〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
聖餐式礼拝「主イエスの十字架と奥義」

しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。

アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。

創世記 4章2~4節』

 

結論から言うと、「超越的な世界と人間をつなぐ媒体として、動物とか穀物が使われた。」ということです。

なぜ、こんなことを人類は始めたのでしょうか。創世記の記録のように、アダムとエバの時代から始まりました。それには相当、大きな意味があるということです。

なぜ動物が使われたのか。それは、

 

「動物は罪を犯さないゆえに生贄として人の身代わりに死ぬことができた」

 

ということです。人は罪深いけれど、動物って、罪を犯さないですよね。それで、人の身代わりに、生贄となった悲しい歴史が動物史にはあるのです。

 

エデンの園を訪問出来たらいいと思いませんか?エデンの園は、人も動物も植物も、何もかも、麗しく調和していた場所でした。

そして何よりもエデンの園が、現代と全く違う環境であったのは、「聖なる神が、人類や他の被造物と一緒に重なって住まわれていた」という点にあります。聖なる神が、被造物全体と常に、過ごしておられたのです。

 

私たちは空気を吸って生きています。しかし空気を常に意識していますか。普通は、あまり意識しないです。空気を得るために、「主よ!今日も空気を与えてください!」と祈る人はほとんどいないと思います。空気は常にあって、普通に呼吸しています。

エデンの園とは、神がすべての被造物と共に住まわれていて、それは空気のように普通だったのです。

そんな世界を体験してみたいですよね。

 

現代社会は、神が共にいてくれそうで、常にはおられないです。人が神と共に過ごすためには、それなりの努力が必要です。

先週、あなたはどのぐらい祈りましたか?どのぐらい、みことばを読みましたか?また、賛美しましたか?それらはみな、神と結びつくための「結び目」レリジオです。堅く神と結びつきたかったら、信仰が必要なわけです。しかしエデンの園は、別に、信仰がなくても、苦労しなくても、神が被造物と共にあったのです。

しかし、はじめの人間、アダムとエバが罪を犯したゆえに、「神との断絶」が生じたわけです。今までは神が共に住んでいたのに、断絶し、神の世界に手が届かなくなったわけです。ショックですよね。

 

家内のことばかり話して恐縮ですが、私は四十七年間彼女と過ごしましたから、私にとって彼女は、空気みたいな存在でした。一緒にいるのが当然でした。しかし亡くなってからは、空気が無くなったかのようです。結婚されている方々は、どちらかが、私の体験をしますから覚悟しておいてくださいね。やはり長く過ごしていた存在がいなくなるのは、大変なことです。

エデンの園では、祈りは必要なかったはずです。なぜなら別に祈らなくても、神は全てを知って、全てを備えられたからです。

人にとっても、他の被造物にとっても、別に、神を意識することもなく、それが普通の環境でした。必要のすべてが整えられていたのです。しかし罪によって、人はエデンの園から追い出されでしまったのです。

 

ではどうしたらいいのか・・・。途方に暮れた人類に、神は交わりを回復する方法を教えたのです。それが何かというと、先ほども触れましたが、「罪のない動物の命を差し出す」という方法でした。罪のない動物の命を橋渡しにして、人と神が交わる方法を、神ご自身が人に教えたのです。

 

新約聖書において、バプテスマのヨハネがイエスさまを認識したときに、

 

『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』

 

と叫びました。ヨハネはイエスさまのことをなぜ、「子羊」と呼んだのかというと、罪のないイエスさまは、ご自身を生け贄として、人類に与えられたからです。イエスさまが十字架で死なれた意味を、人類史の原点から見ると、その理由が分かります。

エデンの園において、聖なる神と、人類、被造物が一致していたのが、罪とサタンの働きによって断絶したのです。しかしイエスさまが十字架において「子羊」となってくださった故に、もう一度、人も被造物もエデンの園に帰れるのです。エデンの園の回復、それが、十字架に隠されている奥義です。

 

悪魔もこの法則をうまく利用して、人類を自分に引き寄せています。後からも話したいと思うのですが、罪ある世界と悪魔の国をどうやって結ぶのか、それは、人や動物の命を通して結ぶのです。これは神が聖なる世界と人を結び合わせるため教えた原理・原則の逆利用です。

 

宗教を詳しく調べると、動物供儀があると言いましたけれど、大きく二つに分けることができると言われます。世界を二分する宗教文化は、「供儀の文化」と「供養の文化」にあると言われます。「供儀の文化」とは、動物の命を差し出す宗教文化です。

しかしもう一つ「供養の文化」は、一般的に東洋的な宗教文化です。旧約聖書を読むと、「供犠」に関する儀式は多く出てきます。では、供養の文化と何でしょうか。すぐに日本人は先祖供養を思い浮かべますが、供養という世界観は、「偶像に香、華、燈明、また飲食などの供物を捧げること」と定義されます。

日本では、動物を殺したりするのは好きではありません。その代わりに、飲食の供物です。仏教の法事が終わったら、必ず、食事会があります。また神道の祭りが終わったら「直会」と言って、食事会があるのです。食事にどういう意味があるのか、それは、神々に捧げられたものを食べて、神威を獲得する為の儀式です。

 

ある宗教学者が、「供養の文化」を、「食を通して、神と人との連続性を保ち、神々が顕在化する儀式」と定義しました。

新型コロナで何を失ったかというと、「共食」を失ったと言われます。共に食する文化が失われて、孤食というか独食というか、一人で黙々と食べるようになりました。食事中に声を出さないように、仕切られた空間で独食するのが習慣化しています。本来、食事とは共食であり、重要な宗教文化の現れでした。

 

「供養の文化」も結局、神が与えた交わりを、悪魔が奪っているのです。

今日は聖さん式礼拝です。本来、共に食するのは、神が来てくださる重要な方法です。礼拝が終わった後にカレーを食べながらの交わりは、ただ単に、食べるだけに終わらないのです。食卓に主がおられるという、霊的法則と共にあるのです。

 

最近、聖さん式が教会から消えていると危惧されています。本来、聖さん式は、世界の根源を悪魔の手から奪い返す大きな戦いの武器です。神から離れた人類に回復を与える、重要な法則です。家族が集まって祈り、食事をすることは大切です。私なんか、毎日、独食です。家族があったら、一緒に集まって、感謝の祈りをして下さい。

 

かつてドイツに、ディートリヒ・ボンヘッファーという牧師がいました。彼は有名なキリスト教神学者の一人でしたが、第二次世界大戦中にヒトラーの政策に反対して捕えられ、ドイツ降伏の直前の一九四五年四月に、強制収容所の中で刑死しました。

彼はパウロのように「獄中書簡」を書いています。彼は神学書を、ナチの収容所で書いています。大きな苦しみの中で、神と向い合い、啓示を記しています。

一般的にキリスト者と教会は、どういう形で神と向き合っているのかについて、彼はこう語っています。

 

「人はこの成人した世界に向かって、世界は『神』という後見人なしには生きられないということを証明しようと試みている。」

 

教会で教えることは何でしょうか。神という後見人、すなわち、人類に神がいなかったら、生きられない!ということを、強調します。

皆さんの生活の中から、神さまを除いたら、生きることはできますか?私ならば、生きることはできないですね。人生の中から、イエスさまを除いたら、生きられないです。私も常に、人は神なしには生きられないことを証明しようと努力しています。

しかしボンヘッファーは、獄中で、どう感じたのかと言うと、「真に成熟した社会とは、神がいない世界である」と言うのです。この人は何を言っているんだ?という感じですが、彼はこう語っています。

 

「神の前で神と共に、われわれは神なしに生きる。…ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助けるのである。キリストの助けは彼の全能によってではなく、彼の弱さと苦難による。」

 

「神とともに、我々は神なしに生きる。」と語っています。何を意味しているのかと言うと、エデンの園だと思います。先ほども語りましたが、エデンの園ではアダムとエバと他の被造物は、常に神とともにあり、ある意味、神なしに生きていたわけです。神さまがともにおられるのは、当然であり、ごく自然の状態でした。空気を吸っているのが普通であるのと同じように、神が共にいてくれるのを、わざわざ強調するまでもなく、「神さま、助けに来てください!」という祈りも必要ありませんでした。人は本来、その世界を求めなくてはいけないと言うわけです。それは「神の国を求める」ことです。

私たちは毎日、「・・・今週は悪いことが起こっちゃった。祈りが足らなかったんだね・・・。神さまとの交わりが足らなかったのかなぁ・・・。聖書読むのが少なかったからかな・・・。詩篇の短いところでごまかしたからかな・・。」みたいに考えます。しかし、神がおられるのが当然の世界に生きることを求めなければならないのです。

 

私たちは常に力強い神を求めます。ボンヘッファーは獄中で、多分、ナチスからの解放を求めて、「全能の神よ。私たちを助け出してください!」と祈ったことでしょう。しかし奇跡は起こりませんでした。

そこで気づかされたのは、「キリストの助けは、彼の全能によってではなく、彼の弱さと苦難による」という真理でした。

人類の救いは、イエスさまが最も弱くなったことによって、実現した事に気づかされたのです。彼の人生の中で、最も苦しい収容所の中で、苦しみこそ、神の助けの場所であることに、気づかされたわけです。

 

『キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。』(コリント人への手紙 第二 十三章四節)

 

断絶した神との関係を、十字架によって結び合わせてくださったのは、神の全能の力によってではなく、弱さの極み、死を通して、橋渡ししてくださったのです。

時に人生の中で弱さを覚える事があります。なぜ神は、私を助けてくれないんだ・・。どうして祈りが答えられないのか!神が全能ならば敵を一掃して、俺を助けてくれ!・・・なんか私の気持ちみたいですが・・・。

しかし神はそのような形で私たちを助けるのではなくて、弱さを通して助けてくださるのです。ときに体験する弱さを通して、私たちも、助けを受け取ることができるのです。イエスさまの十字架は、実に、弱さの極みでした。

こうして見ますと、イエスさまの十字架の意味が、ただ単なる「私の罪の身代わりとなってくれてありがとう!」みたいな、ヒューマニズム的なものではなくて、人類史全体を包括する救済計画であったことがわかります。

 

イザヤ書六十五章十七〜二十五節、ここにはすごいことが預言されています。家に帰ったらじっくりと、読んでいただくといいと思います。

 

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。

だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。

わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。