では今このみことばを「正しく行えば神に受け入れられる。しかし正しく行うことをあなたが拒否するなら、気をつけなさい。」という意味であると定義します。
神はカインに対してこう言いました。「カイン、あなたは正しく行わなかった。あなたは方法を誤ったのだ。」と。ではここで一つの疑問があります。私たちの十分の一献金や普通献金にも同じことが起こるのでしょうか?私たちの十分の一献金や普通献金は、神に喜ばれているのでしょうか?それとも喜ばれていないのでしょうか?
神が厳密に何かを指定して求めるときは、私たちは神の求めに応じて献げなくてはなりません。私はここにアベルとカインという二種類の人を見ます。一人は神が求めるとき、その求められたものを献げる人です。そしてそれは神さまに喜ばれます。神さまはその求めに応じたものを喜ばれます。十分の一献金というのは、一パーセントではありません。十パーセントです。アベルは正しく行いました。
しかしカインに代表されるようなタイプの人たちがいます。その人は自分がしたいようにする人です。それが神に喜ばれると思っている人です。しかし神はそれを喜びません。これがもう一つのタイプの人です。
聖書学者のある人たちが断言していることですが、十分の一を献げるということは、ただ神に属するものをお返しするということなのです。結局はすべて神から出ているものだからです。私は個人的にこう思います。神さまという方は数字を見ているのではありません。一万円なのか、五万円なのか、十万円なのかを見ているわけではありません。私もあなたがいくら献金しているか知りません。ただ神が見ておられるのは、私たちの心の中です。私たちの従順を見ているのです。私たちの態度を見ているのです。私たちの偶像に対する態度を見ておられるのです。なぜなら、お金も気が付かないうちに偶像になりうるからです。
箴言三章九〜十節をお読みします。
“あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。”
私はこの聖書箇所が好きです。なぜならここに、「神をあがめなさい」と書かれているからです。ですからもしあなたが、「主よ、あなたを愛します」と言うなら、神にふさわしいものを献げてください。あなたが何かを得るなら、それを神に献げなさい。あなたが得たものの一部を献げなさい。
ここでは、お金について話しています。十パーセントのことです。旧約聖書時代の前にはお金というものがありませんでした。ですから栽培した野菜や動物が献げ物でした。
お金や初物に関する興味深い言葉があります。「初物」という言葉です。「初物」という意味は、「始まり」、又は「最初の一番良い収穫物」という意味があります。他の聖書箇所には、「初物」というとき、それは「豊かさ」、また「初めの実」を意味します。
今お読みした箴言の三章は、ローマ書十一章十六節と関係があります。
“初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。”
ここでパウロは何について言っているのでしょうか?ここで言っている「初物」とは、ギリシャ語で二つの言葉を合成した言葉であって、「初めの犠牲」という意味があります。
これについて私は考えさせられました。十分の一献金をささげることは果たして犠牲なのかということです。もちろんなります。私たちは必要経費を補うため、何回かその十パーセント分のお金を使いたいことがあったと思います。十分の一献金をすることは簡単なことではありません。人はそれを手元に残したい、持っていたいと思うものです。
しかし神がそれを求めておられるのです。パウロがここで言っているのは、「初物を私たちが献げるときに、その残り物は聖いのだ」ということであり、パウロが言わんとしていることは、「十分の一を献げるとき、神は残った九十パーセントを祝福される」ということなのです。もし十分の一を献げないなら祝福もありません。しかし献げるならそこに祝福があるのです。
では神の祝福とは何でしょうか?祝福とは、神がそれを増やすということです。聖書に見ることができますが、神は何回も物を増やしいています。神は足し算する方でなく、いつも掛け算する方であり、十分の一献金をする人の中にそのことが起こっています。収入の九十パーセントで生活し、すべての必要なものを手に入れることができます。そして月末にはすべてのするべきことは達成できています。神は何をしたのでしょうか?その残りの九十パーセントを掛け算して増やしたのです。多くの人たちはこう言います。「どのようにしてかはわからないが、私の必要はカバーできた。どうやってお金が増えたのだろう。」と言います。これは神が創った十分の一献金と普通献金に関わる霊的法則なのです。
イエスさまは物を増やすスペシャリストです。四千人を食べさせたことを思い出してください。またその後に五千人にも食べさせました。これは男たちだけの数です。さらにその男たちの妻や子どもたちにも食べさせたのです。
イエスさまは増やすことのスペシャリストです。そして神はいつも私たちの献げる十分の一献金や普通献金に対して答えてくださる方であると信じます!なぜならそれは聖書的なことだからです。
このメッセージ中、たぶんある方はこう思うかもしれません。では十分の一のことは、新約聖書のどこに書いてありますか?と。十分の一献金は新約聖書にはないと言う方がいらっしゃるからです。旧約聖書の時代だけのものであると言いう人がいます。ですが私は二つの事をお話ししたいと思います。
聖書は一つです。そしてイエスさまは旧約聖書を破棄せず、成就されました。すべての旧約の律法を成就したのです。これは第一の大きな事実です。
第二の事実はこの新約聖書中のみことばの中にあります。マタイ二十三章二十三節(2017版)、
“わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。”
このみことばには、「十分の一もおろそかにしてはいけない」と書いてあります。十分の一献金の事です。しかしもう一方の正義とあわれみもおろそかにはしていけません。これが神が期待していることなのです。
ロバート・モーリス牧師はその著書である「祝福の人生」の中で、このように言っています。「十分の一献金は信者の心への最大の試みである。しかしもっと重要なことは十分の一献金が、唯一神を試すようにクリスチャンたちを招いている領域であることである。」と書かれています。
もちろん献げるのは負担です。しかし神さまは、ご自分を試して良いと言われているのです。兄弟姉妹、十分の一献金は私たちの心を表すものです。あなたが献げないのは、神を第一としていないからです。
マラキ書三章八〜十一節をお読みします。
“人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる── わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる”
このみことばを読むときに、十分の一献金を献げていないので呪われていると思ってほしくありません。ここで「呪い」というのは、その人が十分の一を献げている人がうまくいっているようには、うまくいかないということを意味します。
しかし私が好きなところは「わたしを試してみよ」と神さまが言っているところです。あなたが十分の一を献げているのなら約束されているものを受け取ります。実際にはこれは神にとっては得にならない取引なのです。私たちは神に十パーセントを献げますが、神さまはその十パーセントをはるかに超えるものを私たちに与えてくださいます。神さまという方は私たちを祝福することを喜ぶ方なのです。神さまは私たちに与えるのが好きなのです。
聖書には私たちがしなければならないことを教えています。神はどのように私たちが献げるのを求めているでしょうか?それは神の家に持ってくるということです。神さまがそこに持ってくるように指定されているのです。「いやです。私は自分の母親にあげたいです。」ということは、別の名前があります。それは「献金」ではなく、「母親寄付」という別の名です。それは主に対しての献金ではありません。
このみことばで私が最も好きな点は、第一に「十分の一を携えてきなさい。そうすれば私はあなた方のために天の窓を開けよう。」と言っているところです。
第二に「あふれるばかりの祝福をあなたに注ぐ」という点です。あなたがこれを信じるかわかりませんが、私は信じます。神さまは嘘をつかないお方ですから!神さまは「わたしを試してみよ。試みてみよ。」と仰っています。神さまは私たちがお金で試みるその挑戦を受けてくださいます。
あなたがこれを三ヶ月間するように励ましたいと思います。それでもし、三ヶ月目に神があなたに何も答えないのなら、順先生に言って、「お金全部返してください。」と言ってもいいです。もちろん冗談ですよ!もし三ヶ月目に神さまがあなたに何も答えたいなら、あなたは神さまにこう言ってもいいのです。「神さま私に約束を果たしてくれませんでしたね。私に対して借金がたくさんありますよ。」と言ってもいいのです。
しかし私は神さまが答えてくださることを確信しています。なぜなら神は言葉の神であるからです。神さまは私たちに与えることが好きです。神さまは私たちが豊かになることを望んでおられます。
このことはアブラハムの生涯を思い出させます。神は彼に一つの約束をし、こう言いました。「見なさい。わたしはあなたに空の星のように多くの子孫を与えよう。」と言いました。そして神さまがアブラハムに息子を与えたとき、その子を全焼の生け贄として献げるように求めました。神さまは間違えたのでしょうか?約束をしておいて、息子を与えておいて、今その子を献げるように求めるなど、おかしいでしょう。しかしアブラハムがその子を献げることを決意したとき、神はアブラハムに、手を下すなと言いました。
しかしこの時、神はアブラハムの心を見ていたのであって、彼が自分の息子でさえ神に献げる覚悟を持っているか見たのです。そしてまさにその時、神はアブラハムにした約束を成就するために祝福を解き放たれたのです。
ですから神があなたに、「十分の一を持って来なさい」というとき、神は何をしているのでしょうか?神はあなたの心に何があるのかを見ているのです。「主よ、あなたにかけます!電気が止められても気にしません。ここにあるのはあなたのものです!」と献げるなら、神は必ずアブラハムにしたようにあなたを祝福してくださいます。なぜならあなたが神の求めに応じて献げる時に、神はあなたの人生に祝福を解き放たれるからです。これは聖書的です。
これで終わりたいと思いますが、私は十分の一献金とは、神をあがめる手段であると思います。そして、「神よ、あなたが一番大切な存在です」と宣言することになると理解しています。あなたが神の求めに応じて献げるとき、神は私たちのためにみ手を動かさないわけにはいかなくなるのです。それではお祈りしていきましょう!
主よ、感謝します。ここにあなたがいらっしゃるからです。主よ、ここにいるすべての家族の経済に特別なことが起こると信じます。またインターネットでご覧になっている方々とその家族にも特別なことが起こることを信じます。
しかし今日、私たちを赦してください。十分の一献金に対して、また普通献金に対して、今まで間違った概念を持っていたことをどうぞ赦してください。
主よ、この二〇二四年は今までとは違った年となりますように。今年、私の経済の営みが豊かにされますように。今日、私の経済の領域をあなたに献げます。私の仕事を献げます。私の給料を献げます。私の生活費も献げます。私の持っている貯金も献げます。今まで経済的にうまくいかなかったことについても献げます。また税金も献げます。主よ、来てください。そして私の経済を管理してください。私自身をお献げします。私の経済すべてを献げます。
そしてイエスさまの名前によって、私たちのすべての経済的呪いを打ち砕きます。偶像礼拝からくる呪い、先祖代々の呪い、違法の取引からくる呪い、それらをイエスさまのみ名によって打ち砕きます。そして偽りを打ち砕きます。かたくなな心を打ち砕きます。貪欲な心をイエス・キリストのみ名によって打ち砕きます。貧乏人のメンタリティー、考え方をイエスさまのみ名によって放棄します。また献金のメッセージを嫌う考えを打ち砕きます。
今日、聖霊さま、私に語ってください。あなたのみことばを私の心に詰め込んでください。そしてあなたに対して罪を犯すことがないようにしてください。今日あなたの祝福を宣言します。ここにいる一人一人に宣言します。またインターネットで見ている方々にも宣言します。そしてあなたの前で従順になることができるように助けてください。そしてあなたの豊かな恵み、豊かな祝福を楽しんで受け取ることができる人生へと変えてください。イエスさまの名前によってお祈りいたします。アーメン!