”誤った正義”を脱ぎ捨てよう

2024年3月24日(日)新城教会牧師 四元雅也

創世記 18章17-19節
“ 【主】はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。 わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが【主】の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、【主】がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」”

ハレルヤ、主のみ名を賛美します。今日はこうして久しぶりに皆さんの前に出てお話しする機会が与えられましたことを心から感謝いたします。石塚さんの賛美を聞きながら、いつもながら素晴らしい賛美に感動するのですが、(彼ののどぼとけはどれほど太いのだろうか?)と考えてしまうという、変なところが私にはあります。

今日は、順牧師は滋賀のブラジル人の教会で奉仕され、ざわめきも高知で、そして、リバイバルミッションの方では、岐阜県で二か所集会が行われています。祝福をお祈りしましょう。

先週は二〇日、能登半島地震の被災地門前町でリバイバルミッション主催の炊き出しが行われました。朝の三時に新城を出発し、十七名の方が出向いて行って、二百名くらいの方に食事を提供することができたということです。
現地につくと、雪交じりの雨と、強い風の荒天だったそうで、テントを張って給仕されたそうですが、大変苦労されたそうです。

今日は三月二四日ですが、先週礼拝で順牧師がお話しされていましたが、ユダヤの暦によると、今年の復活日、救い主イエス様のよみがえりを記念する日は、二六日、今週火曜日であります。今日は、十字架にかかられて、死なれた日になります。
ヘブル人への手紙二章十四後半・十五節

“・・死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。”

多くの日本人は、死んだら全て消えてなくなってしまうのか、別の生き物に生まれ変わるのか、浮き世を漂う霊になるのか、それとも墓や仏壇の中にいるのか、はたまた地獄や極楽にいるのか、はっきりと分からないのです。「先祖の霊になる」という考え方がありますけれど、場合によってある時は守護霊、またある時は祟りの霊というふうに、どちらが本物なのかよく分からない。さらに、「供養すれば浮かばれる」と言われたりしますけが、その仕方とか態度とか、人それぞれでどれが正しくて、いつ浮かばれるのか、はっきりしない。

そして、こういうたくさんある観念が、その中のどれか一つを取って、「これを信じます!」と決めてやっていくのではなく、複数、あるいは全部混同されて、相反する観念というか、互いに矛盾して両立し得ない、そういうものでも、例え「なんかおかしいなぁ、なんか矛盾しているんじゃない?」と思っても、みんながやっているのでまあいいでしょ、と、よく考えずに受け入れられてしまっているというのが、日本人の死後の世界の理解ではないかと思います。

だから、考え出したら整理がつかなくて混乱してしまうので、「死んだら全て消えてなくなる」と考えて片付けたりもするのですが、さあ自分が死に臨むという順番が来た時、本当にそう信じきれる人がどのくらいいるのでしょうか。

聖書が私たちに示している死に対する理解は、ただ一つです。すなわち死は死ではない。永遠のいのちの入り口である。憂いに満ちたこの世とか、罪に満ちた世界から、神さまの光に満ちた正義と公正の国で永遠に生きるということです。
この素晴らしい道を、イエス様はその死によって、私たちに開いてくださった。それが今日この日だということです。

イエスさまは、「私を信じる者は死んでも生きる」「この事を信じますか?」と問いかけています。死は誰もが通ります。私もそうです。人は死に抗うことはできません。また自分の死の時を自分で決めることもできません。若くて生きる力が旺盛であっても、明日の我が身は誰も分からないわけです。

多くの人は、今を楽しく生きるために、死について考えることを避けて先送りにしてしまいます。しかし、今を精一杯、悔いなく生きるためにも、いつ訪れるか分からない死の問題に対して、あなたの答え、ゆるぎない信念を持つことは重要ではないでしょうか。
イエスさまのよみがえりの力は、イエスさまが死なれた瞬間から始まって、よみがえりの勝利をもたらすものだ。そして私たちは、イエスさまのよみがえりとともに、その「死」を「喜びの訪れ」として世界に宣べ伝える者であると話されていました。「イエスさまの死」は私たちに「命を与える武器」なのです。
イエスさまはこの地上に私たちと同じ体を持って、人として生まれました。そして人として十字架の上でその身を裂かれて、血を流されて、そして肉体の死を通られました。その死によって悪魔を滅ぼされ、そして私たちに新しい永遠のいのちをもたらされたと書いてあります。
イエスさまの死によって私たちが永遠に生きる場所が備えられたということです。それはイエスさまを信じた瞬間に私たちに実現する。これが聖書が提示しているたましいの救いになります。

私は四一年前にこのことを信じ受入れてから、素晴らしい人生に入ることができました。皆さんは受け入れておられますか?受け入れておられる人は、「アーメン」と言いましょう?皆さん、このことを受け入れておられますか?「アーメン!」主に栄光をお返しして拍手しましょう。

さあ、今日のメッセージ箇所に戻って話を進めましょう。今日のメッセージタイトルは「”誤った正義”を脱ぎ捨てよう」というものです。“誤った正義”とは何とも微妙な言葉の響きです。相反する言葉同士がつなげられているのですから。でも、「コロナ以降、世の中に誤った正義が蔓延するようになった」という研究者もいるそうで、興味深い事でありますが、この問題についてクローズアップされているのも事実かと思います。先ほど日本人の国民性について「正義と善が食い違う矛盾」があると話しました。「なんか矛盾がある感じがするけれども、みんながやっていることだからいいんじゃないか?」ここにも“誤った正義”があるのかもしれませんね。

クリス・マーシャル「聖書の正義」という本を読みました。最近出た本です。この本によると、聖書中最も頻繁に出てくる話題の一つが“正義”だそうです。例えば、性的な罪に関する表現は、聖書中九〇回ほど出てくる。しかし正義を表すヘブル語(ミシュパート・ツェダーカー)とギリシャ語(ディカイオシュネー・クリシス)は一〇〇〇回以上出てくる。それくらい“正義”は聖書中重要なテーマとして取り扱われているということです。

今世界では、人種差別問題・ジェンダー問題など、抑圧や差別に対して正義を求める運動が広がっている。一方で、イスラエルとパレスチナ、アメリカとロシア・ウクライナ・中国・EU・そして日本、世界は混迷を深め、それぞれが掲げる正義がぶつかり合って力で正義を実現しようとする「正しさ」が対立の溝を深めています。

また、これらの世界情勢を見るときに、人間が掲げる正義とは、正論であっても極論であっても、相対的なものであり、立場が変われば正義が逆転することもしばしばある、というものであることがよくわかります。人間の正義とは、時として独りよがりで強力な武器となって相手を傷つけ、かえって平和をかき乱し混乱させることになる可能性があります。そんな世界において、イエスさまは力による正義を拒絶し、「神の国」の正義と希望を自ら非暴力的な生き方で示した、とこの本は語ります。

今日は、正義という問題に立ち寄り、そこから信仰生活の中で私たちが陥りやすい過ちについて考え、私たちが神様の視点に立って物事を受け止め、その力を行使することを、知恵をもってコントロールして、お互いが一つになることが大切であるかということについて学んでいきたいと願っています。

聖書を見てみると、この「誤った正義」を持ってしまったことによって神様の祝福から外れてしまった、あるいは困難な状況に置かれてしまった人、また集団についてのエピソードを見ることができます。
最も象徴的な出来事は、イエス様を十字架につけるために奔走したユダヤ人たちです。彼らは自分たちが間違ったことをしているとは考えませんでした。むしろこれが正しい事だと考えて、イエス様を葬るためならその流された血の責任が自分たちと子孫の上に降りかかっても構わないとさえ言ったのです。またパウロもパウロになる前、サウロだった時には、クリスチャンたちを捕まえて牢屋に入れるために奔走していましたが、彼は正義感に燃え、これが神さまに喜ばれることだと信じきっていました。
私たちは、ともすると神様の義を後ろ盾に、自分の正義を強力に武装してしまうという霊的傲慢の間違いを犯しやすい、弱い者ではないかと思います。

もう数十年前の話になります、そのとき自分はまだ救われて間もないころ、献身もしていませんでしたし、聖書のこともよくわからないような時のことですが、ある大きな教会の先生が、一緒に働いているもう一人の先生とのホントにちょっとした会話の中でこんなことを言っていました。
「これからは雑魚はいらない」すると、聞いていた別の先生も 「ホントにそう思う」と即答したのです。
私もその会話をきいていたのですが、「雑魚ってどういう意味かなあ?もしかして自分のことかな?」と心配になりました。あえて話のニュアンスを問いただすことはしなかったのだけど、お二人の話の文脈から感じたことは、これからのリバイバルには、能力のある人、力のある人、知恵のある人が必要であるので、そういう人に救われてほしい、ということかな?と思いました。そして、この話は教会のあり方として正しいのかなあ?と単純に疑問を持ったことを覚えています。それから信仰生活が続き聖書の理解が深まることにつれて、このような考え方は、やはり矛盾しているかな?と思うようになったのです。
ルカの福音書五章二九~三二節

“それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。 すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」 そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」”

イエス様の元に集まった人達は、社会で疎まれている人、取税人や罪人だと書いてあります。一二弟子たちも、彼らについて聖書に記されている記述は、彼らが決して力ある人、地位のある人、知恵ある人、人々から称賛されるような人ではなかった。

イエス様の取り巻きは、まさに雑魚といっていいような小者たちだったようです。しかし、彼らはイエス様の十字架の後、聖霊の訪れとともに、力ある働きをしました。そして、神の国の拡大と共に、ルカやパウロといった、いわば知恵あるもの、力ある者たちも加えられていったのですが、彼らとて聖霊の働きがなければ何もできない者たちであることは、他の弟子たちと変わりはなかったのです。それどころか、聖書に登場する偉人達、アブラハムでも、モーセでも、ギデオンでも、ダビデでも同様でした。

これは神様の国の民として、御国の拡大のために必要な視点だと思います。人間の視点では雑魚と見られるような魚でも、イワシでもアジでもタイでもマグロでもサメでもクジラでも、地球という大きな視点で見れば、大切な存在であり無駄なものは何一つありません。私たちはお互い好き嫌いを言い合っているような時ではありません。リバイバルという神様のみ業を求めながら働くものです。しかし、自分の中で「誤った正義」に立ってしまうこともあるということを覚え、お互い注意しましょう。私たちはみんな、神の国の民なのです。