度も、家内が天に帰ってから紹介させていただいています。先に天に帰った兄弟姉妹は、どうなっているのか。それは、雲のように、私たちを取り巻いて我々を応援する応援団です。
地上の教会の者たちは、ちょうど競技をしている選手たちのようです。ギリシャ・ローマの時代、大きな町には必ず、コロセウムという競技場がありました。
当時の市民たちは、選手たちが命をかけて殺し合いをする競技を楽しみにコロセウムに集まりました。クリスチャンたちが捕らえられて、猛獣の餌食にされる光景を、市民はコロセウムで楽しんでいたのです。ひどいものです。そこには会衆が満ちて、自分が応援する戦士を力一杯応援したのです。
そのような光景と重ねて、天の教会に属する家族が地上の戦いを応援しているんだ!とヘブル人への手紙の記者は、『雲のように取り巻いている証人たち!」と告げました。
「だから自分たちの前に置かれている競争、競技を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と、励ましているのです。

応援団がいることに選手たちが気づかなかったら、力が入りません。スポーツものは、観衆と選手が一体となって、初めて結果が生まれます。
大谷はテレビでは、毎回、ヒットやホームランを打っています。でもあれは、テレビの中だけの話です。大リーグの試合、私は実際にアメリカで何度も見ました。イチローの試合にも何度か行ったのですが、結構退屈でした。テレビは良い結果のところだけを繋いで見せてくれるから、「イチロー、すげぇな!」と思うのですが、実際の試合ではアウトもしょっちゅうあって、一つの試合中、ヒットを打つのは一回ぐらいでした。なんだよ!みたいな感がありました。
しかし応援団が、どのぐらい迫力があるかで、試合の盛り上がりは全然違うのを体験しました。
我々も同じです。地上の教会は、天の応援団に気づいていないのです。私も今回、家内を天に送って初めて、天の応援団を意識するようになりました。天と地が一つとなって働く時、主が帰られる道が準備されることに気づかされました。
それは私にとって貴重な宝となりました。大きな悲しみを経験しなかったら、理解できなかっただろうと感じています。私はある意味、教会を代表して、大きな悲しみ、苦しみに遭遇したと信じています。今後、皆様は幸せに生きていってほしいと強く願っています。

エペソ一章二十二節に、

『また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

とあるのですが、これは教会がどのような存在であるかを表しています。ある人が、このように説明していました。

“教会は、「キリストの体」であるだけでなく、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」という、さらに驚くべき称号も持っている。”

生ける世界も、死後の世界も、永遠の世界も、何もかも「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」それが「教会」なのです。すごいですね!
案外、教会は「キリストのからだ」という理解で、止まってしまうのですが、そうではないのです。教会は、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」という、輝かしい称号を持っているのです。
ヘブル人への手紙十二章二十三節、