門の外へ

私は冒頭で、「第四子がかわいい。喜びの子だ。」とお話しさせていただきました。このように、私たちの喜びとは、何か良いことを受けた時、「恵み」を受けた時です。しかし主にある喜びとは、この地上の価値観とは大きく異なります。
大多数の人間が、社会が、私たちをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる時に、私たちは幸い。その時喜べ。と書かれています。私たちはむしろ、社会において大多数の人と同じ意見で、何の衝突も問題もないということを喜びます。しかし、そうではありません。
この世の支配、社会には、主の喜ばない、神の義からはずれたことが必ずあるからです。そこにおいて私たちは常に戦いの姿勢を持っているべきです。そのような戦いの構図の中で、もし世が私たちに敵対してくるなら、真理に立つことを続けていかなければなりません。

また同様に、マタイの福音書十章二十八節には、

“からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。”

私たちはこれぐらい切に、この地上での歩みを真剣に進めていくことが求められます。

また、戦いの目的についてもきちんと受け取っていなければなりません。何のために戦うのか、それもイエスさまは私たちに示してくださっています。
ルカの福音書 六章二十~二十一節、

“イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。”

また二十四節から二十五節では、

“しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。”

この地上の偽りの平和の中で、その安寧を貪っている者にはこのような事が起こります。神の国の義が完全にこの地に示される時、大逆転劇が起こります。これが聖書の福音の原則なのです。
繰り返し言いますが、この世の偽りの平和は、限定的に許されているにすぎません。主は戦い・争い自体を目的としてはいません。戦いの結果として、真に神のみ心にかなうものが、その恵みに最終的にあずかる、大勝利を得るというのが聖書の戦いの目的です。
私たちもこの地上にあって、権力や、地上の支配、地上の現実に、ただ従って生きるのではなく、神の国を体現するものとして生きなければなりません。偽りの平和は必ず主の前に崩れ去ります。主が来られる時、この世の社会構造さえも贖われます。私たちもそのために真剣に祈って戦わなければなりません。

最後になりますけども、主題のみことばに戻ります。ヘブル人への手紙十三章十一~十四節、その前の十三章十節にはこのようにあります。

“私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。”

「幕屋」は、古い「ユダヤ教」、当時の彼らの状況を指しています。「一つの祭壇」は、新しい祭壇、イエス・キリストの十字架のことです。ここに非常に大きな対比が描かれているわけです。
“幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。”新しい恵みにあずかる資格がないということです。その続きとして書かれているのが十一節から、

“動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。”

旧約の生贄の儀式とイエス・キリストの十字架が対比されています。当時、生贄は祭司によって捧げられた生贄は血に重要な意味があったため、体は宿営の外で焼かれました。
イエスさまの十字架も、「門の外で苦しみを受けられた。」とある様に、エルサレムの城外での出来事でした。
 現在聖墳墓教会がある、伝統的なカルバリ、ゴルゴダと呼ばれる場所。もう一つの説として、いわゆる園の墓と呼ばれる場所があります、あるいはオリーブ山の方だったという説もあります。
いずれにしても、「門の外」なわけです。「門」というキーワードも、私は以前からお話しさせていただいてきております。当時は街全体が城壁に囲まれていました。出入りはいくつかの門からでした。
一般的に、門の外に出るとい行為は、王がすることではありません。敵との戦いにおいても、王は実際に戦闘に加わることはありません。最高司令官として必ず一番守られた場所に控えている存在です。しかしイエス・キリストは、門の外まで出ていって、最後の敵である悪魔と一騎打ちをし、勝利を得ました。
またここでは、「ユダヤ教」の祭礼儀式の描写から、信仰の本質を見失った古い体質や社会構造を表現している「幕屋・宿営」、「門」から外へ出ることの重要性が説かれています。私たちもキリストの辱めを身におって、宿営の外、門の外に出て、みもとに行こうではありませんかと。勧めがなされています。

“私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。”

地上のあらゆる支配、権力、社会構造、また私たち自身の古い体質が生み出す神に喜ばれないものから、脱却する必要があります。

私たちそれぞれにとっての「幕屋」「門」はどういう存在でしょうか?その中にいれば安心という領域、それは偽りの平和です。門の外に出て、イエスのみもとに行きませんか?という問いかけが、みことばにより主ご自身からなされていることを受け取りたいと思います。
信仰の前提として忘れてはいけないこと、この地上がすべてではありません。永遠の都のために私たちは戦います。イエス・キリストの十字架によって、敵の門は既に勝ち取られています。門が勝ち取られたら、次は何をするのか。その門から一斉に進入し、敵からすべてのものを奪い取ります。奪い返します。二倍にして取り戻します。復讐の時です。それが私たちの霊的戦いです。

敵の門は勝ち取られている。自分を守っていると考えていた領域の門からは外へ出て、永遠に連なる都を勝ち取る。そのための働きをしていきましょう。

最後にお祈りさせていただきます。

愛する天の父なる神さま。み名をあがめます。私たちは、イエス・キリストがこの世に誕生し、あなたの偉大なる計画に従順に従ったゆえに、救いが与えられていることを心から感謝します。今、その十字架の救いによって、悪魔に対して大勝利が与えられ、また罪に対して大いなる精算がなされていることを感謝します。悪魔の支配、この世の権力、社会にある不義や不公正、また私たち自身の罪や古い性質から贖われ、脱却し、神の国の一員として天の都に連なる存在としてくださったことを心から感謝します。
全能なる神の圧倒的な主権に、私たちは従います。どうか、私たちが地上でどのように困難を迎えようが、唯一従うべきあなたに従い通すことができるように、お一人お一人に力を与えてください。
また、あなたに対する信仰を新たにし、新しい信仰の油注ぎを与えてください。私たちはそれぞれ、門の外へ出て、あなたに従います。あなたの生き方に従います。私たち一人ひとりをどうか用いてください。
この地が変えられ、神の国が完全に訪れるように、神の国の兵士として用いてください。ここにいる子どもからお年寄りに至るまで、すべて、神の軍の圧倒的な強力な兵士であることを宣言して、救い主イエス・キリストのみ名によって、その誕生を心から賛美してお祈りします。アーメン。