〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
2023年クリスマス礼拝 絶望からの希望

2023年12月24日(日)新城教会主任牧師 滝元順

イザヤ書 11章1~4節

“エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。”

メリークリスマス!素晴らしい演奏を聴かせていただきました。人間ってすごいなぁと感動します。クラリネットにしてもピアノにしても、すごい演奏でした。
今日はもう一組、特別賛美があります。Hiraku & Norikoです。彼らの歌には強いメッセージ性があります。私のメッセージの前にお聴きいただきたいと思います。では拍手でお迎えください。
<特別賛美>
ありがとうございました!

今日のクリスマスのメッセージは、「絶望からの希望」というタイトルを付けさせていただきました。クリスマスには、「絶望からの希望」というテーマがあります。皆さんの中で、「絶望的だ!」という方がおられたら、希望を持って下さい。なぜなら、クリスマスは絶望から希望への時だからです。

「財布よりスマホ忘れが致命傷」という川柳がありますが、最近、財布よりもスマホを忘れるほうが困る時代になりました。こんな時代にどうしてなったのか・・。便利なのか、不便なのか分かりません。スマホが使えなかったら社会から出て行け!みたいな雰囲気があります。
「パスワードつぶやきながら入れる父」というのもありました。孫たちが聞いていたら、いっぱいお金が手に入るかもしれません。パスワードも管理するのが大変です。皆さんはどう管理されていますか?パスワードを設定している時は「絶対に覚えている!」と確信しているのですが、必ず忘れます。何回パスワードを変更したかわかりません。それがいいのかも知れませんけど。
「店員が手とり足取りセルフレジ」というのもあります。近くのJAでさえセルフレジになりました。JAは地域のじいちゃん、ばあちゃんを大切にする店のはずですが、今や、全て自分で機械を操作しないといけません。なかなか大変な今日この頃です。

近年、世界で戦争が頻発しています。ウクライナでは二年近く戦いが続いていますし、イスラエル・ガザにおいては日々、多くの子どもたちや住民、兵士たちが犠牲となっています。ある意味、世界は絶望的です。同時に、地球環境も破滅に向かっています。
環境を含めて、今後、世界はどうなってしまうのか心配になります。
しかしイエスさまの降誕について聖書からよく調べると、そのテーマは「絶望からの希望」であることに気づかされます。
と言うことは、暗闇が深くなればなるほど、そこには希望がある!と期待できるのです。

聖書はご存知のように、旧約聖書と新約聖書に分かれています。今、皆さんがお持ちの聖書は新・旧一冊ですから、あまり気づかないのですが、旧約聖書と新約聖書は、全く別の文書です。その間、四百年ものギャップがあります。旧約聖書は、イエスさまがお生まれになる四百年前に書き終えられた古門書です。しかしそこには、救い主、キリストが来られると預言されているのです。私たちが聖書に注目し、真摯な心で向き合うならば、イエスさまが神であり、救い主であることが理解できるはずです。
人生は一度しかありません。ゆえに、誰が神であるかを特定するのは、ものすごく重要な作業です。聖書を読んでみていただきたいです。しかし一人で読むのはなかなか難しいので、教会に来られると、解説してもらえます。真理をより深く知ることができるのです。

今日、読んでいただいた聖書の箇所は、旧約聖書イザヤ書十一章一節〜五節でした。イエスさまはイザヤから見れば、七百年後の人物です。しかし、イエスさまの誕生はイザヤによって預言されていた事が分かります。預言通りに、イエスさまはお生まれになったのです。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とは、何を意味するのでしょうか。
エッサイとは、ダビデという王様がイスラエルにおりましたが、ダビデの父親です。今でもイスラエルに行きますと、ダビデ王は英雄です。ダビデは紀元前およそ一〇〇〇年ぐらいの人物です。今から三千年以上前の人物です。しかし彼は今でも英雄なのです。
ダビデは、エッサイの八番目の息子でした。ここからも神がこの世の常識に捉われないお方であることがわかります。
今から三千年前のイスラエルには、日本もその傾向がありますが、長男がすべてを受け継ぐという、家長権システムがありました。最近は日本の民法も変わりましたが、明治時代から近年まで、日本でも、長男が全財産を受け継ぐ家督社会がありました。
エッサイには八人の息子がいたのですが、一番の末息子がダビデでした。そんなダビデが神によって選ばれ、王となったのです。これはこの世の常識を全く覆しています。
ですから神にとって、何番目に生まれたとか、どんな家柄に生まれたとか、そういうのは関係ないのです。神はお一人一人に愛を注ぎ、選んでくださるのです。

エッサイは、エルサレムの隣町、ベツレヘムに住んでいた羊飼いでした。ダビデもまた、お父さんの家業を手伝って、羊の世話をしていたわけです。

イエスさまがお生まれになった夜、神は最初、誰に誕生を告げられたのか?

“さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。”(ルカの福音書二章八節)

と記されています。なんと、ベツレヘムの羊飼いたちに、告げられたのです。すごいと思いませんか?
七百年前、イザヤを通して、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」と語られた約束が、ちゃんと果たされ、実現しているのです。「この地方の羊飼いたち」とは、辿れば、エッサイを祖先とする一族であったのです。

さらに『エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。』とは、何を意味しているのでしょうか?
ダビデとソロモンの時代、紀元前約一〇〇〇年ごろ、イスラエルは栄華を極めました。王国として、最も盛んな時代でした。今でもイスラエルがダビデに憧れるのは、その理由です。

イザヤの時代、かつてのイスラエルは、北と南に分かれ、国は消滅しました。朝鮮半島みたいです。朝鮮半島は、現在、北朝鮮と韓国とに分かれています。しかし昔は、李王朝という統一国家があったのです。

北イスラエルはアッシリアに占領され、南ユダはバビロニア帝国に侵略されて国を失いました。
何が言えるのかと言ったら、イスラエル王国は「切り倒された」ということです。イザヤの時代の民たちは、失意のどん底にあったわけです。

通常、木は切り倒したら、残された切り株は腐るのみです。元通りになるのは不可能です。しかしイザヤは、希望のない絶望的な状態の切り株から芽が出て、やがて大木になって結実すると語ったのです。このように、神からのクリスマス・メッセージは、「絶望からの希望」なのです。

今年、主が私たちの教会に、「希望の年です!」と語ってくださいました。良いこといっぱいあるのかも?と期待したら、結構、絶望的なことも多かったかもしれません。これからどうなっちゃうのかと、私を含めて、皆さんも絶望的な気持ちになったかもしれません。しかしイエスさまがこの地上に来られた目的が、「絶望からの希望」であることを忘れてはなりません。なぜなら、希望の前には、必ず、絶望があるからです。

続いてイザヤ書十一章を六節から読むと、実に幅広い領域の希望が示されています。

“狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。(イザヤ書 十一章六~八節)

今日は楽しいクリスマスです。一般的には、クリスマスには「喜び」があります。「クリスマス停戦」という言葉もあるように、戦争があっても、クリスマスだけは平和に過ごしたいと人々は願います。クリスマスはプレゼントを交換したりと、楽しさがあるわけです。
しかし、クリスマスになると、特に日本で、絶望的心境になる存在がいます。
クリスマスが最大の受難日!という存在がいるのをご存知でしょうか。それは鶏、チキンです。チキンを食べましたか?

 昨日はたいへん良い、クリスマス集会がありました。昨夜私は、「クリスマスは教会で」という集会に行きました。四・五十名くらいの集会かな?と思ったら、こんなにもいっぱい集まっていて、びっくりしました。夕食のメニューはやはり、チキンでした。
クリスマスの二日間だけで、鶏は、ある人の計算によると、「五百三十七万千四百二十五羽」が消費されるというのです。消費者庁の日本人鶏肉消費量から割り出したと書かれていましたけれど、チキンにとってのクリスマスは、最大の受難日であるのは間違いありません。

毎週、私の家に二人のボーイズが泊まりに来ると、お話ししております。一昨日は、中高生集会があったので覗きに行きましたら、小学二年生の二ボーイズもその集会に潜り込み、参加していました。しかし、彼らはこんなところにいました。
 彼らは檻の中に入って遊んでいました。これを見て鶏舎を連想しました。それで昨日、この二人と一緒に、鶏舎に、とりなしの祈りに行きました。近くに大きな鶏舎があるので、彼らと行って祈りました。すると彼らは、「俺たち、鶏に生まれなくてよかったなぁ・・・。」としみじみ語っていました。私が「今晩のメニューは鶏だぞ!」と話すと、「ちょっとチキンは食えんなぁ・・。」と言いましたが、結構、食べていました。
いずれにしても、クリスマスに人間は喜ぶのかもしれませんが、鶏にとっては受難日です。もしも人類が怪獣の奴隷となってケージに飼われて、やがて食べられたら、クリスマスどころではないはずです。
神さまは「食物連鎖」というむごい法則で生物に食料を供給しています。神はなんという法則と共に生き物を創造したのか?と考え込んでしまいます。

先月、新城市で作文コンクールがありましたが、新城市教育委員会賞に、一人の少年が入賞しました。授賞式には文部副大臣も来たそうです。
「あなたは愛知県明るい社会づくり推進東三河大会実践体験文において・・」という賞状が授与されたようです。その入賞作品のタイトルは、「自然界のバランスを考える」というもので、結論は、「人間は被造物の管理人」でした。
最近、日本各地でクマが多く出没して、被害が出ています。北海道とか、秋田県とか、この辺でも出るみたいです。熊は人間にとっては危険な動物です。しかし熊を捕獲して駆除すると、対象の市町村には、「なぜ駆除したんだ!」という苦情電話が殺到するそうです。しかしそういう人たちは、クマと遭遇した経験がない人たちばかりです。クマと出会ったら、人は絶対に勝てないそうです。北海道で釣りをしていて、ヒグマと出会い、食べられてしまった人がいました。それは浜松の方だったそうです。その地域に関してプロ級の知識があったそうですが、ヒグマには勝てずに、食べられてしまったわけです。
本来、人間は被造物の管理人として創造されたのです。管理の仕方は、保護だけではなく、バランスを取る必要があるというのが、少年の主張でした。こんなふうになってました(一部抜粋)。

「自然界のバランスを考える」
「害獣駆除」という言葉を知っていますか?害獣駆除とは一つの動物ばかりが増えすぎないために僕たち人間が害獣を駆除することです。自然界のバランスを保つために、猟師と呼ばれる害獣を駆除してくれる重要な職業があります。僕のお母さんのおじさんはその猟師をしています。猟師が駆除する駆除対象の動物は、主にシカ、イノシシ、サル、他にもカラスやアオサギなどの鳥類も関わっています。なぜ駆除しなければいけないのかというと、いろいろな動物が増えすぎると、その動物にも影響が出てしまうので駆除をする猟師が必要となります。
僕はその猟に何度も同行したことがあります。季節ごとに駆除する動物が変わります。僕が一番最初に同行した時に駆除した動物はカラスでした。僕が二年生の時です。最初は駆除するのが可哀想だと思ったけど、それが動物のためにもなるなら駆除したほうが人間にも動物にも良い環境が作れるのではないかと思いました。カラスは一匹が撃たれると、他の仲間のカラスが、なんだなんだと寄ってきて、仲間のカラスを助けようとします。僕が初めて行った時も、一匹のカラスを撃った瞬間に、仲間のカラスがすぐに来ました。大量のカラスが来ると今度は駆除対象ではない鷹がやってきて、撃たれたカラスを持っていこうとしました。おじさんが鷹に取られる前に急いでカラスを取って来ようとしたけれど、撃たれたカラスを持った瞬間、鷹が寄ってきて、おじさんを襲おうとしました。危ない!と思わず僕は声に出しました。おじさんは急いで車に戻ってきました。なんとか攻撃を受けずに車に乗りました。猟は時々危ないことが起きます。自然界のバランスを保つためには、多すぎても少なすぎてもいけないので、猟師が必要です。