門の外へ

“パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。”(マタイの福音書 十二章十四節)

この問答の主題は、いわゆる「安息日問題」です。安息日には労働してはならないという律法に対し、「人の癒しを行う」ことも労働に当たるため、罪なのではないか?ということです。読んでのとおりですが、パリサイ人たちは最初からイエスさまを訴える目的でこの問いを発しました。
彼らは律法の本質を誤っていました。また彼らを指導者と仰ぐ当時の社会も同様でした。律法が与えられた本来の意義・目的を理解せず、彼らは「律法主義」に陥っていました。イエスさまはそれを随所で正しています。ここでも同様です。
律法とは、人間が神さまとの正しい関係を保つことが出来るよう与えられた教えです。決して彼らのように、誰かを裁くために初めから悪しき動機づけで用いるものではないと、その本質をイエスさまは説いています。
律法主義的に考えるその論議以前に、「安息日に良いことをするのは律法にかなっている。」この言葉に尽きるのではないでしょうか。神の目にかなうことをすることは良いことです。

十四節。どのような結論でしたでしょうか。

“パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。”(マタイの福音書 十二章十四節)

このような結論を抱く彼らにはじめから神の義があったとは到底思えないです。

当時の社会はどうしてこのような状態になってしまっていたでしょうか?
その理由のひとつはいわゆる中間時代にあります。旧約と新約の舞台となった時代の間には四百年ほどの間がありました。先述のヘロデ王朝もこの間に生じたものです。それは正当なイスラエルの民ではないイドマヤ人(エドム人)による政権でした。ユダヤという国自体が歪んでしまったような状態でした。信仰の領域でも同様のことが起こりました。律法をまもるため、律法の解釈や、律法に成文化されていない細かな規定をさだめた口伝律法というものに、律法と同様の権威を認めました。ある意味では聖書から離れ、人間が制定したものが彼らの規範の中心になっていたのです。そのような状態が当時の「ユダヤ教」でした。

もう一点押さえておきたいポイントがあります。わたしたちは聖書を読む時、律法学者やパリサイ人を初めから悪い存在として読んでいないでしょうか。実はそれは間違っています。当時彼らは社会において一般的に、素晴らしい信仰者として認められていた存在でした。「ユダヤ教」において正しい信仰を持ち、民のリーダーとして社会において認めらた存在でした。彼らが悪だとは誰も思っていないのです。イエスさまは、そこに一石を投じました。当然その社会の中では大きな波紋を呼び、反発が出ました。暴論を言っている反逆者、神に対する冒涜と取られました。
社会で誰もそれが悪いものだと信じて疑わない状況というのは、一度そういう構図ができてしまうと、その構造自体がシステムとして自動的に動き、それを疑いようもなくなります。社会構造のなかにある悪魔の策略です。先述したように、当時の宗教的指導者たちもそこに陥っていました。イエスさまはそういった社会構造と戦いました。彼ら自身の状況を指摘し、律法や神の国の本質を説きました。

「神との正しい関係」という点は失われ、規定を守ることが目的となってしまいました。それが律法主義であり、それが問題だったわけです。
しかし誤解してはいけないのは、イエスさまは律法の廃棄ではなくて、成就として来られたということです。
以上が宗教指導者たちとの関係、対立構造についてでした。

続いて残りの二つ、ヘロデ王朝やローマ帝国に対してどのような態度だったかということを見ていきたいと思います。
マタイの福音書二十二章十五〜二十二節。

“そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。
彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」”

同様にパリサイ人たちが出てきて、イエスさまと相対します。ここでもどのようにして言葉の罠にかけようかと、最初から悪い動機づけで来ています。
また、「ヘロデ党の者たち」が出てきます。彼らは先ほど学んだ、ヘロデ王朝を支持する一派です。パリサイ人とヘロデ党それぞれにとってイエスさまは疎ましい相手であり、共通の敵となっていました。この場面では彼らは結託し、イエスさまに相対してきています。イエスさまとヘロデ王朝の間にも、対立構造があった事がわかります。イエスさま自身が別の箇所で、ヘロデを「あの狐にこう言いなさい」と、狐呼ばわりしている場面もあります。

十六節の鍵括弧の中の言葉は、真実ではあるのですが、彼らは本心で言っているわけではありません。おべっかを言い、その後十七節の実際に切り込みたい内容に入っていきます。この中で、ローマに対するイエスさまの態度が垣間見えます。

彼らはローマに税金を納めることは律法にかなっているかどうかという問答を仕掛けました。その答えとして、イエスさまはどのような対応をしたかでしょうか。十八節、

“イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。”

ローマの支配の中で、ユダヤ人にもローマへの税金が課せられました。しかし、信仰の故にそこに葛藤がありました。ローマへの納税が律法において容認されるのか、信仰においてそれを拒否するべきか、実際に彼らも正しい答えを持ち合わせていなかったと思います。そのような問いをイエスさまに投げかけました。
この問いは、イエスさまにとって、イエスと答えてもノーと答えても、どちらも悪い結果を生むものでした。なぜなら税金を収めることは律法にかなわないとすれば、ローマへの反逆で訴えられます。律法にかなうと認めてしまうと、それはある意味でローマの支配に屈することになり、民の指導者としての信頼を失います。イエスさまがどう答えようと、言質が取れる。まさに言葉の罠であり、悪意のある質問でした。

イエスさまの回答はどうだったかでしょうか。二十二節には、彼らは驚嘆したと書かれています。イエスでもノーでも必ず不利になる問い、その前提をひっくり返した見事なものでした。
まず彼らに「税として納めるお金を見せなさい」と言われました。それはローマの貨幣で、ローマ皇帝の像が刻まれていました。そもそも鋳像も律法において禁じられていたので、パリサイ人たちがその貨幣を持ち歩いている時点で、彼らは既に自己破綻しています。イエスさまは、その像、銘を彼ら自身に再確認させました。「カエサルのです。」わかりきったことでした。自分自身も神の前に正しく取り扱えていない問題をイエスさまに投げかけた現実が指摘されました。
さらに「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と続けます。「神のものは神のもの。」そして「この世のものはこの世のもの。」はっきりと線を引くことを述べられているのではないでしょうか。
いつの時代も、神の許しの中で限定的に認められている権力があり、私たちはその中で生きていかなければなりません。国の法律を守るなど、一定の権力に従わなければなりません。いくら信仰者であっても例外はありません。
しかし、それはあくまで地上的な領域であり、神に従うということはそのようなものと同列の問題ではないということです。神に従うことはこの世の権力に従うことと比べる事が出来ないものであり、当然はるかに優先されるべきものです。

信仰者にとって、国の権力に従うべきという一定の理解は、権力が発していること、発しようとしていることが、神の義や神の主権と衝突・矛盾しない限りにおいて、という条件付きです。神の主権に敵対するものであったら、当然従うべきではありません。最たる例は偶像礼拝です。国が求めようとするものであっても、私たちは偶像礼拝に従いません。同様に偶像礼拝以外の個別の問題に対しても、神の国の原理・原則をどのように適応すべきかという点を祈り求め、それぞれに神の主権において対処するべきです。

イエスさまは、決してローマの武力支配、権力を見過ごしたり容認してはいません。世にあるあらゆる不義や不正義、不公正と戦いました。
ローマ帝国、ヘロデ王朝、宗教指導者たちについてそれぞれ見てきました。イエスさまは当時のすべての社会構造と戦いました。それぞれに対して、戦い方や論点には違いがあります。
このような点は、現代の私たちにとって、とても参考になります。私たちも様々な領域で、この世の現実と戦い生きていかなければなりません。現実に対してなかなか抵抗できるものではありません。権力に対抗することほど困難な事はないかもしれません。
しかし、この地上の権力が、どのようなことをしても許していていいはずがありません。この数年来世界は大きく変わりました。権力が暴走している状況を皆さんも感じているはずです。一部の領域で、既に思想の自由・言論の自由は失われています。真実を求め、真理に立とうとするその動きさえ封殺されます。政治やメディアなどの世界であらゆる不正、悪が横行しています。現在の社会の状況を異常と感じないならば、それは既に私たち自身が異常を普通と感じてしまう危険な状態に陥っているかもしれません。
偶像礼拝に関してはきっぱりと否定出来ているとしたら、時に他の領域でも同様の対応が求められます。なぜならこの世の社会構造のなかで、信仰の領域だけ他の領域と無関係で守れるものではないからです。イエスさまに倣い、神の国の原則に照らし合わせ、きっぱりと否定、拒絶するべき領域があります。今後ますます、権力に対して毅然とした態度をとっていかなければ、信仰すら守れない時代になってくる可能性があります。真剣に祈っていかなければなりません。

特にこの日本という国は、大多数の人間が言ったものがすべて「真実」や「正義」になる社会構造があります。

出エジプト記にこのようなみことばがあります。

“悪を行う権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。”(出エジプト記 二十三章二~三節)

悪を行う権力者の側に立ってはならない。新改訳2017ですと、

“多数に従って悪の側に立ってはならない。”

となっています。「悪を行う権力者」=「多数」によって、社会構造を作っている構図があるということです。

現代のこの状況、何と戦っているかということを、もう一度明確に受け取らないといけないのです。当然一番の黒幕は悪魔です。これは聖書により示されている結論です。しかし、今日みことばで学んだように、悪魔の領域とも結びつき実際のこの地上を支配する、それぞれの時代における権力、社会構造と一定の方法で戦う必要が必ずあります。
それはもちろん血肉ではありません。個別のケースでどうするべきかは祈りの領域でしか開かれないものです。しかし、繰り返しになりますが、あらゆる不義、不正、偽りの支配に対し、毅然とした態度をとり、屈しないことが信仰者に求められます。

マタイの福音書には、こんな言葉があります。五章十一節〜十二節、

“わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。”