〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
ずっと後の日になって・・・

アキチカ宣教師夫妻は、かつて日本からアメリカに移民した日系移民でした。アメリカに長年住んではいても、アメリカ国籍を取得出来ない人たちでした。それでも彼らは、一九四七年、日本に宣教師としてやって来れたのです。

彼はいつも話していました。「これは本当に、イエスさまの奇跡だ!マッカーサー元帥が、私に、特別、日本宣教の許可を出してくれて、何もかも整えられて、純粋にイエスの福音を伝えているんだ!」と、常に強調していました。あの話はある側面は真実でしたが、語られなかった側面も多くあったからです。なぜなら、何の背景も分からない、どこの馬の骨かわからない日本人を、アメリカ政府が日本に簡単に送るわけがないからです。そもそも一九四七年当時、アメリカ在住の日本人の帰国は、固く禁止されていたからです。

彼は来日後、この建物によく出入りしていました。ご存知でしょうか。「第一生命館」。今でも残っていますが、当時はGHQの総本部でした。占領軍総本部です。ここに出入りできる人物は、一般人ではあり得ません。当時、日本で最もセキュリティが高い場所がこの場所でした。皇居に行くよりも難しい場所に、彼は毎週、出入りしていたのです。

実は、当時、GHQが欲しがった人材がいました。それは、日本で教育をばっちり受けて、同時に、アメリカでも同様に教育を受けて、両国の文化を熟知し、しかも、アメリカ側の思想に固く立つ、バイリンガルの日本人でした。彼はその条件にぴったりの人物でした。

もちろん主が彼を送ったのは事実ですが、同時に、歴史も関わって、彼には、墓場に行くまで絶対に口外できない秘密もあったはずです。

当時マッカーサーは、世界で最も強大な権力者でした。その事務所に、毎週のように通っていたのは、普通の人物ではないわけです。この宣教師夫妻は、敵国移民は帰国できない中、日本に送られた故に、私の両親はクリスチャンになったのです。

彼らが来日しなかったら、それも、「あのタイミングでなかったら」、父は、機を逃して、クリスチャンにはなれませんでした。母だって、クリスチャンになったかどうかは疑問です。

母は当時、学校の先生をやっていいました。そんな中、学校の隣に、宣教師の為にGHQが用意した場所があって、宣教師夫妻が住むようになったのです。母はその関係から、クリスチャンになりました。私の両親がクリスチャンになった背景にも、単なる見かけ上のことだけでなく、「世界史が関わっていた」ということです。

 

太平洋戦争が終わったのはいつか、それは、一九四五年八月十五日、天皇が玉音放送を発したことによって、太平洋戦争は終結したと日本人は理解しています。

しかしその理解は「間違い」です。

世界史においての太平洋戦争の終結は、日本が降伏文書に調印をした、一九四五年九月三日(日本時間九月二日)です。調印がなされた日、それが太平洋戦争終結の日なのです。しかし日本人は、あくまで天皇中心で、八月十五日だと思い込まされています。

八月十五日は、ただ単に、天皇が戦争をやめますという音声を、国民にラジオ放送しただけの話です。連合軍はそんな放送は、まともに信用していなかったのです。マッカーサーが日本に上陸したのは、一九四五年八月三十日でした。その間、約二週間。玉音放送で、すべての戦いは終結し、難なくマッカーサーと占領軍が来たと考えるかもしれません。私も長い間、そのように思っていました。

 

先日、九月の霊的戦い専門課程に何を話そうかと祈りつつ、調べる中、二週間で、日本の運命が大きく変わる可能性があった事実を発見しました。

アメリカは、玉音放送があっても、きっと強い反発があるだろうとすでに予測していました。なぜなら、日本には特攻隊が存在していたからです。アメリカが日本に上陸したら、その後、大きなゲリラ戦になることを想定して、七十万人の兵を用意し、その為の作戦を立てていました。

 

案の定、玉音放送のすぐ後、玉音放送に大反発し、「今こそ国民よ、立ち上がれ!決起せよ!」と全国にビラをまいた部隊がいたのです。それが、神奈川県に厚木基地というのが今でもありますが、そこはかつて、「厚木航空隊」という、海軍の強力な部隊があったのです。小園という部隊長が指揮していて、彼は日本中に、「天皇の言うことを聞くな!今こそ徹底抗戦する時が来た!」と言って、総決起したのです。厚木航空隊にはまだまだ兵力が温存されていて、戦う能力が十分にありました。

 

玉音放送直後、アメリカは日本に何を要求したのかというと、電波で発せられた音声だけでなく、「天皇が実際に署名した降伏文書を持って来い」と要求しました。当時マッカーサーはフィリピンのマニラに駐在していました。そこまで天皇の勅使を遣わせと、要求したわけです。

その場合、「日本の軍用機を白に塗り変えて、日の丸ではなく、緑十字をつけて飛ばしてこい。」と要求しました。その要求に、日本は爆撃機を白色に塗り替えて、緑の十字架を機体に描き、沖縄の伊江島飛行場まで飛んだのです。

しかしその間、なにがあったのかと言うと、厚木飛行場からすぐに零戦が飛び立って、緑十字機を撃墜しようとしました。

その他、数々のドラマがあったのですが、緑十字機は、天皇の文書を連合軍に届けて、その後のスケジュールを打ち合わせて、日本に戻ることが出来たのです。

 先週私は、ある所にとりなしの祈りに行きました。この場所を知っているという人はスイッチオン!「鮫島海岸」、静岡県の磐田市にあるのですが、誰も知らないと思います。ここに「戦後の平和はここから始まった。」と記された記念碑が立っています。緑十字号は、日本が降伏後何をすべきかという連合軍が突きつけた要求と、その後のスケジュールを天皇に伝える為に、その事を記した文書を携えて戻ってきたのですが、諸説ありますが、乗組員の中にスパイがいて、帰還途中、まさかの燃料切れとなり、鮫島海岸に不時着したのです。

 私は現場に行きましたけれど、不時着には実に都合のいい海岸線が、百キロぐらい続いています。それも当夜、満月だったと言うのです。不時着は午後十一時五十五分でしたが、無事に不時着できて、その晩のうちに、文章を天皇に届けることができたのです。

もしもここで、すべての文書が失われていたら、アメリカは日本に再攻撃を仕掛ける計画でした。三発目の原爆も辞さない覚悟でした。あの時に、この飛行機が墜落し、文書が失われていたら、日本はどうなっていたのでしょうか。終戦のスケジュールは、大きく先延ばしされ、歴史は大きく変化したに違いありません。

そこにも神の深いあわれみと助けがあったのです。

このテーマを九月に取り上げようと思っていたら、一人の牧師からメールが来ました。それはこの緑十字号のことをレポートしたAbemaTVの番組リンクでした。不思議なものですね。

こんなことは私たちには関係ない!とは言えないのです。この時に緑十字機の乗組員たちが助かったから、一九四五年九月に戦いが終結し、一九四七年に宣教師が遣わされ、その後、両親が救われ、現在、新城教会があるのです。あの夜は満月でした。そこにも、神の大きな守りがあったのです。

玉音放送からマッカーサー日本上陸へのストーリーは、まさに霊的戦いに対応すると思うのです。

イエスさまは二千年前、十字架上で勝利を取られました。しかしイエスさまはまだ地上には帰って来られません。二千年経ってもです。

なぜかと言うと、すでに勝利は決定していても、司令官であるイエスさまが地上に戻れないのは、まだまだ、地上で抵抗が続いているからです。残党たち、悪魔・悪霊どもが、イエスさまの上陸を阻止するために、真剣に働いているからです。

緑十字号が頑張ってマッカーサー上陸の文書を日本に届けました。そんな中、期せずして、静岡県磐田市の海岸端の小さな集落、鮫島集落の人たちが、不時着した勅使たちを、夜を徹して助けたことによって、「日本の平和がここから始まった」と記念されているのです。

世界の歴史も、誰も知らない人たちの努力によって、変えられるということです。

教会の働きもまさにそうだと思います。どこからも注目されなくても、主の戦いを忠実に戦うならば、勝利がもたらされて、王であるイエスさまは地上に戻ってこられます。

ポイントとして、「神の摂理的な計画によって、神は歴史を通して働かれる」という「歴史の重要性」をマタイは強調しているように、我々も、歴史と合わせて主が何をしてくださったのかに気づく必要があるのです。

新城教会、七十年前に土台が据えられ、戦いが始まりました。最初、製材所に働いていた職工さんたちに聖霊が注がれて、彼らは都会に行く準備していたのが方向転換させられて、田舎に遣わされました。これは新城教会の歴史の中で、忘れることができない、また、忘れてはならない神の歴史です。

 今でもその教会は残っています。遣わされていった人たちの写真が残っていたのですが、河合礼輔さん、田中政男さん、そして、中村一夫さんの三名です。彼らはいずれも、「新城市出身」の人たちです。彼らは将来、都会に出て行って一旗揚げようと考えていた人たちでした。しかしある日、聖霊が臨み、「田舎に行って教会を建てろ!」と預言的に主の声を聞いたのです。そして彼らは、その声に忠実に従ったのです。

新城教会から最初に遣わされた三つの教会について、関心を持ち、祈り、支えなければいけないと強く感じています。先日私は、「いつか、これらの教会の為に献金しましょう!」とお勧めしましたが、今週は新城教会の法的設立記念の週でもありますから、来週、この三つの教会のための献金箱を用意します。ぜひ献げてください。

現在、北遠教会と東栄教会は定期的な礼拝は行なわれていません。管理人は住んでいますが、毎週の礼拝は行われていないのです。

唯一、牧師夫妻がいて、礼拝が定期的になされているのは設楽教会です。設楽町は、リバイバルの原点、津具村を含む地域ですですから、火を消してはいけないと思うのです。

聖霊さまが人を遣わし、建てられた三つの教会、すんなりといったわけではありません。それぞれに大きな戦いがありました。

田中先生の北遠教会、見てください。

 宣教に出てすぐに、大洪水が地域を襲い、教会は流される寸前でした。このような洪水が、四回ぐらいあったと聞いています。しかし諦めずに頑張ったのです。

「百円玉に誘われて」という本は田中先生の著書ですが、この町に根を下ろした結果、甲子園ミッションにつながりました。私の父と田中先生がコンビとなって、甲子園ミッションが開催されたのも、浦川という地に教会が建った故でした。

やがて県民の森で聖霊が注がれたのも、三つの教会から等距離で集まれるという、理由で県民の森が選ばれて、聖会が始まったからでした。

後の日になって、主が都会ではなく、田舎に行って伝道しろと言われた理由がわかります。すごいです。まさか甲子園ミッションや、リバイバルミッションにまで繋がるとは、誰一人考えせんでした。

現在、東栄教会は奥様が九十才を過ぎて、それでも一人でその場所で祈り、守っておられます。東栄教会の教会員であった安藤さん、今では新城教会に毎週来てくださっています。しかし東栄教会があったことによって、福音がヨーロッパに広がりました。

 これはかつて東栄教会で撮られた写真ですが、以前にも話しましたが、この二人の人物、誰かと言いますと、東栄チキンに働いていた、ホルヘさんご夫妻です。彼らは今では、スペインで牧師として働いています。

 これは家内に病気が発見される直前、家内と共にスペインで奉仕した時の写真です。

近頃もホルヘ先生から電話があって、「スペインに来てください!」と頼まれたのですが、現在彼らは、TBNというテレビ局で専属のメッセンジャーとして働いています。まさか東栄教会に来ている頃、彼らが将来、スペインでテレビ伝道者になるなんて、全く予測できませんでした。

中村先生ご夫妻が愛を持って彼らを受け入れて、新城教会に紹介してくださったことによって、ヨーロッパで働きが出来るようになりました。ホルヘ先生を通して、フェルナンド先生と一緒に、私は何度もTBNで奉仕させていただいています。また、彼のつながりで、ヨーロッパの国々でも奉仕させていただきました。いや〜不思議です。