2023年4月9日(日)新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの黙示録22章16・17節
『「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。』
ハレルヤ!
「復活祭、おめでとうございます!」とお隣の方に声をかけてください。今日は全世界的なお祭りです。それはイエスさまが死を打ち破ってよみがえられたことを記念する日だからです。
イエスさまがよみがえられたのは、ユダヤ暦で、「ニサンの月の十六日」です。聖書の暦は太陰暦です。ニサンの月の十六日は、先週の金曜日でした。イエスさまが死なれた日は先週の水曜日にあたる、ニサンの月の十四日です。これは歴史的事実です。
先ほども素晴らしいクラリネットの演奏を聞かせていただきましたが、死を打ち破ってくださった方がおられるのです。そして、それに続く者たちが私たちなのです。今日一日を楽しんでいただきたいと思います。
礼拝後、復活祭スペシャル・ランチがありますから期待して下さい。今日のメニューは、現在、東京で大人気、スリランカ・カレーです。「東京で人気がある」と聞くと、地方の者たちはビビっとアンテナが立ちます。「カレー」と言うと、インドとかネパールを思い浮かべますが、スリランカというインド洋に浮かぶ小さな島のカレーが、今や大人気です。そして今日はなんと、スリランカ人の方が、そのカレーを作ってくださいました、スミーラさんファミリーが心を込めて作って下さいました。私の話を聞いていただき、また、スリランカ・カレーを堪能しながら、周りの方々とお交わりをする、楽しい一日にしていただきたいと思います。
毎年、復活祭には、「召天者記念会」があります。新城教会が始まって、新城市においては七十年が満ちました。
七十年で、クリスチャンになって召天された方々は、何百人もおられます。新城教会で管理させていただいている方々だけでも、二百名近くおられます。納骨堂もいっぱいです。毎年、召天者記念会で、お写真を拝見するのですが、瞬間にしか見えない感じです。今日も九時半から記念会を持たせていただきました。
しかし今年の召天者記念会は、私にとっては、ひとしおでした。毎年、私は司式させていただいていますけれど、今年は記念会に来られている方々のお気持ちが、よく分かりました。
なぜなら、昨年の十二月十八日、私の家内が天に帰ったからです。はや四ヶ月が経とうとしています。皆さんのお祈りに支えられて、徐々に、元気を取り戻しています。
今日は、家内の母も、記念会と礼拝に来てくれています。いつも「本当に悲しい。悲しい。」と、涙を流しておられます。「なぜ、娘が先に逝っちゃったのか・・」と悲しんでいます。これが永遠の別れだったら、本当に人生はむなしいです。
家内が亡くなって、今までに体験したことのない悲しみがあります。
ご主人が生きておられ、奥さんが生きておられたら、少しは関係が悪くても、感謝してください。地上に存在があるのかないかでは、大違いです。
それでも私たちクリスチャンには希望があります。
教会とは何か。「教会」とは、地上だけの存在ではないからです。天にも教会があるのです。新城教会は天にもあります。天上の教会と地上の教会がセットになって新城教会です。特に、召天者記念会や復活祭は、天の教会が地上に降りて来て、ひとつになる時だと思うのです。
今朝の召天者記念会の中で、聖さん式を持たせていただきました。聖さん式とは、ただのパンとぶどうのジュースをいただくだけですが、聖書から見ると、たいへん重要なひと時です。
初代教会は毎週のように、殉教者を出したのですが、聖さん式の時、気づかされたのです。 それは、天に帰った聖徒たちは、聖さんで共にあると言うことでした。天の教会が降りてきて、共に神を礼拝するのが聖さん式だ!と気づいたのです。
今回は初めての試みでしたが、聖さん式を召天者記念会の中で行わせていただきました。七十二年間で新城教会から天に帰った兄弟姉妹が喜んで、地上に降りてきたような気がしました。
天の会衆は、今なにをしているのでしょうか。天の花園で寝転がっているのではありません。彼らは私達の応援団です。
先日、WBCという野球大会がありました。私は野球はあまり好きではないのですが、今回は結構、興奮しました。準々決勝でしたでしょうか、「日本は絶対に負けた・・。」と思って、私は途中でテレビを切りました。そうしたら、「勝った!」というニュースが入りました。最終的に日本が優勝しました。
特に日本で行われていたゲーム、すごかったですね。スタンドからの応援が半端ではなかったです。グラウンドで戦っている選手たちと一体となって、戦っていました。「もう駄目か!」という場面も声援によって、チームを勝利に導きました。日本の優勝は応援団あっての優勝でした。
同じです。天に帰った兄弟・姉妹は、地上の新城教会の戦いに、常に関心を持ち、一喜一憂しながら応援しているはずです。WBCの観客以上の声援で応援しているに違いないです。応援団が『雲のように私たちを取り囲んでいる。』のです。
天と地が一つになって歩めるって、素晴らしいではないですか。家内は地上から去ったけれど、教会は地上だけではない、天と地の教会は一つだということに気づかされて、すごく励まされ、腑に落ちました。
今日は復活祭です。イエスさまが死を打ち破って復活された記念日です。天の教会と一つになって、よみがえりの希望を確認して、生きていきたいです。
しかし、死んだ人がよみがえるなんて、本気で信じられますか?普通、信じるのは、なかなか難いです。人が死んで、最も悲しいのは、火葬された後に引き出された骨を見たときです。
私は、火葬場には行きませんでした。「悲しすぎて行けなかったんですか?」と聞かれましたが、そうではなくて、大勢の方々が来られましたから、私は残ってご挨拶する係でした。子どもたちの家族が行ってくれました。
戻ってから、家内の骨、どんなもんかと、骨壺を開けて見てみました。「享子ちゃん、こんな姿になっちゃったのか…。」みたいな感覚でした。
去年の今頃、家内は自転車を乗り回していました。昨年の十月の終わり頃までは、出歩いていたのですが、十一月ごろから病んで、あっという間に天に帰って行きました。
彼女はよく河原に行っては、一人で祈っていました。本当によく祈る人でした。先週、彼女が祈っていた場所に行ってみました。あたりまえですが、そこには誰もいなかったです。
この写真いいでしょう。私が県民の森で撮った写真です。
有名な写真家に撮ってもらったような雰囲気の写真です。それが今では、骨になってしまったわけですから、これがよみがえるのかよ〜みたいなところも実際、あります。
しかし天地宇宙を造られた神がおられたら、よみがえりだってあるはずです。無から有を創造された神がおられるのなら、いくら骨になってもよみがえることができるはずです。
案外、天地創造は信じるけれど、イエスさまの復活と、死人のよみがえりは空想話のように考えがちです。しかし決してそうではないのです。やがて私たちは地の塵に戻らなければならないですが、イエスさまが帰って来られる日、よみがえるのです。イエスさまは、先に天に帰った聖徒たちを引き連れて、帰って来られます。
そもそも、自然界は、復活があることを私たちに教えています。
私、家内が亡くなってから、すぐに家を片付けました。家内との生活で、かなりたくさんの物がありましたので、それらをリセットして、一人生活を始めました。
家内は植物が好きで、ベランダに足の踏み場もないくらい、いろいろな植物を育てていました。しかし家内が亡くなったので、今日も来ているお義母さんの所に引き取ってもらい、向こうで育ててもらうようにしました。
でも一鉢だけ、取っておきました。なぜなら家内が死ぬ間際まで、大切にして愛していた花たちであったからです。自分で鉢植えして、いつもその花たちに声をかけながら育てていました。伏せってからも、近くに置いて愛して眺めていました。
家内が亡くなった後、それらは枯れてしまいました。捨てようかと思ったけれど、なんとなく捨てられなくて取っておいたのです。家内が一生懸命、愛をかけていましたから、捨てるのは忍びなく、枯れていたけれど、時々、水をぶっかけていました。それも無造作に、遠くからかけるような感じでした。
しかし冬を越えて、その花たちが復活してきました。これが昨日撮った写真です。
こんなにまで復活して綺麗に咲きました。私は何も手入れせずに、ただ水をかけていただけです。枯れきっていた花が、ここまで復活したのです。なんかとても嬉しかったです。家内が復活してきたような気持ちになりました。
一度枯れてしまい、捨てようと思っていた花が復活したのです。
私は別に、愛をかけていたわけでもないのに復活したのです。家内は、いつも花たちに「イエスさまを賛美しましょう。愛してるよ!」とか声をかけていました。
植物は人の声を聞き分けます。これは科学的にも証明されています。どういう人が育てているか分かるらしいです。この人は愛してくれているか、適当にやっているか、分かるらしいです。なぜなら神が造られた作品ですから。
家内が天に帰った事を、この草花は知っていたと思います。しかし彼女は必ず復活するという事も知っているのでしょう。それを証明するかのように、花たちは再び咲いたのだと思います。また、私が悲しんでいる事も知っていて、復活の望みを示しているような気がします。
このように草花だって復活するのならば、私たちだって、やがて復活するはずです。
その先駆けとなってくださったのが、イエスさまです。初穂となってくださったのです。
聖書の暦は太陰暦ですが、それに沿ってユダヤ教の祭りはなされます。イエスさまが十字架についた日は、「過ぎ越しの祭り」の日でした。エルサレムの神殿では、祭りに使う子羊をニサンの月の十四日、午後三時にほふっていました。その時刻、午後三時に合わせて、イエスさまは十字架の上で死なれたのです。
そしてニサンの月の十六日、初穂の祭りの日に合わせて、イエスさまはよみがえられたのです。
「俺は神なんだから、おまえらと違うぞ!」というのではなく、「初穂」となりました。初穂とは、「最初に出てくる穂」です。その後に、多くの穂が出てくるわけです。それは、イエスを信じる者たちです。
イエスさまがよみがえられたことは、それに続いて、よみがえる者たちがいるのです。その希望を与える為に、初穂の祭りと同期して、イエスさまはよみがえられたのです。
今日ここにおられるお一人一人、やがて人生を終えて、天の教会に属する日が来ますが、イエスさまがお帰りになる日に、天の教会のメンバーたちは新しいからだに宿ってよみがえり、我々も栄光のからだによみがえるのです。私もその日を楽しみにしています。その日には頭の毛だって、ちゃんとあるはずです。どんな髪型にしようか楽しみですね。老化現象で失ったものがあっても、よみがえりの日には、最高のからだになります。
先週は、「GoToミッション」という、リバイバルミッションの集会が中国地方で行われました。平岡先生と井草聖二さんが奉仕をしたのですが、広島で行われた集会に、私はインターネットで参加しました。平岡先生、結構良いメッセージを語っていました。
「人とは、常に、自分の位置を確認しながら生きる動物だ」と話していました。これは人間だけだと言うのです。
今、何時でしょうか。十一時二十四分です。これは一日の中で自分がどの位置にいるかの確認だというわけです。
カレンダーは一年、三百六十五日の中で、自分がどこに位置しているかの確認です。
また誕生日。私の小さい頃、誕生日なんか意識していなかったです。私は七人兄弟で、誕生日を祝ってもらったことはありません。私たちの幼い頃、そういう文化はありませんでした。
しかしこの頃はいいですね。子どもたちは誕生会を開いてもらって喜んでいます。孫たちも盛大にやってもらっています。
しかし誕生日って、おめでたく思いますけれど、実は、自分の人生の中で、どこを生きているかの位置確認です。めでたいようで、めでたくないのです。
私は今年で七十二歳になります。この先、何年生きるのか分かりません。例えば、私が九十歳まで生きるとしますと、その中の七十二年目に自分があるという位置確認です。残り後、十八年です。
カーナビでこちらに来られたかもしれません。ナビで、自分の位置を確認しながら、ここまで来られたのです。