彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。』
この箇所は、「新しい天と新しい地の創造」から始まっています。これはやがて人類史上に起こる最大の出来事です。
イエスさまが帰ってこられるときに何が起こるのか。始めの千年間は、主を信じる死者は復活し、同時に、地上での生活を普通に営む人たちが共存するような時代みたいです。再臨が来てみないと分からないところもありますが・・・。
イザヤの預言によると、「百歳で死ぬものは若かったとされ、」とありますから、永遠の命に生きる人たちと、通常の命に生きる人の営みも同時に存在する事がわかります。そこには呪われたものが何もないのです。そして害を加えるものは何一つなくなるのです。そしてここに、すごいことが預言されています。
『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』
普通は、『彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与える。』(詩篇九十一篇十五節)
聖書全体の概念は、「神に助けを求めて祈りなさい。そうしたら助けてあげます」というのが神の立場です。
しかしやがてイエスさまが帰られるときには、『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』
どちらがいいですか?困ったことがあって、神に助けてください!と叫ぶのと、神に叫び求める前に神からの答えが来る。まだ語っていないのに、神が聞いてくださる。どちらの祈りのタイプがいいでしょうか。イザヤ書六十五章の方が絶対にいいですよね。祈りがいらない世界に住んでみたいものです。
ボンヘッファーが言うように、神がおられるけれど、神なしで生きる世界を求める、それは、神の国を求めることに他ならないのです。
アダムとエバはその世界で生きていたわけです。神さまが共におられるのは当然のことでした。しかしそれが人類の罪によってサタンに奪われたのです。
しかし今、イエスさまの尊い犠牲によって、回復した!というのが、十字架の真理です。イエスさまは既に十字架にかかって、架け橋を作ってくださっています。私たちは常時、神の世界と繋がっているはずです。しかしそのように、なかなか信仰が持てません。神との関係を不連続に考えてしまうのです。
イエスさまは神の子、罪のないお方でした。ゆえに動物のように、繰り返し犠牲を献げる必要はなく、「ただ一度だけ」罪の身代わりとなってくださったことによって、聖なる神の世界と結ばれたのです。
その関係は、やがて再臨によって実現するのではなく、すでにイエスさまの十字架によって訪れているのです。それを認識するか否かに、かかっているのです。
神の国を具現化するために、最も重要なこと、それが「聖さん式」です。聖さん式は人類の宗教の根源である「供儀の文化」と「供養の文化」を、神の手に取り戻す、重要な武器です。本来は神に属する真理が悪魔に奪われているからです。
悪魔は自分にいけにえを捧げさせ、暗闇の王国と結び、食べ物に悪い影響を与えて働いています。神との交わりを回復する手法を、悪魔に奪われているのです。しかし聖さん式は、それらを一挙に取り返す、強力な武器でもあるのです。
イエスさまはある時、ご自分の発言で、多くの支持者を失いました。どんな発言であったのかと言うと、
『だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きる。』
それに続いて、
『人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』
と語られたからです。
どうでしょうか。信頼している師匠が、目の前で「わたしの肉を食べて血を飲まなかったら、いのちはない。」と言ったら、付いて行けますか?たぶん付いていけないと思います。
イエスさまは多くの支持者を失ったのです。これは何を意味していたのでしょう。やがてご自分がかかられる、十字架の奥義を意味していました。
「わたしの肉を食べ血を飲む」とは、人類の根源にある、悪魔に奪われた結び目の奪還です。それが聖さん式です。
『感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」すから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』(コリント人への手紙 第一 十一章二十四〜二十六節)
聖さん式での「主の死を告げ知らせる」とは、「イエスさまは死なれた!」という宣言です。まさしく死の霊を打ち破る宣言です。
聖さん式のただ中に、最も重要な十字架の奥義が、秘められているのです。
昨日聞いたのですが、日本には八千の教会が今まであったのですが、コロナの影響で二千の教会が閉鎖され、六千くらいになったそうです。韓国には数万の教会があったのですが、一万の教会が消えたそうです。アメリカも一万ぐらいの教会が閉鎖されたのではないかと言われました。
日本では二千軒の教会がなくなったと言うのです。それが本当ならば、大きなダメージです。しかし一つ言えることは、教会から、愛さん会はなくなり、聖さん式も著しく減少したと言う事実です。「感染するから危ない!やめたほうがいい!」と言われて、ストップしました。今でも、聖さん式が回復した教会はあまり多くないと思われます。これは悪魔の策略です。聖さん式は、天の教会と地の教会が一つになる、キリストのからだ全体の贖いの宣言です。それが奪われたら、教会は戦えません。私たちが集まって、聖さん式を行うのは、重要な神の真理に他ならないのです。
今日の聖さん式は、
『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』
というエデンの園の回復を宣言しましょう。
一言お祈りして、聖さん式に入りたいと思います。
天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。イエスさまの十字架によって、今、エデンの園が回復していることを宣言します。神の国がすでに訪れていることを宣言します。私たちが呼び求めるときだけでなく、呼ばないうちに答え、語っているうちに聞いて下さい。
人類が動物や人の命を悪魔にささげた罪を赦してください。また、食べ物を悪魔に渡した罪も赦してください。それらすべての悪い影響は、取り去られて、神の国が実現しますように。ここにあるパンとブドウのジュースを祝福してください。神の国の実現のために用いてください。尊いイエスさまのみ名によって、聖さん式を始めます。アーメン。