さらに続けて、より枠を広げた「健康」というテーマで見ていきたいと思います。実は、三月二日の水曜礼拝で「健康や病」という領域に関してみことばを語らせていただきました。今日はその様なテーマが主題ではありませんが、そちらを踏まえた上で、「完全」、「完全である」であるという点を学んできています。

マルコの福音書五章三十四節にはこのようなみことばがあります。

『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

皆さんよくご存じだと思います。十二年間、病気を患った女の方が群衆にまみれているイエスさまを見つけて、なんとかイエスさまの衣の裾にでも触れることができれば私のこの病は癒やされるという信仰を持って、そうしました。結果、実際に癒やしが起こりました。この女性は群衆にまみれてイエスさまの衣に触れました。誰が触ったのかと認識できないくらいの人数でした。けれどもイエスさまは、はっきりと自分から力が出たことが分かったので、誰がそのような信仰を持って私に触れたのかということを、群衆の前に問いかけました。そしてこの女性は隠し通すことができないと思い、自ら名乗り出ました。イエスさまの前にひれ伏して、自分の信仰の在り方も含めて、自分のしたことをイエスさまに、またたくさん人がいる前で、恥も外聞もなく一部始終を説明しました。そのすべての信仰と行動を合わせて、イエスさまはこの女性に言葉をかけました。

私たちがクリスチャンとして、「病」という領域を考えるとき、こちらもまずこの地上においては神の支配は完全ではないということが前提となります。クリスチャンであっても、いついかなる時に誰がどのような病気にかかるかわかりません。健康であるということは、ただそのように支えられているだけにすぎず、誰も自分の力で健康を保っているなんてことは言えません。それは命がその通りであるように、病気・病ということに関しても同様のことが言えます。
しかしそのような中で私たちは、今日見ているように、「この世と調子を合わせてはいけない」というキーワードの中で、病という領域の中にもどのようなスタンスで立つことができるのか。立つべきなのかということをみことばから受け取る必要があるのではないかなと思います。

さきほどのみことばに戻りますと、イエスさまは女性に去り際・別れ際、「安心して帰りなさい。病気にかからず健やかでいなさい。」という言葉をかけました。これは私たちクリスチャン全てに等しくかけられている言葉です。ここで受け取りたいのは、私たちがこの地上において病気にかからず健やかでいるということが、主のみ心だということです。主もそのことを望んでおられます。 イエスさまご自身が、私たち一人ひとりに「安心して帰りなさい。病気にかからず健やかでいなさい。」という言葉をかけてくださっております。このことばを受け取りましょう。それだけでたとえ病の中にあるとしても、力が湧いてくるのではないでしょうか。この女性は、このことばとともに希望に満ちた新しい癒しの生活を残りの生涯、歩んでいったと思います。私たちもこのようにみことばから力を得ていきたいと思います。
私たちが病という大きな問題に直面する時に、必ず主が気に留めて、一人ひとりのことを見てくださっております。今病の中にある方はこのみことばを受け取っていただきたいと思いますし、また健康が支えられている我々の多くもこのみことばを宣言していきたいと思います。
「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」主からの祝福であり、宣言であり、また命令でもあります。

第一テサロニケ五章二十三節、

『平和の神ご自身があなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。』

ここに、『あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。』とあります。そして私たちの『霊、たましい、からだのすべてが、責められるところのないものとして保たれていますように。』という言葉があります。
健康というテーマを学んできましたが、クリスチャンはともすると、「からだ」の領域を「信仰」の故にないがしろにしたり、逆に過度に現実的、地上的に考えたりする傾向があるように感じます。しかし、私たちへの「健康でいなさい。健やかでいなさい。」という命令、使命は、霊・肉・たましい、全てにおいてなのです。だから私たち一人ひとりが、信仰や「霊的な」領域と同様に、主から与えられているこの地上の体を適切に管理していかなければなりません。霊も体も魂も全てが健康であるように、健やかであるようにというところを見落としてはいけません。

さらに、ルカの福音書七章二十一節などを見ると、

『ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。』

というふうに書かれております。イエスさまのこの地上での働きの中心が取りも直さず、病気・肉体の領域、苦しみ・たましいの領域、悪霊からの癒し・霊の領域、という様に霊・肉・魂の全てが網羅されています。このようなごく短い記事、みことばからも、主が何を語っているか、主がどのようなみ心を持っておられるかを受け取ることができます。

健康管理や運動について、また食べ物に気をつけたりという事は、信仰の領域と無関係、あるいはそれ以上に、それらを強調したら不信仰だというような誤った考え方が私たちの中にあったかもしれません。

学んでいるみことばから、そもそも考えるならば、この霊肉魂という三つの区分そのものさえも意味はなさないのです。その三つの区分自体に意味があるのではありません。聖書全体からこの三つの領域を通して何が語られているか、私たちの存在全てが主にあって守られるように、主にあって正しいポジションであるようにということです。肉体のことを極端に卑しく思ったり、ないがしろにするのは、霊肉二元論という聖書とは全く違った誤った考え方から来ている場合もありますので、本当に注意しなければなりません。

このようなお話をすると、でもこのみことばがあるではないかという反論が出てくるかもしれません。マタイの福音書六章二十七節、

『あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。』

このみことばはそのとおりです。ただ同時に、今語らせていただいてきた内容と、このみことばが矛盾するということではありません。健康管理は、自分の命を少しでも延ばしたり、この地上で少しでも快適な生活をしようというのが目的ではありません。むしろそれは手段です。何のための手段かと言ったら、私たちにこの地上で与えられている使命を最後まで力強く果たし続けるというなによりも重要な目的のためのです。
からだの領域において、機能を失えば、やはりこの地上においてはある程度の主からの使命を果たす領域というのが削られるわけです。もちろんそれが全て悪いことではありません。病に倒れているから敗北であるということでもありません。むしろその様な状況のなかにこそ使命があるという側面もあります。その辺も注意していきながら、みことばからどう受け取れるでしょうか。
言い換えるならば、いのちを握っておられる主のあわれみにより健康が支えられ、私たちはその許される中で健康管理を怠らないべきであり、それにより世の中でも言われる「健康寿命」というものは延ばすことができると言えるのではないでしょうか。
このような形で三月二日の水曜礼拝では、この「健康」という領域を主題にみことばを学んでいきました。第一テサロニケ五章のみことばも引用した通りです。

その中で、今日の「完全」というテーマに導かれました。もう一度、第一テサロニケ五章二十三節、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

今日見てきましたこの霊肉魂が完全に守られるということはどういうことでしょうか。私たちのこの地上、あるいは地上だけでなく、天においても、また後に来る世においても、私たちの存在全てが主にあって完全に守られているように、私たちはそのような存在として主から召されているということですね。そのことをもう一度私たちがみことばから受け取っていきたいと思います。

少し長くなりましたけども、今日の主題のみことばの「この世と調子を合わせてはいけません」という部分から、戦争の話題、コロナ禍と呼ばれている領域また健康という領域に関して、みことばから学んできました。私たちはこの世の型にはまって、この世の型に合わせさせられてはいけないということです。

続いて、主題のみことばに戻ります。二番目として、

『いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、』という部分があります。短く端的に言えば、「『完全』をわきまえ知りなさい。」ということです。もっと簡単に言い換えるならば、「完全でありなさい。」です。完全を知り、あなた方自身が完全でありなさい。ということが、二番に書かれております。
「完全」という言葉は聖書の中で非常にたくさん用いられております。詩篇十八篇三十節では、

『神、その道は完全。主のみこことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。』

私たちの信じる唯一真の神は完全です。これは誰も否定してはならないし、否定しようもありません。そして同時に主のみことばも完全です。ここでは純粋という言葉でそれが示されています。ただし、主のみことばを解き明かす私たちの能力、私たちの理解は不完全です。だから私たちは常にみことばを学び、神のみ心を追い求め続けなければなりません。

第二歴代誌十五章十七節、

『高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、完全であった。』

アサ王という有名な王様に関して、このアサ王の心は一生涯完全であったという非常に喜ばしい称賛がなされています。二〇二一年に私がよく引用したダビデをはじめ、このように旧約聖書に描かれている有名な人物は特別な存在であると考えるかもしれません。

しかし最後に、マタイの福音書五章四十八節では、

『だからあなたがたは、天の父が完全なように完全でありなさい。』

とあります。「天の父が完全なように」という部分に異論はないですね。しかし、「あなたがたも完全でありなさい。」と、私たち一人ひとりにも「完全でありなさい」という言葉が語られています。私たちが完全になることはできるでしょうか。
結論を言うと、天の父、真の神さまと同じ完全は、この地上における人間が到達できるものではありません。しかし、「完全でありなさい」とあります。原語において、天の父の「完全」と、あなたがたも完全でありなさいの「完全」が、別の言葉が使われていたら私たちの気持ちも楽であったかもしれません。しかし全く同じ言葉が使われています。全く同じ完全に至ることはできない人間、なぜみことばはこの天の父と同じ「完全」という言葉を使って、私たちに使命を与えているのか。そのことを最後に見ていきたいと思います。

ピリピ人への手紙三章十二節から十四節では、パウロが今日のテーマと同じような文脈の内容を語っています。

『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』

ここで伝道者パウロも大きな神の働きをする中で、自分は何も捕らえてもいないし、完全でもないということをはっきり言っています。いやむしろ追求している最中だと、後ろを振り返らずにひたむきに前に向かって一心に走っているんだと言っています。
実は、これが私たちクリスチャン一人ひとりに示されている「完全」という状態です。どういうことでしょうか。追求している、目標を目指して一心に走っている状態。それは完全と言えるのでしょうか。