大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
主の勇士よ。立ち上がれ!パート2
聖霊の油注ぎ

「油注ぎ」の動画にもありましたように、ヤコブはベテルで不思議な体験をしました。しかし「ベテル/神の家」という場所は、以前は「ルズ」という名称でした。

“そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は元々ルズであった。”(創世記二十八章十九節)

ルズという意味は「アーモンドの木の枝」という意味です。「アーモンドの木の枝」と聞くと、思い当たる記述があります。ヤコブがラバンの所に行って、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それらの白い筋の皮を剝いで、若枝の白いところをむき出しにしたのです。すると多くの家畜たちがその前で盛りがついて、思い通りのぶち毛の羊だとヤギが生まれたという記録です。
これは何かというと、当時の科学、それは「呪術」であったと思われます。
考古学で調べるとベテル、ルズは、ヘブル人のものになるはるか以前から、既に、ルズはカナン宗教の祭壇であったことを示唆しているというのです。また時代は進んで北イスラエルの王となったヤロブアムは、ベテルに金の子牛を置いて偶像礼拝の拠点としたと記録されています。
場所にはある時は油が注がれ、神の家となっても、再び、偶像礼拝の拠点にもなりうる戦いの場です。
私は新城市に、神の国が訪れることを真剣に願い、祈っています。
イエスさまは死から復活して、四十日間、人々に現れ、その後、オリーブ山から天に上っていかれました。
あの記述を読むと少しがっかりします。イエスさまは、復活されたのだから、そのまま、ずっと地上にいてくださればよかったのに・・と思います。しかし聖書を読む時、それが現代の表現ではなく、二千年前の人々がどのように捉えていたのかが重要です。それを理解しないと、昇天の本当の意味について分かりません。

かの有名な神学者、NTライトが、イエスさまの昇天の真の意味について自書で語っています。

“イエスはある種の垂直的上昇を行ったと主張する人たちがいる。(ただしその人たちはイエスが今、宇宙空間のどこかで生きているわけではないことを知っているし、世界のある場所での垂直的上昇は、地球の反対側から見れば下向きの動きになる)。
その一方でイエスが消えたという言い方は、イエスが死後、いわば霊的に臨在するようになった、特に彼の弟子たちと共にいるようになったという意味にすぎないと、主張する人もいる。
天についての重要なことは二点ある。第一に、天は地に接点を持ち、そのため天にいるものは地上のあらゆる場所に同時に存在できる。したがってイエスの昇天とは、彼がいつどこでも私たちのそばにいることができ、イエスを見つけるために一定の特定の場所へ出かける必要がないことを意味する。
第二に、天とは、いわば地の調整室、コントロールである。CEOのオフィスであり、指示が出される場所である。イエスはマタイの福音書の最後に、「わたしには、天においても地においても、すべての権威が与えられています。」と語った。”

天とは、どういう場所か、第一に、天には地に接点を持つ性格があります。それは油注ぎによって接点を持つのです。私たちが油注がれるとは、天と人が接点を持ちます。
そして、第二の意味はたいへん重要だと思うのです。
天とはいわば地の調整室、コントロールルームだと言うのです。CEO(Chief Executive Officer/最高経営責任者)がいて指示が出されるような場所であるというのです。
天が人に重なると、コントロールルームにCEOであるイエスさまが座って、私たちに的確な指示を出して下さるのです。
また天には、天の教会も存在します。天の教会のすべての聖徒たちとも重なって、地で行われる戦いに参加し、とりなし祈るのです。
油注ぎは、単なるガソリンが減ったから満タンにしてもらった!みたいなイメージとは違うのです。

“昇天は、真に人間であり続けるイエスについて語っている。イエスは人間であり続けるがゆえに、重要な意味で私たちの元を去り、同時に同じぐらい重要な意味で、新しい形で私たちと共におられるのだ。この時点で聖霊および聖礼典の重要性が非常に増す。なぜならば、聖霊と聖礼典こそ、イエスがここにおられるための方法だからである。イエスは今も人間であり、実際に体を持っている。しかもそれは私たちの体以上にもっと確かな体なのである。”

イエスさまが昇天されたのは、姿を消したのではなく、「さらに確かな肉体で私たちと共にいるため」だというのです。すごいですね!今、私たちは、私たちの体以上の完璧な体をもっておられるイエスさまと一緒に過ごすことが出来るのです。また天のコントロールを受けて生きることができるのです。

油注ぎを受ける、最も確実な方法は、「聖霊と聖礼典こそ」と語られています。「聖礼典」とは、「聖さん式」と「バプテスマ」です。それがプロテスタントの聖礼典です。
すでにバプテスマを受けられましたよね。バプテスマを受けると、イエスさまが洗礼を受けた時、天が開いて父なる神の声と共に聖霊が鳩のように下ったように、天と人が接するのです。

今から聖さん式を行います。これは天と地が重なる、油注ぎの瞬間そのものです。

“感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」”(コリント人への手紙 第一 十一章二十四~二十五節)

この油は二千年の間、ずっと受け継がれてきた油です。私たちもまた、この油注ぎを、次の世代に手渡していかなければいけません。
今から天と地が一つになって、主がコントロールルームに座って指示を与えてくださることを覚えて、聖さん式を行います。

天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。今日は「油注ぎ」について語りました。この聖礼典こそ、天と一つになる条件であると学びました。聖霊さま来てください。「これはわたしのからだです。」と言われます。そして「血による新しい契約」と言われます。主よ、この聖さん式を通して、天と一体となって、コントロールルームに座ってください。
イエスさまのみ名によって聖さん式を始めます。アーメン。