2024年4月14日(日)新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書 27章50~52節
“しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。”
ハレルヤ!
安武さんの演奏、素晴らしかったすね。鳥肌が立つほどでした。
今朝、礼拝が始まる前に、「召天者記念会」が行われました。毎年あるのですが、昨年から、家内もその中に入っていて、複雑な思いで司式をさせていただいております。しかし、キリスト教とは、「復活」が中心にある宗教です。イエスさまが死から復活されたというのがメイン・テーマです。さらに、イエスさまを中心として考えるならば、「復活」よりも、むしろ死が中心です。それは死に対する勝利の宗教と呼ぶことができます。
死を中心に成り立つ勝利の宗教なんて、世界中、どこにもありません。死は誰にとっても敗北だからです。しかしキリスト教は、死が武器となって、敗北の極みである死を打ち破ったというメッセージが中心です。
今日読んでいただきました聖書箇所は、前回も引用させていただいた箇所です。イエスさまが十字架で霊を父なる神さまに渡された瞬間に起こった出来事です。それは神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が揺れ動いて、岩が裂けて、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返ったからです。
私たちは、イエスさまが復活したから救われたのではなく、死なれたから、救われたのです。死によって生きる。すごいことではないでしょうか。
『墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。』
イエスさまが十字架についた場所の近くに、大きな墓場があります。ここに葬られていた、旧約時代の人たちが復活したのです。イスラエルは暑く、乾燥した地域です。死者が葬られると、やがて骨はボロボロになり、粉々に砕けます。そんな墓が地震で開いて、その中から、多くの聖なる人々が復活したというのです。もしもこれが嘘なら、教会を今すぐ解散した方がいいです。こんなめちゃくちゃを言う宗教に身を置かない方がいいです。しかしもしも本当だったら、すごいことです。これこそ大きな希望です。
新城教会は今年で七十四年の歴史です。その間に、天に帰られた人たちは、三、四百人に及びます。
納骨堂には二百名ぐらいはお入りになっていると思います。
イエスさまが十字架で死なれた瞬間に、墓場から人々が出てきたわけです。我々に置き換えたら、納骨堂から二百名ぐらいの人たちが飛び出したことになります。信じられないです。
と言うことは、納骨堂は教会施設の中で、最も大切な場所なのです。
葬式・召天式の目的は何か。それは、故人がどのような死後の世界を選択したのかを、参列者と、死後の世界に宣言する、人生最後にして最大のイベントです。時間軸の未来に、あなたの葬式があります、と指差す私の三本指は自分に向いています。
死を痛み悲しむ思いは誰にでもあります。しかしその後行われる葬式は、たいへん重要な行事です。それは人生最後の、自分自身が主役となって開催する、一大イベントだからです。「私はこのような死後の世界を選びました!」と参列者に無言で呼びかけ、宣言する会なのです。
教会で葬式をやるとは、「私は聖書が告げる死後の世界を選択しました!」ということです。
また毎年行われる、召天者記念会は、故人がどのような死後の世界を選択したのかを、確認する集いです。
今日も二百名近くの方々が映し出されたでしょうか。皆、生きている内に、聖書の死後の世界観をしっかりと受け取った方たちでした。
聖書の中に大変有名な箇所があります。それはルカの福音書十六章十九節〜二十一節です。
“ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。”
これはイエスさまが語られた実話です。この前後を読みますと、イエスさまが語られた例え話がいくつも出てきます。それゆえにこの箇所も、例え話だと言う人がいます。しかしここでは、『ある金持ちがいた。』と断言されています。そして金持ちの服装までレポートされています。『紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。』と。生活スタイルまでも詳細に告げられました。そんな男が、歴史上に、実際にいたのです。
この話は、パリサイ人たちに対して語られた話です。イスラエルには、当時、「サンヘドリン」という議会があって、「パリサイ派」と「サドカイ派」という二大派閥がありました。派閥同士は不仲でしたが、イエスさまを訴える件に関しては、両派は一致していました。
この話は、イエスさまが、パリサイ派の人たちに対して語ったものです。しかしその内容は、サドカイ派の人たちについてでした。当時の人たちは、「紫の衣」、「金持ち」、「贅沢三昧」と聞いたら、「サドカイ人だ!」と、すぐにピンッときたわけです。
パリサイ派は、イエスさまに敵対していて、普通ならば話しても、興味深く聞くはずはないのです。
しかしイエスさまは、本当に知恵があります。パリサイ人に、サドカイ人たちを題材に話したのです。パリサイ派はサドカイ派と敵対していますから、話を興味深く聞いたわけです。
そしてその内容は、パリサイ派が肯定する「死後の世界はあります!」という話でした。
サドカイ派はユダヤ人ですが、特徴がありました。彼らはエルサレムの最上流階級で、死者の復活を否定していたのです。「魂は死後滅亡する!」と主張していました。また、霊的世界の存在、み使いや悪霊とかも否定し、ローマ帝国の手先となって、膨大な利益を得ていた人たちでした。しかしパリサイ派はその逆で、庶民に受け入れられていました。
サドカイ派の人たちを題材にしたこの話は、パリサイ派の人たちに、しっかりと届いたはずです。
この話の登場人物は、金持ちと、もう一人、門前にいたラザロという、できものだらけの貧しい男でした。
“しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。”
どんなにお金があっても、貧しくても、行き着く先は、やはり死です。
ラザロの葬式がなされたかどうかはわかりません。しかし金持ちは「葬られた」とありますから、葬式があったはずです。
ここまでは誰でも同じですが、イエスさまは、死後の世界についても語ったわけです。
ラザロは死んだけれども、『御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。』・・これは神の国のことです。
金持ちはどこに行ったのか・・。それにも言及しています。
“金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。”
パリサイ派の人たちは、死後の世界を信じていました。サドカイ派の男が救われずに、黄泉に行ったという話ですから、彼らにとっては痛快な話で、心動かされたに違いないわけです。
しかし同時に、この記述は、私たちにも当てはまる世界です。
ラザロが行ったのは、「神の国」、天国でした。しかし金持ちは、ハデスに行ったのです。イエスさまは、二つの世界が死後にある事を告げられたのです。
サドカイ派の人たちは死後は、「すべてが終わる」と考えでいました。何をやっても、死んだらすべてが消えてしまうわけですから、こんな虚しいことありません。
日本では仏教の葬式が最も多いです。仏教式の葬式は、輪廻転生を基本とします。それは、「私は輪廻の道を選びました!」という、宣言の式です。
仏教の死後の世界観をご存知でしょうか。「輪廻六道」と言って、ロシアン・ルーレットのようです。死後は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」をぐるぐる回るわけです。
人間界から出たら、ルーレットのように、残りの五つのどこかに生まれ変わるというのが仏教の教えです。そこには「天」という領域もありますが、仏教の「天」は人間界よりは多少マシらしいですが、苦しみもあるというのです。
地獄とか餓鬼だとか畜生の世界に入ったら、ゴキブリにもなり得ます。もしもゴキブリホイホイ地獄にかかって、その後、修羅場に行ったら最悪です。
神道とか儒教は、先祖の霊に加わって、憑依するという考えです。五代先ぐらいになると、家族・親族の敵となります。悪いことが起こって、霊能者に聞けば言われることは一つです。日本にも霊能者がいっぱいいます。韓国に行けばムダンという霊能者が山ほどいます。家で悪いことが起こって、どうしてですか?と霊能者に聞けば、言われることはただ一つ「あんたの先祖が祟っている。先祖供養をちゃんとしていないでしょう。」と言われます。韓国なら「チェサをちゃんとしていないでしょう。だからこういうことが起きるんですよ!」と言われます。先祖は、家族・親族の敵となるのです。こんな世界も冗談じゃないです。もしも死後の世界から、地上に関わるチャンスがあったら、私ならば、何とか地上の人たちを幸せにしたい!と願い、働きます。しかし神道とか儒教で死んだら、ここに行くしかないです。
新城教会はカトリック教会ではありません。プロテスタント教会です。
カトリックの死後の世界は、プロテスタント教会とは全く違います。天国に行くために、まずは煉獄に行って、何万年も罪滅ぼしをしなければなりません。聖書の教えは天国と地獄の二つだけです。しかしカトリック教会は聖書にはない、煉獄という世界を挟んだのです。地獄に行ったら二度と出られないけれど、煉獄は罪滅ぼしさえしたら、やがて天国に行けるかもしれない・・、と教えます。一説によると、煉獄から天国へ脱出するには、百万年ぐらいかかるとも言われます。
カトリック教会の葬式では、遺族の友人は入口のドアでカードを手渡されます。そこに書かれている祈りを読み上げて、イエズスにこの死者の魂にあわれみをかけ、煉獄に投獄されているその魂を、煉獄の食い尽くす火から早く解放してくれるようにと頼む式なのです。だからプロテスタントの葬式とは全く違うのです。「天国に関する賛美歌が歌われることはない。また、司祭から遺族への慰めの説教や言葉もない。なぜなら葬儀全体の目的が、神をなだめるためだからです。
さて、聖書が教える死後の世界はどうでしょうか。
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。”(ヨハネの福音書十四章六節)
聖書の教えは、「死後、直接、神の国に入り、家族とともに幸せに生きる!」というものです。本当に素晴らしいです。
誰でもやがて迎える死、死後、どの道を歩むのかを、しっかりと、先に決定づけなくてはいけないのです。
イエスさまは、サドカイ人が死後の世界を信じていなかったので、それを題材にして、パリサイ人に語ったのが、金持ちとラザロのストーリーです。
黙示録十四章十三節にこんな言葉があります。
“また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」”
現代の教会は、黙示録を、未来の預言書だけのように考えているのですが、実際は、紀元九十年ぐらいに、迫害のただ中で苦しんでいるクリスチャンに対する希望の書として記されたものです。それが黙示録の一義的な目的です。彼らはこの書を読んで、本当に励まされたのです。
日々仲間が迫害され、殉教する中、ヨハネはイエスさまからの言葉を伝えたのです。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』と。それは、殉教が差し迫っている者に対して、希望の言葉でした。
『幸いである。』これは「幸せだ」ということですが、先週も学びましたけれど、ギリシャ語だと「マカリオス」という言葉が使われています。それはただの幸せではなく、神の国の至福の状態だと言うのです。地上とは比べることができないほどの、至福の状態が待っているのです。
そして『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。』当時のクリスチャンたちは迫害されて、毎日、苦しんでいました。しかしそのような労苦から解き放たれます!と告げています。そして彼らの行いは、彼らについて行くのですと、地上の働きが死後にも受け継がれると約束しています。その人の働きは評価されるのです。
評価されずに地上から去っていく人たちも多くいます。しかし神は公平なお方です。私たちのすべての働きに、評価を与えてくださいます。