”誤った正義”を脱ぎ捨てよう

話は変わりますが、私は何度もお話ししていますが、平日は、シャロームというB形就労継続支援事業所で働いています。
そこでは個人を大切に、通り一辺倒ではなくて、その人にあった対応の仕方で向き合っていくことを大切にしています。私は昨年六月から働かせていただく中で、失敗から多くのことを学ばせていただきました。その多くは自分の正しさにこだわるばかりに、一部のメンバーさんとの間にもめ事が起こったりして、幼気な他のメンバーさんに悲しみを与えてしまうことが何度かありました。というより今でもたまにあります。
自分の正義を掲げることが他の職員やメンバーさんに迷惑をかけ、全体としての働きが滞る要因になりうることについて何度も気づかされ、心を砕きへりくだることの大切さを考えさせられることが本当に多いです。自分が無知で知らなければならないことが多くあったことに気づかされるわけです。

三月十日に礼拝の中で滝川充彦先生から息子の進君の感動的な証が紹介されていました。
数年前のこと、彼が通っている学校の先生方から「節分の豆まきをやるのですがどうされますか?進君のために別のプログラムを用意しましょうか?」
それで、滝川先生ご夫妻は考えられたそうです。息子一人のために別のプログラムをやってもらうということが最善なのかな?その日は休ませようかな?いろいろ考えたが、「息子にどうしたいか聞いてみてください」と伝えたそうです。そこで先生が本人に聞いてみると、「鬼は偶像なので僕は豆まきをやりません」と信仰による宣言を立派にしたそうです。小さな子どもでも自分の信仰をもって堂々と証している素晴らしい態度だと思います。
その言葉を聞いて先生方が検討して学校としての豆まきを中止して、別のプログラムを全体でやることになった。すごい神様の祝福が現わされました。

この出来事は、彼の存在、その人間性を神様が大きく用いられ、「学校」という社会に対してクリスチャンとしての影響をもたらした素晴らしい出来事です。と同時にいろいろと考えさせられました。
進君が言ったからこそ誰も傷つくことなく、かつこれまで常識と思われていたことに一石を投じ、先生方に「一度立ち止まって考え直そうか?」という気持ちにさせたのではないか。もしも、私が同じことを言ったとしても、先生たちは「まあ、いいですよ。自由にどうぞ。」と言うくらいで、大して意に介さなかったのではないかなと思います。
そして、先生方がそのように心を動かされたのは、彼らがその道のプロであり、学校が社会的にみると、大人たちの保護を必要とする弱い子どもたちが集まっている場所だからなのではないか?とも思いました。
そのような場所に働いている先生方は、預かっている子どもたちが個性豊かであり、また、精神面・身体面など、社会に対してより弱いとされ、様々なサポートを必要とする人であることを理解し、彼らに対して必要なケアを施すために、一人びとりに真摯に関り、時に現れる問題に対し柔軟な対応を取り、職員同士や親御さんとも必要な情報を共有し、意見をまとめて同じ方向を見ていこうとする、起きている物事を論理的に言語化し、最善の対応を取ること、そういうことに長けている場所だからなのではないかな?と。
進君の素晴らしい証はもちろんですが、彼の声に対してしっかりと耳を傾け、英断を下した先生方、その判断の後ろにある見えない努力や奮闘に思いを向けさせられました。私は正直言って先生方に拍手したい気持ちになりました。

話をシャロームに戻すと、その利用者さんたちとの関りにおいて、ご家族はもちろん、新城市内の様々な福祉従事者と連携を取りながら活動がなされています。市役所の福祉課の人、社会福祉協議会、相談員の方などが、利用者お一人お一人とかかわっておられます。それぞれがその道の専門家であり専門的な学びと長い期間の実務経験に裏付けられたスキルを持っておられます。
だから、そういう意味で素人である私としては学ぶべきところが多いです。特徴を持った方に「ああ、こういう言い方をすれば相手に必要なことを無理なく伝えられるのだな」とか、「この人にはこういう点を注意することが必要なんだな」など、自分が見方考え方を転換することが大切だと感じさせられることは沢山あります。

去年の八月に、私は礼拝で「天に宝を積む」というタイトルでメッセージしました。
私たちはそれぞれに働きの場所こそ違うけれども、そこでなされている仕事、学びでもそうだと思うのですが、時間とか知力、体力、それを人々のため、会社のため、社会のために使うということ。これは単純にお金にまつわる、いわゆるビジネスというものにとどまるものではない。宗教改革者ルターやカルヴァンが言ったように、それは天に宝を積むことだと。
実に神さまとの関係を持った者、私たちクリスチャンが、自分の使命とか仕事に対して誇りを持つ。愚直にこれに励んでいく。毎日これに勤しむ。そして仕事を通してお金を儲ける、その中にも天に宝が積まれる要素がある。もちろん教会で奉仕をしたり、伝道や説教や祈り、奉仕、献金も、天に宝を積む要素であるわけですけど、どんな仕事であっても、仕事をすることに天に宝が積まれる要素があるということを覚えていきましょう。
エペソ人への手紙の二章二十節。

“実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。”

地球の管理人としての使命を持って、神さまによって創造された私たち一人ひとり、無駄な人など、誰もいないわけです。皆、等しく、神さまに愛されて、そして正しく良い行いをするために創造された作品です。神さまによって創造された。ここにいらっしゃる皆さんお一人お一人、あなたは素晴らしいのです。そこに神さまによって置かれて、私たち一人ひとりがその成せるわざを持って生きるということは、これは神さまを証しすることなのです。天に宝を積むことなのです。
私たち一人ひとりが、神さまのみ国のために、それぞれの場所で働く時に、神の国はあなたの中から始まって拡大していきます。そのことを求め、この地に置かれている使命を全うしてまいりたいと思います。
ここにいらっしゃるお一人お一人が、日々その営みの中でなされている働きは本当に素晴らしいもの、尊いものであることを実感することができますように。

そして、一人一人がしっかりと神様の正義を正しく受け止め一致していくときに、小さなところにも大きなところにも、神のわざがなされていくのではないでしょうか?
へりくだった態度で御霊の実によって行動することは教会にとって非常に大切なことだと思わされます。そこには同じ聖霊によって召された者たち、それぞれの世界で研鑽を積み、知識と知恵を持つ多様な賜物があふれています。お互いを認め愛によって結ばれていくときに、キリストの体は大きく動き出します。

悪魔は、私たちが一致しないように、どのように働きますか?それぞれが自分の正義を掲げるようにします。「私が正しい。この人は間違っている。」と。どうか、教会の中には、そのような論争が起きず、それでいて互いに愛によって結び合わされるという神様のわざが力強く現わされますようにと、お互いに祈りあっていきましょう。

最後に、冒頭でお読みした創世記十八章に描かれている主の使いとアブラハムとのやり取りのエピソードについてお話して終わりたいと思います。
主の使いが来られ、アブラハムとのやり取りの中で主はこう考えられたと書かれています。
創世記十八章十七~十九節

“【主】はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。 わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが【主】の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、【主】がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」”

主はアブラハムが主の道を守り正義と公正を行うようになるため、彼を選ばれたと書かれています。そして彼にご自分がなさろうとしていることを隠すべきでないと考えられたと。私たちもこのように、主ご自身がなさることを打ち明けていただける者になりたいです。
主は、ソドムとゴモラの罪が非常に大きく天に届き、彼らを裁き滅ぼしつくそうとされていることをアブラハムに告げられました。そこからは、アブラハムが主の憐れみを求める命がけのとりなしが始まります。
創世記十八章二三節~

“アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。 もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。 正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」”

アブラハムは神様のご性質である「公正」に訴えかけました。五〇人から初めて最後は一〇人に至るまで、ソドムとゴモラに少数の正しい人を見つけることができたら、町全体に情けをかけ滅ぼさないようにと投げかけたのです。そして、神様はその訴えに見事に応えられました。
旧約聖書を読むとき、神様に抱く第一印象として、恐ろしい方、悪に対して情け容赦なく裁きをなされる、とことん正義を貫かれるお方、と思われるかもしれません。そういう一面もあるでしょうが、それと同じくらい情け深く、罪に対して忍耐をされる方であることを知らされます。
「主は情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊か」なお方です。この個所はそのことを力強く私たちに語っています。一〇人の正しい人によって、町全体が許されるのです。

そこには、主の道を歩み、その思いを受け取る正しい人がいるのです。アブラハムのゆえに、一〇人の正しい人を見つけたら町全体を赦そうという答えが引き出されたのです。
日本において主を信じるクリスチャンは非常に少なく、日本の現状はソドムとゴモラのように罪深い状態であるかもしれません。私たちはアブラハムのように主の思いを受け取り、主の前に出るものとなりたいと思います。そして、私たちを通して神様の正しさ・公正さが現わされていくことを求めて生きていくようにお互いに祈り励んでまいりましょう。

日本にとってアブラハムのような者とものとなることができますように。もしも“誤った正義”をまとっているのなら、主に示していただき、脱ぎ捨てて神様に立ち返らせていただけるようにお祈りしたいと思います。

一言お祈りします。

お互いに自分自身を顧みて、神様の前に出てお祈りしましょう。

天のお父様、お一人お一人に聖霊様触れてください。神の栄光を表すものとして、それぞれの存在、働きを祝福してください。神の義に生きるものとして私たちを用いてください。イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン