主にあって

そして、「主にあって勝利する条件」のもう一つは、皆が一致して戦いに挑むことです。
あなたは、「自分は強い」と思っていらっしゃるでしょうか。多くの方が「私は弱い」と思っておられるのではないかと思います。しかし、「私は弱い」と思い続けていてはサタンに勝利することはできません。
「今年は復讐の年となる」と順先生が語られています。「復讐」とは、「かたきうちをする。仕返しをする」と辞書にあり、それは「一度負けた者に対して報復する」という意味があります。人類の最初の敗北は何ですか。神さまは人を造り、人のために素晴らしい楽園を造ってくださり、人との祝福された交わりを準備しておられました。しかし、人は神に逆らい神との約束を破り、そしてサタンの策略に負けてエバが罪を犯して以来、神と人との間に、また人と人との間に隔ての壁ができてしまいました。これこそが最初の敗北であり、大きな問題でした。そしてそのことによって、この地上がサタンの支配下に移されてしまったのです。神さまの人類に対する最大のミッションは、壁によって断絶されてしまった神と人との交わりを回復することです。
エペソ人への手紙二章十四〜十五節は、こうあります。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』

イエスさまが人類の敗北を回復するために、十字架上にいのちを投げ出し死んでくださったことにより、神と人、人と人との間につくられた隔ての壁を打ち壊してくださいました。ある意味ではサタンへの復讐のために立ち上がられたのです。

私は野球が好きなので、試合を見たり情報番組を聞いたりします。そんな時解説者が、「野球は守りで決まる。守りが重要であって、0点で抑えたら負けることはない」と言うのをよく聞きます。それは真実だと思います。しかし、どんなに素晴らしい投手が0点で抑えていても攻撃側が一点も入れることができなければ、引き分けにはできても勝つことはできません。当たり前のことです。
私たちの人生においては引き分けはありません。つまり勝つか負けるかです。先週も順先生が、「人は、神の王国か悪魔の王国のどちらかに属さなければならない」と語られていました。
ローマ人への手紙八章三十七節にはこうあります。

『私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

私たちは弱い者ですが、私たちを愛してくださっている主が共におられるなら、「この時は負けた。この時は勝った」ではなく、どんな状況にあっても「圧倒的な勝利者となるのだ」と、主はみことばをもって私たちに励ましてくださっています。

エペソ人への手紙は、霊的戦いが語られる時によく引用される箇所ですが、この書の後半には、私たちが勝利を勝ち取るために何をすべきかが語られています。特に六章には、悪魔に立ち向かうために神によって与えられた武具をしっかりと身に着けるようにと、戦いの準備を促している箇所があります。有名なみことばです。

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』(十〜十三節)

私たちが戦うべきは、『主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです』とあります。霊的戦いのことを考える時、一九九三年の十一月に行われた甲子園リバイバルミッションのことを思い出します。私たちは、誰もが「目的をもった人生」「満たされた人生」を手に入れたいと願っていると思います。しかし、それを手に入れることが出来るのは、イエスさまを信じる信仰によって、そしてこの新しいいのち、永遠のいのちを手に入れたクリスチャンだけが、その特権を持っていて、そしてサタンに対する挑戦権、そしてサタンを打ち壊すことのできる権利を手にしているということを覚えてください。

一九九二年二月から準備が進められたのですが、その時は、皆がリバイバルを期待し勝利を確信していました。しかし現実はそれほど甘くありませんでした。皆が一致してリバイバルのために働こうとした矢先、新城教会に聖霊が注がれ、七月には霊的戦いが起こり(今では、その頃のことを知らない人のほうが多くなってしまいましたが…)、九月くらいから、多くの教会員がこの教会から去っていくという緊急事態となりました。霊的戦いが始まって以来、これからどうなるだろうかと思うようなことがたくさんあり、甲子園ミッションに対しても、当時属していた教団や日本の多くの教会から激しい批判を受けたりしました。
また、甲子園ミッションの準備のため、先生方を集めて「この働きは組織ではなく、『この指止まれ』で志を一つに、賛同してくださる方々で一致して働きましょう」とお願いしました。私は、そんなこと当たり前じゃないかと思っていましたが、先生方の反応はよいものではありませんでした。その状況を見て、私は「サタンってやつは強いな~(感心している場合ではありませんが)」、「これは大変なことだなぁ」と思いました。霊的に鈍感な私もさすがに、「ここで引いたら負けだな」と危機感を感じました。しかし、御霊の武具を着け、皆が心一つに祈って行った甲子園ミッションは、さまざまな奇跡も現され、本当に恵まれ、勝利した時でした。
また、戦いの前に皆が一致する重要性も学びました。会社や学校でも「一致して頑張りましょう」とよく言われますが、これほど難しいことはないと思います。

そんな中で、教えられたみことばがあります。エペソ人への手紙 四章二〜五節です。

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。』

ここには「一つ」というキーワードがあります。
突然ですが、一九八九年十一月九日が何の日か知っていますか? ベルリンの壁が壊された日です。このことによって、長い間東西に隔てられていたドイツが、再び一つになりました。それは歴史上の大事件でした。朝鮮半島もいまだに南北に分断(私たちは、北朝鮮と韓国の統一を祈っています)されていますし、同じ国でもなかなか一致できないことを考えますと、違う国同士が一致できないのもうなずけます。
神さまは、身勝手な私たち、神に背を向けた人類に対して、人との交わりを回復するために、一致するためにイエスさまを遣わし、十字架の死の血の贖いを通して私たちに恵みを与えてくださいました。そして、神と人、人と人の隔ての壁を壊してくださったのです。この神さまの大きな犠牲を無駄にすることなく皆が一致していくことが、このみことばの大きなテーマではないかと思います。
このエペソ人への手紙四章を詳しく見ていきたいと思います。

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、互いに愛し合うことです。』(同二〜三節)

まず私たちがどこまでもへりくだり、愛し合うようにと勧めています。「自分が正しい」と思っているうちは一致することはできませんし、相手に寛容を示して愛し合うことも到底できません。

『からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。』(同 四節)

人は、一つのからだに一つの魂を持つ存在であり、聖霊が宿るところが、キリストの教会であり、私たちクリスチャンです。
そして、「望みは一つ」とは、聖霊が私たちの内に与えてくださっている永遠のいのち、天国への希望を指していると思います。

続いて、四章五節を見ますと、『主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。』とあります。

ここに『主は一つ』とありますが、「主」ということばには、大きな二つの意味があります。
一つは、「イエスさまが神であるということの宣言」です。
「主」ということばは旧約聖書によく出てきますが、元々の意味は「ヤーウェ」で、「有って有る者」「わたしはある」です。人は神によって生かされていて、神によってこの世に存在しているということを忘れてはならないということが含まれていると思います。

そして「主」が持つもう一つの意味は、「最高の権威を持つ支配者」です。イエス・キリストこそが王の王であり、このイエスさまに並ぶ者は何もないのです。
次の『信仰は一つ』という意味は、「天下にイエス・キリスト以外に救いはない」と聖書に宣言されているように、「この信仰以外、私たちにはないんですよ。人には与えられていないんですよ」と言っているわけです。
そして、『バプテスマは一つ』とは、キリストへの信仰を世に示す一つの宣言です。公に信仰を示すことによって、神さまの守りがあります。

ここでいちばん大切なことは、『御霊(みたま)の一致を熱心に保ちなさい』ということだと思います。しかしその一致は、人間的なものではなく、真理に基づいた聖霊による一致というものでなかったら意味がありません。
神が私たちの唯一の父であること、そしてイエスさまがただひとりの救い主であるということ、聖霊さまがただひとりの助け主であることを心から信じて告白し、御霊の一致を保っていく。このことがとても重要であり、主が望んでおられることだと、このみことばの中で語っていると思います。
では、御霊の一致を保っていくにはどうしたらよいのでしょうか。
例えば学校は、同じ年代の人が集まっています。サークルも、同じ趣味・嗜好の人が集まります。性格や環境はそれぞれ違っていますが、それぞれ一致できるところを初めから持っています。何らかの共通点があるということです。
教会は、赤ちゃんからお年寄りまで年代が幅広いですし、海外の方もいて、ほんとうに様々な人が集まっていますから、その中で「一致しましょう」といってもなかなか大変です。共通点がないように見えます。
教会でも、組織や制度を作って一致を保とうとすることもありますが、それは人間的・表面的な一致であって、御霊の一致ではありません。ある意味では、かえって御霊の一致を妨げてしまうということもある、ということを注意しなければなりません。しかし、クリスチャンは、イエスさまを信じる信仰によって救われ、新しいいのち、永遠のいのちを手に入れているという特権、共通点があるのです。それによって、私たちは一致できるのです。そしてサタンに立ち向かい、打ち倒すことのできる特権をも手にしているということをぜひ覚えてください。
今はコロナの影響で、気軽に集まることができないのが現状ですが、以前は、礼拝後にカレーを食べながらの交わりの時がありました。交わりも、一致するためには大切ですね。時々、「あのカレーが懐かしいです(普通のカレーですが(笑))」と言われますが、カレーが懐かしいというよりも、お互いのことを語り合い、祈り合うことのできるクリスチャン同士の主にある交わりが楽しいわけです。早くそのような時が取り戻せるようにと祈っています
話が少しそれましたが、もとに戻しましょう。
ではどうしたら一致できるのでしょうか。
聖書は、御霊の一致を「作りなさい」ではなく、御霊の一致を「保ちなさい」と言っていることが重要なポイントです。御霊の一致とは、先ほど言ったように、聖霊さまの導きであり、神さまが生み出してくださらなければ、本当の意味で一致することはできないということです。

最後にまとめて終わりたいと思います。今日のみことば ピリピ人への手紙四章一節を、もう一度お読みします。

『ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。』