一振りの剣

そして最近、教会内に色々と変化が起こっています。今日まだトイレに入っていない方、わからないと思うのですが、トイレにみことばが貼られるようになりました。これはどこに貼られているみことばかと言うと、ここです。
 男子トイレの目の前にみことばがあって、このみことばは何と書かれているかというと、ヨシュア記一章九節、

“わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」”

どこにでも。トイレの中にでも主は共にいてくださるお方なのです。ぜひこのみことばに親しんで歩み続けていただければと思います。

申命記三十章十四節、

“まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。”

みことばは力です。一振りの剣。剣はみことばですので、今日そのみことばをしっかり握って、またこのみことばは賛美なので、いつでもどこでも主を賛美して、たとえトイレの中でも、主をあがめ称え賛美する、そんな者でありたいなぁと思っています。

そして、少し話があちこち飛んで申し訳ないのですが、今日は午後からピザを皆さんで一緒に作って食すという、そんな楽しい時もありますので、ぜひ覚えてご参加いただければと思います。

それから十月三十日の日曜日には、何があるかというと、運動会があるのです。そこの駐車場でしますけど、ぜひご参加いただきたいと思います。詩篇百三十三篇に、

“見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれた尊い油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。”

と書かれていますので、交わりの中で特別な祝福の油注ぎがあることを信じていきたいと思います。

それからもう一つ、新しい集会の発表をします。まだ週報には書かれていないのですが、十一月三日の祝日、金曜日に、賛美集会が開催されることになりました。いろいろな工夫をした賛美集会になるかと思いますけど、できれば長時間の賛美の集会で、もう一度みことばの剣、賛美の剣を手に取って、主への賛美、心から、真心からイエスさまにおささげする。それとともに賛美を持ってイエスさまの帰られる道を備える。それとともに賛美を持って打ち砕くという、この両刃の剣の働きを、主によってしていきたいと思います。

では、今日のみことばのテーマ「一振りの剣」について見て行きたいと思います。私たちは、もう一度新しい剣を手に取っていただきたいと思うのです。
『剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。虐殺のために研がれ、いなずまのようにそれはみがかれた。われわれはそれを喜ぼうか。わたしの子の杖も、すべての木のように、退けられる。その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。』

これはどういったシチュエーションで語られたかというと、エルサレムの北の方、バビロンという、その当時の大国ですけど、そこから攻めてくるものがあって、それに対して、「私は一振りの剣で立ち向かう」という、そういうみことばの流れがあるので、剣であるみことばを通して、敵に対して戦い、闇を切り裂く働きをさせていただき、それと共に、私たちも主のみ前にへりくだっていかないと、やっぱりその剣によって、主の祝福を逃がすようなものになることがないように、歩んでいきたいなぁと思います。

それからもう一つ、ザワメキがやっといろいろな形で、いろいろな所で賛美することを主が与えてくださいましたけど、本当に感謝しています。神さまのご計画の中での一つ一つの出来事だなぁと思って、いろいろな教会を巡っての賛美をしたり、本当に神さまがご栄光を現そうとしておられることを心から感謝します。

その中で一つ最近与えられた賛美、今日も歌いましたけど、「揺れるヤシの下でゆっくりとお休み。」と、なんか本当にのんきな歌のように聞こえますが、「あなたの一生は真昼よりも輝く。」この素晴らしいみことばです。このみことばを握りしめて行きたいと思います。この賛美はヨブ記のみことばから与えられましたが、ヨブ記というのはなかなか難解の書と呼ばれていて、まず三人の友人たちが来て、彼らはヨブが全身がおできで苦しんでいる時に、まず来てずっと一緒に泣くのです。泣くものと共に泣く良い姿です。一緒に苦しんで、すごく愛があるなぁと思うのですが。でもいろいろな形で、「でもそれはヨブ、おまえ罪のゆえだ。」と責め始めるのです。
そんな流れの中で、主がヨブ記の十一章十七節から十九節の所というのは、何かほっとできるようなみことばだなぁと思うのです。「あなたは罪があるから裁かれるべき者だ!」と言われるような状況、そのできもの、「それはあなたは自分を義として、神さまを恐れない結果ではないか!」と言うのですが、でもヨブは、「そんなんじゃない!」と一生懸命言うのですが、そのような流れの中で、でも、あなたの一生、もしも本当に悔い改めて神さまの前に出たら、あなたの一生というのは真昼よりも輝き、暗くてもそれは朝のようになるんだよ!
このみことばはいろいろと調べていく中で、神さまがもう一度、私たちの人生でいろいろな困難苦難、試練と言われるようなものがあったかもしれないけど、真昼よりも輝く祝福。これすごく両面あって、神さまの祝福を受け取るのか、それとも悪魔の計画というか、自分の欲で生きてしまうのか。私たち、どちらを選ぶのか?と、神さまがおっしゃっているようなみことばだなぁと、この前後を見てすごく強く感じました。

2017年度版では、

『あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。』

と言っていますし、また口語訳では、

『そしてあなたの命は真昼よりも光り輝き、たとい暗くても朝のようになる。』

またリビングバイブルでも、

『しかも、あんたの一生は雲一つない快晴のようになる。暗さがあっても、それは朝のようにまばゆく輝く。望みがわき、勇気があふれる。ゆったりとくつろぎ、安らかに、休息する。安心しきって横になることもできる。多くの人があんたの助けを求めて集まる。』

揺れるヤシの下でゆっくりとお休みって、何気なく主に与えられた賛美だったのですが、このみことばの十八節を見ると、『望みがわき、勇気があふれる。ゆったりとくつろぎ、安らかに、休息する。』神さまのくださるものというのが、どんなに神さまのご計画、その三人のヨブの最初に出てくる友人たちは、最初は一緒に泣いていたのですが、結局、「ヨブ、おまえが駄目なんだ!」と攻め始めるのです。
でもそんな中で、この前後の中に何かオアシスのようなみことばで、本当にあなたの一生が雲一つない快晴のようになり、「望みがわき、勇気あふれて、ゆったりとくつろぐ安らぎをわたしは与えるよ!」これがみことばですので、私たち、そのみことばを信じて歩み続けていく者でありたいと、心から願います。
神さまが私たち一人ひとり、それぞれの働き、戦い、様々な中で戦ってきましたけど、主がこれから導いてくださると信じます。

少し話、変わるのですが、ヨハネの福音書二十一章十一節に、こんなみことばがあります。

“シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。”

それほど多かったけれども網は破れない祝福というものを、神さまはくださったのです。つい先日このみことばから、家庭集会でいろいろなお話をしました。私まだ小さな頃、その頃はゲームとかないですし、テレビもあったのかないのかわからないような時代なので、もう六十年以上前の話ですけど、絶えずお腹空いているみたいな。
だから何をするかというと、だいたい学校帰り、そのまま結構ランドセルを河原にぼんっと置いて、そのまま魚を捕りに行くのです。それで魚めちゃくちゃよく、その頃捕れたのです。その頃、四つ網というのがあって、網で、四つ網というのを、すぐそこの川に据えて、それは一人ではできないのですが、据えて、上の方から川を蹴って追い込んでいくのです。そうしたらその日、いっぱい捕れたのです。
それで、そんなことすることないのですが何匹捕れたかと言ったら、このヨハネの福音書二十一章十一節の数の、なんと百五十三匹捕れたのです。嬉しかったです。その時、ちょうど父が通りかかったので、「親父さん!百五十三匹捕れた!」と言ったら、「そりゃすごい。聖書のみことばも百五十三匹だぞ!」と言われたのですが、とっても懐かしい話しですが、そんな話を私、家庭集会でお話ししました。そこで、何匹だと思う?と言ったら、居た子たち、すごく賢いのです。そして何かアニメで見たらしくて、百五十三ではなくて、百五十四くらいのことを言っていました。
話しは飛ぶようですが、先日NRAという集会に行った時に、一人の先生が、このヨハネの福音書二十一章十一節からみことばを語っておられて、「これからはおびただしい数の魚を主が与えてくださる。百五十三匹ではなくて、百五十四匹目を与えてくださると信じましょう!」と語ってくださったので、私たちのこれからの歩み、「あなたの一生は真昼よりも輝く祝福を与えるから、今度はゆっくりとお休みではなくて、その祝福を他の人に分けて、分け合ってくれないか?」と主は語ってくださっていると信じています。

ですからもう一度、みことばに返っていきたいと思いますけど、一振りの剣を主ご自身のみ前にいただきたいと思います。エゼキエル書二十一章九節〜十一節、

“「人の子よ。預言して言え。主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。虐殺のために研がれ、いなずまのようにそれはみがかれた。われわれはそれを喜ぼうか。わたしの子の杖も、すべての木のように、退けられる。その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。”

そして十六〜十七節、

“あなたの顔の向くところ、右に向け、左に向けて切りまくれ。わたしもまた、手を打ち鳴らし、わたしの憤りを静めよう。”

このみことば通り、右に向け左に向け、みことばを振りかざして戦い続けていただきたいと思います。エルサレムに対して攻め込んできたものに対して戦うような流れがこのエゼキエル書の中にあるのですが、特に北のバビロンから大軍勢が襲いかかって、エルサレムに向かって戦いを挑んできているのです。
そのような中で、「でももう一度、一振りの剣を握りしめなさい!あなたに与えられた剣があるから、それを握りしめて、新たなる戦いのために立ち上がってくれ!」というのが神さまからの、今私たち一人ひとりに対して、教会に対して、語ってくださっているメッセージであると信じて、受け取っていただければと思います。
ぜひバビロンに向けて語られた、ある意味すごく厳しい裁きのようなみことばですけど、先ほどのヨブ記のみことばも、主に信頼して、主に聞き従ったら、真昼のような祝福が与えられるけど、そうでないものに対しては厳しい裁きが宣告される。この一振りの剣の、このみことばの賛美の中にも、同じ側面があるなぁと、すごくみことばを学ぶ中で感じました。私たちはもう一度主ご自身のみ前にすべてをおささげして、主が与えてくださったみことばの剣を受け取って、今日は帰って、そしてそれぞれの場所に遣わされていって、おびただしい数の、百五十四匹目というか、五匹、六匹、七匹と、本当に、でもそれでも網は破れない祝福。約束を神さまは備えてくださっていますので、そのための歩みをしていきたいと心から願う者であります。

みことばはここまでにさせていただいて、一言お祈りさせていただきます。

ハレルヤ。愛する天のお父さま、あなたの素晴らしいみ名をあがめて心から感謝します。主が私たち一人ひとりを愛してくださり、ここまで導いてくださっていることを心から感謝します。大きな戦いを経て、大きな、様々な歩みを経て、あなたご自身が私たちをここまで支えてくださって、今、あなたの赦しの中でこの地上に命が与えられて、あなたのために働くために、もう一度、一振りの剣を握りしめて戦ってくれとあなたが語ってくださっていることを感謝します。
もう一度私たちのすべてを、主よ、あなたにおささげします。主よ、私たちに与えられた剣を持って、主よ、右に向け、左に向け、この暗闇を切り分け、切り裂き、新たなる力を持って、主よ、あなたご自身にご栄光をお返しすることができるように助けてください。
今日のこの恵みを心から感謝します。もう一度、心から主を賛美します。主よ、どうぞもう一度、私たち一人ひとりに、またこの教会に、主よ、新しい賛美の剣を与えてください。小さな子どもからお年寄りに至るまで、新しい賛美の剣が今日私たちに降りてきますように。降りてきますように、降りてきますように。そして主が用意されておられる新しい主の戦いを戦い抜くことができるように、新しい時代がもう既に訪れています。主よ、この剣を握りしめて戦い続けよ!と、あなたが私たちに語ってくださっていることを信じて心から感謝します。
この攻めくるバビロンの力が打ち砕かれますように。ただあなたのご栄光が現されますように。主よ、あなたが先立って戦ってくださり、救いのみわざ、また癒しのわざ、あなたの奇跡のみわざを現してください。主よ、私たちはあなたを喜び、賛美することができるように助けてください。感謝します。すべてのご栄光を主にお返しし、尊き主イエス・キリストのみ名によって、この祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン。