〜この地に植えられ70年〜
〜復活祭礼拝〜主イエスよ来てください パート3

飛行機に乗りますと、最近ではカーナビならぬ、どこを飛行しているのか分かるのです。この頃は、外国に行くこともないのですが、例えばネパールに行く時、「今、中国の上を飛んでいる・・」とか、「ヒマラヤの上空だ」とか、位置が確認されるわけです。
でも、どうでしょうか。もしも、飛行機が飛行中に、着陸地のデータを失ったとしたら、どういうことになりますか。飛行中に機長が「緊急のお知らせがあります。当機は現在、どこに向かって飛行中か、通信手段が壊れ、わかりません。」と言ったら、急に不安になります。「着陸する空港も、方向も、分からなくなりました。」と言われたら、どうでしょうか。機内は騒然となると思います。
でも、続いて機長がこう言うのです。「しかし皆さん、心配しないでください。当機には、ものすごいごちそうを積んでいます。目的地は分かりませんが、今からごちそうをいっぱい出します。飲んで、食べて、楽しんでください。最新の映画も用意してあります。最高のコメディもあります。それらをご覧になって楽しんで下さい。
しかし繰り返し申し上げますが、当機はどこに向かって飛んでいるのか、どこに着陸するのか、墜落するのかは分かりません。」とアナウンスがあったら、楽しめますか?絶対に楽しめないはずです。「そんなの、どっちでもいい。どこに着陸するのか、早く教えてくれ!」と言うと思います。
人生も同様です。多くの場合、どこに行き着くのか分かっていないのです。目的地のデータを失った、機内と同じような状態が人生のただ中に起こっているのです。
日頃、位置確認をしながら生活しているという事は、最終的にどこに行き着くのか把握しなさい、ということを意味しているのです。

人生は、どこに行き着くのでしようか?すでにここにおられる方々は、ほとんどがクリスチャンですから、把握しておられると思います。本当に良かったですよね。しかしもしも、把握しておられなかったら、今日、是非とも把握していただきたいです。イエスさまを自分の救い主として、受け入れていただきたいと思います。

イエスさまの時代、イスラエルは、ローマ帝国に植民地支配されていました。日本もかつて、朝鮮半島を植民地支配したり、満州を傀儡国にしたり、台湾も植民地にして支配しました。そういう状況になると、ごく一部の人たちが、支配国と取引をしながら、儲けるわけです。
イスラエルも同じで、ローマ帝国に取り入って、甘い汁を吸っていた輩たちがいました。それが、サドカイ派という学派に属する人たちでした。
当時、イスラエルは、宗教的にも、政治的にも、サドカイ派とパリサイ派という二大政党のような派閥に議会は牛耳られていました。パリサイ派の人たちは、結構、民衆に受け入れられていましたが、サドカイ派は、ローマ帝国にこびって、莫大な利益を得ていました。
彼らには、自分たちを現すシンボルマークがありました。それは何かと言ったら、「紫の衣」でした。紫の衣を着ていたら、「サドカイ派だ!」と分かったのです。彼らには金があって、毎日、宴会しているような連中でした。
サドカイ派の人たちは、「人は死んだら終わりだ」と考えていました。「死後の世界なんてない。死んだら、人は消える。霊的な世界、目に見えない世界なんて存在しない。」という考えを持った、唯物論者みたいな人たちでした。
ある日、イエスさまはパリサイ派の人たちを目の前にして話をされました。パリサイ派の人たちは、イエスさまの働きに反対していたのですが、イエスさまって当たりまえですが、賢いです。パリサイ派とサドカイ派の考えの違いを知って、バリサイ派の人たちに、サドカイ派の話をしました。どんな話をしたのかと言うと、「ある所に紫の衣を着た金持ちがいた。」と話されたのです。
「紫の衣を着た金持ち」と話された瞬間、パリサイ派の人たちは、「宿敵、サドカイ派だ!」と耳をそばだてたはずです。イエスさまに反発していても、「イエスの話、ちょっと聞いてみようかな・・。」という気になったはずです。
その内容が何であったのかと言うと、サドカイ派と思われる毎日宴会を行っている金持ちの門前に、ラザロという乞食がいたという話でした。ラザロには全身におできがあって、紫の衣を着た金持ちが捨てるパンくずで生きていました。
当時の金持ちは、テーブルや手を拭く時、パンだったらしいのです。パンで拭いて、それをぽいっと外に捨てたわけです。それが犬の餌になりました。金持ち家の前にいれば、パンが捨てられます。ラザロは自分では動くことができず、人の世話になってここに来て、パンくずで生きていました。それらの光景については、当時の人たちは皆、知っていたのです。
イエスさまは、こう話しました。ルカ十六章十九節〜二十一節、

『ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。』

『しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。』

サドカイ派は、死んだらすべてが終わりだと考えていたけれど、イエスさまはそうではない、死後の世界があるんだぞ!と語られたのです。また、サドカイ派の人たちは、み使いなんか存在しない、霊的世界はない!と主張していたのですが、「いや、そんなことはない。み使いたちはいるんだ。」と、話されたのです。
ラザロも金持ちも死んだのですが、死んだ瞬間、ラザロはみ使いたちによって、アブラハムのふところという場所に連れて行かれたのです。その場所は別名、パラダイス。平たく言えば、天国と言ってもいいでしょう。
しかし、金持ちには「み使いが来た」とは記されていません。誰が来たのでしょう。み使い以外の存在が来たに違いないのです。
そして、

『金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。』

これは、なんと、死後の世界の描写です。サドカイ派の否定していた、死後の世界は実在していたのです。
死後の世界は、二つの世界に分かれていました。アブラハムのふところという、神さまの側に行く人たちと、『苦しみながら目を上げた』という、苦しみの場所とに分かれて成り立っていました。
サドカイ派は、宗教家の顔をしていても、実は、神を信じず、霊的世界も、死後の世界も全く信じない人々でした。
しかし金持ちが死後、気がついたら、死後の世界はあったのです。その時、金持ちは自分の位置を確認したのです。それが「苦しみの場所」でした。
私たちは日々、自分の位置を確認しながら生活しています。しかし最後の位置確認はどこで行われるのでしょうか。それは死後の世界です。
金持ちは、苦しみの場所で自らの位置確認をし、同時にラザロの位地も確認したのです。知り合いのラザロは、アブラハムのふところ、「天の宴会の場所」にいました。なんという対比でしょうか。金持ちは地上で毎日、宴会をしていましたが、死後は、苦しみの場所でした。ラザロは地上で、金持ちたちの宴会を外からただ眺めるだけで、中には入れてもらえませんでした。
しかし、死後の世界では、位地が完全に逆転していたのです。ラザロはアブラハムの側で、大宴会に連なっていたのです。しかし金持ちは苦しみの場所から眺めるだけで、中には入れてもらえませんでした。この地上では、宴会から落ちるパンくずで生きていたラザロが、アブラハムという、イスラエルの始祖の最も近い席にいたのです。

このストーリーを、私たちはどう捉えるかということです。サドカイ派や金持ちのようになってはいけないのです。日々私たちは、位置確認しながら生活しています。神は、「あなたの最終地点はどこですか?」と問いかけている証拠です。
神を信じる者たちはどこに行き着くのでしょうか。それは神の国、パラダイスに行くのです。

先ほど読んでいただきました聖書の箇所に、

『渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。』

とありました。「いのちの水」を受け取らないと渇いてしまうのです。金持ちは苦しみの場所で、「私は喉が渇いています!ラザロの指先を、ちょっとだけ水に浸して、ここに来て私の舌を冷やしてくれませんか。」と頼んでいます。彼は渇いていたのです。最終地点では、時は遅いのです。神は地上のみで、いのちの水を与えるのです。
イエスさまの所に来たら、永遠のいのちをただで受け取ることができます。努力とか、修行とか、献金とか、そういうものではありません。献金は感謝として献げるものです。永遠のいのちの水を、この地上で受け取らなければ、永遠に渇くことになります。

そして、私たちは死んでも、この地上に戻って来るのです。今、天の教会の人たちは、何を考えているのでしようか。死後の世界を最終ゴールだとは考えていないのです。さらなる最終位置確認は、イエスさまが地上に再び帰って来られる日になされます。その日を彼らは楽しみにしているのです。

テサロニケ人への手紙四章十六〜十七節、

『すなわち、号令と御使いのかしらの声と、神のラッパの響きとともに、ご自身天が天から下って来られます。そしてまずキリストにある死者がよみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』

イエスさまが帰って来られる日が近づいています。その日には、何が起こるのかと言ったら、「キリストにある死者がよみがえる」のです。新城教会、七十二年の歴史の中で、何百人もの人たちが天に帰りました。しかしイエスさまが地上に帰って来られる日、彼らも一緒に戻ってくるのです。まず彼らが最初によみがえりを体験し、それに続いて、生き残っている者たちも共に変えられるのです。そんな日が来るのです。
いや〜、ちょっと想像できないですよね。しかし初めに申し上げましたように、天地宇宙を造られた神がおられるのならば、死人のよみがえりも、イエスさまの再臨も、必ず、実現するはずです。
最終ゴールは、イエスさまの再臨です。

そのためにはどうしたらいいのか。今朝、皆さんで読んだ箇所に記されていました。

『御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。』

「来てください!」と言わなければいけないのです。ここでは三人が「来てください」と叫んでいます。一人目は記者のヨハネです。聖霊さまも「来てください」と叫んで下さいます。
そして「花嫁」です。花嫁とは、「教会」のことです。教会はイエスさまの花嫁です。教会が「イエスさま!来てください!」と叫ぶ時に、イエスさまは帰って来られるのです。
イエスさまは初穂として、よみがえられました。やがて初穂に続く者たちがよみがえるのです。主を信じる者たちは、永遠に生きるのです。そのために必要なのは、『御霊と花嫁が言う。「来てください。」』の一言です。
「来てください。」この叫びがあったら、イエスさまはこの地上に帰って来られます!とヨハネは記しました。

心から「来てください。」と叫んでみましょう。「来てください!」
毎日の祈りの中に、この言葉を忘れないでください。「マラナタ」という言葉が使われています。
黙示録二十二章二十節、

『それらのことをあかしする方が言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』

教会が地上だけに心を留めるのではなく、一つになって「主よ!来てください!」と叫ぶ時、それも、地上の教会だけではなく、私たちと共にある天の教会が、「主よ!来てください!」と叫ぶ時に、イエスさまは地上に再び帰られるのです。私は期待しています。家内もその中に含まれているはずだからです。

初穂となってよみがえられたイエスさまを記念するのが、復活祭です。
一人一人が教会の代表として、叫んでいただきたいと思います。私もこの頃、毎日の祈りの中で、「イエスさま!来てください!」と祈るようになりました。
今日は最終ゴールを確認したいと願っています。最後に一言お祈りして、復活祭のメッセージに代えさせていただきます。