それゆえ、主がさらに彼らを乏しくさせています。『露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。』とある通りです。本当に厳しい叱責であり、これを今の私たち一人ひとりの現状に当てはめるとしたら、読みとばしたくなるような箇所かもしれません。

主が何を叱責しておられるか。整理していきたいと思います。主の宮のことよりも人間的、地上的な事を優先しているということです。彼らも生きていくことに必死であり、得るものを得ないといけないという言い分があったでしょう。しかし結果として主の宮のことを先送りにし、優先順位を下げたことにより、更に主によって自分たちが得るものが減らされているという現状がありました。

 

この記事を見て、新約聖書のある聖句が思い起こされるのではないかと思います。マタイの福音書六章三十三節です。

 

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 

優先順位がどこにあるか考えなければなりません。

私たちも信仰を持ち、高らかに賛美をささげ、祈ります。時に主に様々なことを求めますが、何が第一となっているでしょうか。私を含め点検しなければなりません。主ご自身が、「あなたがたの現状をよく考えよ」と、ハガイを通して、当時の民に、また私たち一人ひとりに語られています。自分たちに必要な「物」、「事」があります。「今これは必死でやらなきゃいけないでしょ!」それは当然あると思います。しかし主の前に、その通り持ち出していってみてください。その時に主が何とおっしゃるかだと思います。主が「その通り!それに励め!」と言われれば、それでいいです。しかし、そうでないとしたら、私たちにこの厳しい叱責のことばを当てはめて考えなければいけないと思います。自分たちに必要なものを得たいと思うならなおさら、神の国とその義を第一にする。これがみことばの奥義。私たちの信仰の在り方です。これは私の言葉でも、ハガイの言葉でもありません。主の言葉です。

 

この言葉を受けて、イスラエルの当時の民はどのように反応したか。十二節以降に書かれております。

 

『そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。‐‐主の御告げ‐‐」主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。それは第六の月の二十四日のことであった。』

 

ご覧の通り、彼らはここで、ハガイを通して語られた主の言葉に反発するのではなく、しっかりと従うことができました。そして「民は主の前で恐れた。」とあります。主を恐れた。主を第一にする心を取り戻せたということです。

そうした時に、もう一度主が、「わたしがあなたがたと共にいる」という言葉を投げかけてくださっています。そしてリーダーであるゼルバベル、ヨシュアそして民全体の心を奮い立たせてくださいました。

私たちもみことばに触れるとき、心が奮い立たなければならないのではないでしょうか。そして、主のことばに応答する心、それが何よりも大事なことではないかと思います。そして、どのような困難に直面する時でも、主のことばに聞き従い続けて、主のみこころを果たす。これがクリスチャンの地上における使命です。

 

ハガイ書と同時期に書かれたゼカリヤ書一章十二節から十六節を見ると、

 

『主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」すると主は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた。私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行った。それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。‐‐万軍の主の御告げ‐‐測りなわはエルサレムの上に張られる。』』

 

時代的背景はハガイ書と同様です。今読んだ箇所には厳しい叱責の言葉と祝福の言葉とが混ざっています。

まず十二節を見ると、『あなたがのろって、七十年になります。』とあります。私たちは、ときに悪いこと全てを悪魔のせいと考えがちですが、そうではありません。主の目にかなわないならば、主が私たちを呪うという言葉は非常に強いですが、主がそのようになすということが、書かれています。

一方で、主を愛する者、主の言葉に応答する者に関しては、「主の民」としてとことん愛を注いでくださいます。十四節には、『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。』とあります。主の民でない者には激しい怒りを持って臨まれる方です。十五節『安逸をむさぼっている諸国の民に対しては』とあります。

このように主は主の民でない者に激しく怒られます。私たちクリスチャンも主の民としてのアイデンティティをもし失うならば同様です。「あなたがたの現状をよく考えよ。」と、主が発しておられます。

 

しかし主は、叱責や恐れを与えることでとどまる方ではありません。十六節には、

 

『それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。‐‐万軍の主の御告げ‐‐測りなわはエルサレムの上に張られる。』』

 

主の民に対しては、とことん愛を注がれるのが主です。私たちの信じている神です。

 

よくある話で、新約聖書はイエスさまの記事で愛に満ち溢れている。旧約聖書は父なる神の他の民族を虐殺したり、誰かを罰したり、そういう暴力的な描写ばっかりある。ともすると、そのように聖書を読んでしまいがちですが、決してそうではありません。今もこのように読み進めていけば、誰に対して主は激しく怒られるのか。何に対して主は激しく怒られるのか。そのことがはっきりわかると思います。旧約だから、新約だからという話は、そこにはありません。

 

そして十七節、

 

『もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』』』

 

どれだけ絶望的でも、私たちがどれだけ失敗しても、もう一度主のためにと、立ち上がるなら、その民一人ひとりを見捨てることは決してなされない神です。

『もう一度叫んで言え。』という強い促しで主のことばが託されています。何度も確認しますが、誰の言葉でしょうか。今日語っている私の言葉でしょうか。違います。主の言葉です。

 

「万軍の主」という表現も繰り返し出てきます。以前、私はこのテーマでもお話ししました。私たちの信じている主は「万軍の主」なのです。そんじょそこらのリーダー、王ではない。万軍の主、主の主、王の王、天地万物すべての上におられる方です。その方のことばに従うか否かです。

現代の日本人は「王」と言う表現について実感を持って理解ができません。王制で生きたことがないからです。しかし、例えば中世の絶対王制下でこの様な主の称号に触れたとしたらどうでしょう。どれほど重く受け止められる言葉でしょうか。万軍の主、王の王が語っている言葉、一点一画、落ちることはありません。絶対の絶対なのです。

何度も繰り返しますが、主の言葉です。聖書を読むときに、主語に注意して読んでください。「主は」です。

 

時に私たちは、人生の主役が自分であるかのように生きているかもしれません。主がお一人お一人を作品としてお造りになり、自由意志を与えてくださったので、それも一つの側面としては正しいです。ただ一方で、私たちクリスチャンにとって、本当の意味での私たちの人生の主役が誰なのかを間違えてはいけません。クリスチャンはイエス・キリストの十字架によって贖われた、買い取られた主の民です。主人、主役は主ご自身です。

 

先ほど触れましたが、八月二十二日に中高生の伝道会レッツプレイズが行われました。私は初めてそこでメッセージさせていただきました。何を語らせていただこうかなとお祈りしている中で、多くのことを語っても仕方ないので、聖書の一番初めの言葉を、これだけ覚えてもらおうと思い、創世記一章一節、『はじめに神が天と地を創造した。』この箇所から短くお話しさせていただきました。

聖書の一番初めのことば。初めがあり、終わりがあるのが、私たちが今生きている世です。

そして誰がその初めを起こされたのか。神、主ご自身です。神が天と地を創造しました。これが私たちの信仰の大前提です。であるならば、造られた私たちが造られたこの地でどのように歩むのかということを考えなければなりません。

『神が天と地を創造した。』です。「私たちは神が天と地を創造するのを見た。」とか、「私たちは神が天と地を創造したと言われているのを信じました。」ではないのです。『神が天と地を創造した。』これが私たちの持つべき信仰の大前提です。主語が、「私たち」「私たち」ではなく、「神が」であるべきです。

 

自分が主役で、「自分がこれこれこうしたらこういうようになる」という考え方であると、「自分の力でなんとかできる。自分がこうしないからこうなった。」というように、因果関係が自分から発せられることになります。不安や直面している問題に対して自分でなんとかしようと。

人間なので不安や恐れを持つことは何も悪いことではないです、しかしそれに支配されるのはクリスチャンとして正しいことではありません。不安や恐れは、究極的には「自分がこうすればなんとかなるかもしれない」という高ぶりにもつながります。心配してもしょうがないから主に委ねなさい。これがクリスチャンのみことばから受け取るべき信仰の在り方です。

 

昨年二〇二一年十月に、公畑フェルナンド牧師を通して、「恐れに対する処方箋」というみことばが語られました。そのみことばも、すごく印象に残っているのですが、その一節を少しお借りします。「すべての人には恐れがあり不安があります。私には恐れや不安があるから他の人より劣っていると考えてはいけません。私たちすべての人には恐れがあるのです。ダビデの良いところは何だったでしょうか?それは彼が恐れや不安なしの人生を送ったことではありません。彼の優れた長所とは、恐れがありながらも、不安がありながらも、思い切って王の王、主の主を信頼した点にあります。」まさに今日学んでいるみことばの主題テーマとオーバーラップする内容かと思います。

 

また二週前には、瀧川充彦副牧師を通してみことばが語られました。他の民と違い、強大な敵を目の当たりにしても、主に信頼したヨシュアとカレブのように、私たちは信仰をもつべきです。瀧川先生が冒頭でいくつかの錯視の図形を紹介し、その中にありもしない三角形が見えるような図形がありました。これを不安や恐れということに置き換えて捉えてみてください。私たちは今置かれているこの現状において、余計に不安や心配に支配されていないか、ありもしない三角形を見出してないか。考える必要があると思います。

不安や恐れを持つことは何も悪いことではない。人間的に最大限の努力もする。しかし究極的に主に委ねて前に進んでいく。これが私たちの態度であるべきです。

 

今のこの時代がとてつもなく大変な時代であるのか。そのような時代になってしまったと嘆くのか否か。それは私たちの気持ち次第でもあると思います。今の時代よりも大変な時代というのは、いくらでもあったでしょう。