〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
時を悟ろう。 〜’92年7月9日(木)をふり返りつつ〜

2023年7月2日(日)新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書16章2〜3節

『イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。』

ハレルヤ!恵まれた賛美を心から感謝します。七月は、新城教会にとって記念すべき、特別な月です。この月に、心から主を求めたいと願っています。
隣の方に、「力の限り主を求めましょう!」と声をかけて下さい!

一九九二年のことでした。九三年は甲子園ミッションを目の前にして、日本全体がリバイバルを求めて立ち上がった年でもありました。聖霊の波が教会に強く押し寄せて、特別な年となりました。二月十三日、愛知県民の森で激しく聖霊が訪れて、その後、主を求める祈りが止まらなくなりました。私も、時間があれば、祈るような生活に変えられました。
祈りとは、無理に祈るものではないと思います。聖霊がこられると、湧き上がる祈りへの思いが押し寄せます。祈りへと背中を押されるのです。
九十二年は六月の終わりから、七月の今週あたり、祈りはピークに達していました。豊川の河川敷でハートフルサパーが行われて、聖霊が注がれ、素晴らしい集会となったのですが、その後も祈りが続けられました。夜になると、何も言わなくても、教育館ホールに集まって、真剣に主を求めて祈りました。特に、九十二年のこの週は、何か、押し迫るものがありました。

七月九日の早朝、その日はレッツ・プレイズという中高生の集会を控えて、近くの中高校にチラシを配布する計画が立てられていました。朝の六時ぐらいから配る計画で、早朝、五時半ぐらいに教会に集まりました。

しかしその前夜、何人かに預言的な言葉が与えられたのです。今でも預言の賜物はあります。聖書の預言とは違いますが、主の働きを補助し、支えるために、聖霊は預言的な言葉を与えるのです。
「明日は大変重要だから、真剣に祈って準備しなさい。」と語られたのです。私は少し不安になりました。その夜、少しお腹を壊していて早めに祈りを終えて寝ようと思いました。
しかし家に帰ると、家内に聖霊が注がれて、私に対して預言するのです。「明日の朝は特別なことがあるから、真剣に祈れってイエスさまが言っているよ!でも、あなたはそこから逃げている。逃げちゃいけない!」と言うのです。それは主が私に、直接語っているようでした。私は眠れなくなってしまいました。
その期間、両親はブラジルに行っていて、隣の牧師館には二人の女性スタッフが留守番として泊まっていました。家内はその娘たちを夜中に起こして、教育館ホールで大声で祈っていました。何が起こるのか、たいへん不安になりました。

翌、七月九日の早朝、「街に出て行って、地域を支配している悪霊どもに立ち向かって祈りなさい!」と主は語られました。それは一人に預言が下ったというのではなくて、三十人ぐらいの人たち、ほとんど全員に主が語られた感じでした。
それでチームを作って、悪霊に立ち向かい祈るために、出て行きました。
新城市はご存知のように、神社や寺が多くあります。何百もあると思います。そしてそれらの近くに、ほとんどの学校があるのです。偶像のすぐそばに学校があるのです。
主は言われました。「あなたがたは毎年、中高生のための集会を行っているけれど、あまり集まらないでしょう。なぜかと言うと、近くにある偶像を通して、悪霊どもが覆いをかけているからです。悪魔に立ち向かい、霊的覆いを取り去る祈りをしなさい。」と語られたのです。そんなことってあるのかな?と私は疑問でした。
私はこの町に長いこと住んでいて、偶像は風景の一部に過ぎず、悪魔どもが働いているなんて、あまり考えていませんでした。しかしその朝、チラシを配る前に、強い霊的圧迫を感じました。悪霊どもが私たちに挑戦している感覚を覚えました。
しかし祈り始めた途端、上から聖霊注がれて、体に鎧がついたような感じでした。昔そんなコマーシャルがありましたが、天の武具が降りてきて体にはまったようでした。そして気がついたら、腹のどん底から、悪魔に立ち向かって祈っている自分がいました。
びっくりしました。私は日頃、冷静な男だと思っていたのですが、そのときは祈りが沸き上がってきて、止まらなかったです。何が起こったんだろうか・・・と戸惑いました。
祈りとチラシ配布を終えて教会に帰ったら、全員が同じ体験をしていました。ある場所に着いたら、突然、悪霊どもと戦う祈りが自然に湧いて来た、と言うわけです。

九二年七月九日の早朝、朝の六時頃から、地域に対する霊的戦いが始まったのです。それまで私は悪霊どもが地域を支配しているなんて、考えてもみませんでした。
日本は、町ごとに悪霊が支配していて、人々に覆いをかけて福音から遠ざけている事を教えられました。リバイバルの為には、まずは覆いを取らなくてはいけない!と気づかされたのです。

新城教会、今年で七十年の歴史があります。長きに渡ってこの地域で伝道しています。その間、イエスさまを信じた方も多くおられますが、地域住民の人口と比べたら、本当に少ないです。
教会って、本当に素晴らしい場所だと思いませんか。ゆりかごから墓場まで、みんなで主を賛美して、お互いに愛し合い、助け合って生きる組織、他にはどこにもありません。
しかし人々は教会には来ないのです。どこに原因があるのでしょうか。それは、「覆いがかかっているから」というわけです。

いつも話すのですが、大きな毛布を持ってきて、ここに広げたらどうでしょうか。いくら電気が点いていたって光は届かないです。光を届けるためには、最初に覆いを取ってから、電気を点けることです。覆いがあるのに電気を点けたって、電気量だけかかって、何の効果もないのです。
日本は全体に霊的覆いがかかっていて、明治からこのかた、宣教は、遅々として進まないのです。まずは日本の覆いを取るために戦いなさい、と主は語られました。覆いとは「この世の神、悪魔・悪霊ども」です。
その日から毎日のように、地域のために祈るようになりました。

私は、なぜ七月九日の朝六時から、そんな祈りが始まったのか理解できませんでした。たまたま七月九日に始まったのだと、思っていたのですが、その後、一つのことに気づかされて、鳥肌が立つような思いでした。
日本はいつ、歴史が大きく変わったのでしょうか。特に、キリスト教宣教に関して、大きな影響を与えたのは江戸時代だと思われます。なぜならば、江戸時代に、キリシタン大迫害が展開されたからです。どの地域にも、キリスト教禁教の高札が立てられ、キリシタンを見つけたら、数百万円の懸賞金がもらえたのです。また、五人組制度によって、互いに監視させられたのです。
江戸時代、庶民に名字はありませんでした。ファーストネームで呼ばれました。日本は氏族社会で名字があったのを、名前だけにして、知らない人同士で五人で一組にして、互いに監視させたのです。「向こう三軒両隣」という言葉がありますが、自分から一軒、二軒、三軒、左右で五人です。互いに監視させて、キリシタンにならないよう、二百数十年間、監視されたのが江戸時代です。そんな社会が二百数十年も続いたらどうですか。根絶やしにされます。
キリシタンが発見されたら、民衆の目前で公開処刑です。新城市でも、新城城の近くに処刑場があって、何人ものキリシタンが処刑されました。イエスさまは死んですぐに十字架から下ろされましたけれど、日本のキリシタンたちは、死後数日間、野ざらしにされて、「キリシタンになってみろ!こうなるぞ!」と見せしめにされたのです。怖くてキリシタンになるわけがありません。
明治時代になって、高札が撤去されても、「キリスト教だけは嫌だ!」となったわけです。これが江戸時代に起こった出来事です。

では、江戸時代は誰が始めたのでしょうか。徳川家康です。
最近、家康が、フィーチャーされています。「どうする家康」が話題になっています。
十六世紀の覇権分布は、こんな感じです。

長篠城が近くにありますけれど、そこから東が武田勝頼、西は織田信長、三河は徳川家康が覇権を争っていました。
長篠の戦いは東西の覇権をかけた大きな戦いであったのです。この分布図を見れば、よくわかります。東西二大勢力の激突でした。当時、徳川家康はそんなに勢力を拡大していなかったのですが、設楽が原の戦い以後、大きく覇権は変化しました。
それが天正三年五月二十一日に、長篠城を巡って、設楽原で起こったわけです。

その時に鉄砲が効果的に使われて、数時間の戦闘で一万六千人が倒れたと言われます。鉄砲を効果的に使い、数時間に一万数千人もが死んだ戦争は、過去にも現在にも未来にも、当時はなかったそうです。世界で初めての大量破壊兵器が使用されたのが設楽原であるとも言われています。同規模の戦死者を出す戦いは、以後、三百年後くらい起こっていないそうです。いかに設楽が原の戦いが凄惨な戦いであったのかがわかります。
先日もNHKの「どうする家康」の関連で、設楽原の戦いの現場で、鉄砲をどう使用したのかの検証実験をやっていました。火縄銃で、一発撃つと次の準備まで時間がかかるのを、どうやって連射出来たのかを検証していました。
この戦争が、世界中の戦争を変えたのです。織田信長は世界的な戦術家としても有名です。
その戦いが起こったのが、天正三年の五月二十一日だと記録されています。

しかし後に、あることに気付かされたのです。五月二十一日は、太陰暦だったのです。また当時の太陽暦はユリウス歴で、今とは暦が違いました。今のグレゴリオ暦に換算すると、なんと「一五七五年七月九日」だったのです。七月九日は、設楽が原で戦いが起こった日でした。
さらに戦いが始まったのは、記録によると「卯の刻、午前6時」でした。主は、時刻も合わせて、霊的戦いを始められたのです。すべてドンピシャでした。私は歴史に全く関心のない者でした。この地域に住んでいながら、そんな戦いがあったことさえ気づいていませんでした。
しかし何か知らないけれど、「祈らなくてはいけない!」という気持ちが高まって、七月九日の朝六時に霊的戦いが主によって始められたのです。そして遣わされた場所のほとんどが、設楽原の戦いで死んだ者たちを弔い、祀るような関連の神社とか寺でした。後にそのことを知って、鳥肌が立ちました。神さまはすべてを支配しておられるのです。

今日読んでいただきました聖書の箇所に、イエスさまがパリサイ人やサドカイ人たちに語られた言葉があります。

『「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。』

マタイの福音書十六章全体を読んでみてください。この時代、イスラエルでは、パリサイ人やサドカイ人たち、そしてイエスさまの弟子たち、民衆たちは、共に暮らしていました。しかし救い主イエスさまが登場したにも関わらず、宗教家であるはずのパリサイ人やサドカイ人は、目の前にいるメシアを認めることができず、やがて十字架につけて殺してしまいました。
しかし、イエスさまの弟子たちと民衆たちは、時のしるしを見分けたのです。「この方こそ、救い主メシアだ!」と気づいたのです。マタイの福音書六章十五〜十六節、

『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」』

弟子達は時を見分けて、救い主であると悟っていたわけです。その後、

『わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。』

教会について、イエスさまの十字架と復活についての預言もあります。そして最終的には、マタイの福音書十六章二十八節、

『まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。』