大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
見よ! 墓が開いて人々のからだが生き返った!

詩篇百十六篇十五節には、

“主の聖徒たちの死は主の目に尊い。”
英語では、”Precious in the sight of the Lord is the death of His saints.”

英語と日本語の表現は、微妙に違います。「神さまの目に尊いこと」は何か、それは「聖徒たちの死だ」となっています。

“私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。”(ピリピ人への手紙一章二十一節)

とパウロも語っています。
そしてヘブル人への手紙十二章一節、

“こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。”

私はこの箇所を頻繁に引用しています。天に帰った人たちは現在、どのような状態にあるのか、それは、雲のように私たちを取り巻いて応援しているのです。
地上の働きは競技のようなもので、忍耐が必要です。しかし彼らが応援しているから、自分の競技を忍耐を持って走り続けろ!と励ましているわけです。
今日も天に帰った兄弟姉妹は、私たちのことを覚えて励ましています。天国は天国で、一つの社会と宇宙があって、地球は地球で、宇宙があるみたいに考えてしまうのですが、そうではないのです。神の国と地上は繋がっていて、彼らは神の前に、とりなし祈っているのです。

召天者記念会は春に行われます。桜が咲く季節になると、「復活祭が来るなぁ・・。召天者記念会があるなぁ・・。」と思います。最近、桜が綺麗に咲いています。
桜って、日本人には侘しさ、悲しさを覚えるようです。有名な桜にまつわる俳句。
「散る桜、残る桜も 散る桜」・・この句、誰が詠んだのかというと、江戸末期の僧侶、良寛の辞世の句とも言われています。特に、太平洋戦争の特攻隊が遺書に書き記したことでも知られています。
神が造られた桜を、日本人は悪用して、「人は生まれたらどうせ死ぬのだから、国のために散って行け!」と、若者たちが国の犠牲となったわけです。日本人が見る桜の世界観は死です。
しかし私たちクリスチャンは、桜を見ても、そうは感じません。桜は散っても、毎年、満開になるではないですか。どこにそんな力が備わっているのでしょうか。誰かが指示するわけでもないのに、ちゃんと適切な時期を判断して咲くわけです。この背後のメカニズムはすごいらしいです。桜は知性を持っていて、他の桜とも通信しながら、「そっちはどうだ?いつ咲かせたらいいかな・・?今年の天候はこんな感じで、気温もこんな感じだし、いつにしよう・・・。」みたいな、コミュニケーションをしているそうです。散っても、必ず次の年、定期便のように復活するではないですか。これを見るだけで神がおられることと、復活も信じることができます。

“イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。”(ヨハネの福音書十一章二十五節)

仏教の死後の世界と、聖書の死後の世界、全く違うことがよくわかります。

先週、梅の花が咲いている場所に行きました。新城市内ですがすごく綺麗でした。
行ってみたら、ちょっと寂しかったです。三年前、この道を歩いていたのは家内でした。でも今年はいないです。三年前ここで記念撮影したなぁ・・。どこに行っても思い出があり、逃れ場がないです。でもクリスチャンでよかったと思いました。私たちは「死んでも生きるからです」。家内は消えてしまったわけでもない。先祖の霊となって祟る存在になったわけでもない。煉獄に行ったわけでもない。今は永遠の国で応援団として連なっています。私たちを応援する仲間が、本当に多くなりました。
日頃、様々なことがあるかもしれませんけれど、天に帰った人たちは、私たちを真剣に応援しています。

初代教会では、毎週の礼拝が死んだ人たちを覚える場でもあったと言うのです。なぜなら、迫害の時代、教会は毎週のように殉教者を出していました。しかし聖餐式において、主の死を覚えると同時に、主にあって死んだ人々を思い起こしたと言うのです。
毎週、天に帰った兄弟姉妹を思い出し、「主の祭壇で出会おう!」という合言葉がありました。礼拝が地上だけでなく、天にも繋がっていて、先に天に帰った人々は、天使たちとともに、神を礼拝しているからです。
天に帰った兄弟姉妹も、一緒に礼拝している事を忘れてはなりません。
彼らは天で何を考えているのか。「天国いいとこ一度はおいでよ」みたいな、ピクニックではないのです。

以前も紹介しましたけれど、聖歌二〇一番の「キリスト・イェスを基として」という賛美は、天と地の状態を見事に表しています。

「この世と天(あめ)に別れ住めど
み民は聖き神にありて
共に交わり 共に待てり
キリストイェスの来る日をば」

天に帰った兄弟姉妹は、離れているようだけど、神の国という共有の空間で、知らないうちに交わっていると言うのです。そして「共に待っている」・・・イエスさまが帰ってくる日を、私たちは共に待っているのです。

真剣に再臨を祈らなければいけない時代になりました。つい最近、台湾で大きな地震がありました。台湾と日本の地下は繋がっています。いつ何どき、大きな地震がさらに日本を襲うのか、予測できないです。祈るしかありません。
戦争の噂や民族紛争、これは噂どころか、現実になっています。イスラエルの戦争も、イランとの戦争に発展しました。日本人は平和ボケしていて、「遠いからいいや」みたいに思っているかもしれませんけれど、イランとの直接戦争は世界大戦につながる危険性があります。本当に緊張する今日この頃です。
世界には問題が山積みです。しかし解決の方法はただ一つです。それはイエスさまが王となって、この地上に帰ってきてくださることです。それしか解決はないです。
日本国民は問題解決を岸田さんに託しましたが、今や支持率は最低だと言われます。アメリカ人はバイデンさんに託しましたけれど、バイデンさんも問題があるようです。次はトランプさんに託したい人も多いようです。それがジョーカーなのか、エースなのかわかりません。世界に何が起こるのか予測がつかないです。誰がリーダーになっても無理です。皆さんもよくわかると思います。天地宇宙を造られた神が、「人間の歴史はこれで終了!」と言って、下りてくださらないと、解決はつかないです。そのことを祈り、待ち望まなければいけないのです。「来てください!」と、真剣に祈らなければいけないです。

“これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。”(ヨハネの黙示録二十二章二十節)

イエスさまは早く帰りたいと願っておられるみたいです。でも地上が真剣に求めないと帰れないのです。これは、天に帰った人たちと共有した祈りです。それを認識しないと、イエスさまは、なかなか帰ってこられないのではないでしょうか。

最後にここを読んで終わりにしたいと思います。

“私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(テサロニケ人への手紙 第一 四章十五~十七節)

これは主が語られたことばとして、パウロがテサロニケの人たちに伝えました。イエスさまが帰ってこられる日、ラッパが響くと言うのです。今日はラッパが響いています。礼拝の後、もう一度、ラッパを吹いてもらいます。サクソフォンはラッパの一種です。イエスさまのお帰りのラッパとして、今からの演奏を聞いていただきたいです。
その時、第一に、キリストにある死者が復活します。次に、私たちが生き残っていたら、瞬間に栄光のからだに変えられて、空中で主と出会うのです。
使徒たちの時代、グノーシスによって物質界と「空中」は、悪魔の創造物だと教えられ、多くの人たちがその影響を受けていました。しかしこの箇所は、空中および、物質の世界で、見える形でイエスさまと出会うと告げています。
「会う」という言葉は、「アパンテシス」が使われているのですが、当時のギリシャの世界観が最近、明らかになって、アパンテシスの意味は、
「クリスチャンが主イエスを王として迎えに行き、共に地上に戻って来るという意味」だというのです。クリスチャンだけが突然、消えてしまうという意味ではないのです。空中で主と会うとは、クリスチャンがイエスさまを迎えて、地上に復活した人たちと一緒に、永遠が始まる瞬間だというのです。それがラッパの響きとともに始まるのです。

用意はいいですか。今からラッパの音が響きます。主が帰って来られる再臨のラッパとして、祈りつつ、安武さんの演奏をお聴き下さい。
最後に一言お祈りして、演奏を聴きたいと思います。

天の父なる神さま、み名を崇めて心から感謝します。近い将来、このみことばが実現することを信じます。今からラッパの響きを体験できることを感謝します。この響きが、み使いが吹き鳴らす響きと重なりますように。

心から感謝して、天の会衆とともに、み名をほめたたえて祈ります。アーメン。