実は私自身の救いの証しの中にもこの「完全」というテーマが大きく関係しています。私が教会に通い始め、いわゆる求道中の期間は三年ほどありました。私は当時、今後クリスチャンとして「しっかりとやっていけるだろうか」という思いがありました。バプテスマを受ける限りには「しっかりとしたクリスチャン」であり続けなければならないと、その様な考えかたで信仰やクリスチャンとして歩むということを捉えていました。そんな中ある時ふと一人のクリスチャンが、一冊の本を渡してくれました。この本が私には向いているのではないかということで、貸してくれた本があります。それはウィリアム・ローの「キリスト者の完全」という本でした。
この本の中で、たった一言が、私の心をとらえました。それ自体はみことばではありませんので、注意して読んでいただきたいのですが、”完全まで至らないということと、それを努めようともしないということの間には、大きな違いがあります。”ということばです。私が勝手に「クリスチャンはこうでなければならない」と考えていたものが崩されました。
また、同じ題名で「キリスト者の完全」ジョン・ウェスレーという有名な伝道者が著書を書いています。「完全」というキーワードの中で、信仰の実践において、どうあるべきかというが書かれています。その一つの結論として、完全とは欠点がないことを意味するのではなく、神を愛する全き心である状態を意味する。そしてその完全はそれぞれにとってのその時の限界であり、限界が押し広げられていくという意味でその完全は成長していくというのがウェスレーの結論です。と解説されています。

人間がこの地上で誰一人完全になることなんてことはできない。それは主が一番ご存知です。しかしどうせ完全まで至らないからという行動と、その中で少しでも完全に近づこうという生き方には、天と地ほどの隔たりがあるということです。
この地上において、苦しいこともあるし、また能力もいろいろ違い。できることも違う。そういう中で、それぞれができる今現在の最大限を主のためになしなさい。それが「完全でありなさい」というこのみことばのメッセージだということです。

最後の「自分を変えなさい。」という部分に入っていきます。
『何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』
一番初めの「この世と調子を合わせていけません」というところで、スケーマ・型という言葉が使われていることを見ました。対比として、「心の一新によって自分を変えなさい。」の「変えなさい」という言葉は、モルフェーという言葉の派生語が使われていて、これは動的な形態を表します。スケーマは動きのない静的な形だけ、型、パターン。動きのない常にそこに、それでいいやと止まるような状態。一方「心の一心によって自分を変えなさい。」変え続けなさい。動的な形態。私たちに求められているのは後者です。

今日こうして、霊肉魂という領域、そしてその全てが完全であれというようなテーマでみことばを見てきました。このローマ人への手紙の十二章二節の前の十二章一節では、

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』

とあります。私たちのからだをささげることが最終的に霊的な生きた礼拝に繋がるというのです。不思議です。もちろんここには旧約の背景、実際の動物のからだをささげた生贄との対比がありますけども、ここでもやはり体魂霊という存在は切っても切れない、私たちの全人的な存在というものは切っても切れないものだということが分かります。
今日、霊肉魂という領域の考え方をもう一度みことばから受け取り、そのすべてがこの地上において完全であるように召されているということを学んできました。
「完全でありなさい」ということが主からの使命です。しかしそれは私たちを叱責したり、咎めたり、重たいものを背負い込ませるためのものではありません。私たちの歩みの結果として、この地上の出来事として現れること自体が重要なのではなく、完全であろうとする過程、思い、主への全き心が一番大事なものです。それを主は私たち一人ひとりに求めておられます。

もう一度最初のみことばを読んで終わりにしたいと思います。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

このみことばが私たち一人ひとりに語りかけられている主からの使命である事を受け取り、もう一度今のこの困難な状況にあって、主にあって奮い立って戦っていきたいなという風に思います。一言、お祈りさせていただきます。

愛する天の父なる神さま、み名をあがめます。私たちは今こうして、誰一人主の愛に足るものはいない中で、一人ひとり恵みによってこの場所に集められていることを心から感謝します。何よりも私自身が主の純粋なみことば、完全なあなたのみことばを解き明かすには程遠い、汚れた器であることを何よりも知っております。その中で今日、もう一度私たちが心から見上げるべきみことばについて学ばせていただきました。ただただ主のみことばが私たちのただ中に、私たちの霊肉魂全ての中心にありますように。私たちのすべての存在を貫くものとして、みことばがいつも刺し通されていますように、どうか私たちには、それぞれに必要な祈りの課題、また戦いの領域がありますから、その領域においても私たちが今一度、キリスト者の完全を持って完全なる主の勇士として、完全であり続ける勇士であり続ける、そのような油注ぎの中で、あなたのみことばに立って生きることができるように助け導いてください。お一人お一人の霊肉魂を強め、健康で健やかに、主の使命をこの地上における限り力強く全うしていくことができるように助け導いてください。
私たちの命を、また全てを握っておられる天の父なる神さま、あなたにもう一度信頼します。そして私たちをその父のみもとに導いてくださったイエスさま、あなたの尊い十字架の犠牲を心から感謝します。また弱い私たちをいつも支えてくれてくださっている聖霊さま、心から感謝します。私たちは弱い中で、それでもなんとか主に対して完全であろうとするこの歩みを、あなたご自身が喜んでくださっていることを心から感謝します。お一人お一人に主の祝福があるように、また勇士と主の油注ぎがあるように、主のみ名によって宣言してお祈りします。アーメン。