2022年9月18(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド
ルカの福音書24:13-21
『ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、』
ハレルヤ。感謝します。いつも私たちのために、インターナショナル部会のために祈ってくださり、本当に心から感謝します。先月、インターナショナル部会でバプテスマがありました。毎年だいたい夏休みにバプテスマの時をみんな楽しみに待っています。川に行き、バーベキューをして、交わりをみんなでしています。
でも最近はいつも台風が来たり、雨が降ったり、できなくなることが多くありました。今年は予定の二日前まで天気予報では大丈夫だと思っていたら、突然の台風が来て川でできなくなりました。十三日の土曜日でしたが、教会のプログラムもあって教会でもできませんでしたし、しかたがないと思いました。しかし、いろんな兄弟姉妹は月曜日から仕事で、どうしてもその日しかありませんでした。そこで、ある姉妹の家で、コストコで大きなプールが売っているので、それを買ってきてバプテスマしました。感謝でした。
二週間前も浜松で伝道集会をしました。かき氷パーティーという題目で行い、そこでは何人かイエスさまを受け入れて、本当に感謝でした。そして今度の土曜日、新城でアイスクリームパーティーの伝道集会もあるので、ぜひ祈ってください。
では、メッセージにいきましょう。
イエスさまの弟子二人が歩いていると、そこにイエスさまが現れたという場面です。そしてイエスさまは彼らの道のりに加わり、彼らと話を始められました。しかしイエスさまと話し始めたとき、この弟子たちは以前とは同じではなく、その言葉も、行動も、考え方も変わってしまっていました。その時、イエスさまが死なれて三日しかたっていませんでした。しかしこの二人の弟子たちには神さまに対する情熱がすでに失われたように見えます。神に対する燃える火、神への献身が失われたようでした。
私はこの記事から衝撃を受けました。なぜならこのことは私たちにも起こりうることだからです。「情熱」というのは、何日もかけて、また何ヶ月もかけて失われていくものだと私たちは考えがちです。しかしこの箇所には、たった三日過ぎただけで、この弟子たちは変わってしまったということが書かれています。情熱はすでにありませんでした。感情もなく、熱意も失われていました。そしてこの二人の弟子たちの言葉には敗北が現れ、孤立を感じさせ、恐れがありました。
私たちは気がつかないだけで、たとえイエスさまの弟子であったとしても、教会の中にあって生活しようとも、神さまの前に手を挙げて賛美をしても、私たちはすでに情熱を失っているかもしれません。
この聖書箇所は私たちに注意を促し、神さまへの情熱を失うことがないようにさせるためのものです。なぜなら、面白いことに、この二人の弟子たちは、イエスさまと共に歩み、イエスの行ったいくつもの奇跡を目撃していた人たちです。しかし、たった三日しかたっていないのにもかかわらず、彼らの内側の燃える火が消えました。彼らの考え方、言葉、行動の仕方、歩き方、生き方の何かが変わりました。
それでは今から、神さまに対する情熱を失うと、どんな結果が待ち受けているか、ご一緒に見ていきたいと思います。
一番目に、情熱を失うと、どういうことが起こるかと言うと、まず「ビジョン」が変わります。少し説明しますと、この「ビジョン」という言葉は、スペイン語では「視覚、見えるもの、幻、見方」などの意味があります。ルカ二十四章十六節、
『しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。』
彼らはイエスさまと共に三年間過ごしました。そして奇跡を行うことや、群衆を教える姿を見てきました。しかし、もう一度イエスさまが彼らと歩き始めた時に、聖書には、彼らにはイエスさまがわからなかったと書いてあります。聖書には、何か彼らに目隠しのようなものがあったと書いています。
あなたが情熱をなくす時、視覚(ビジョン)を失って歩くことになります。この二人の弟子たちは、歩き続けていましたが、視覚(ビジョン)を失っていました。それは目標を失ったという意味です。目的を失ったということです。そして行き先を失いました。なぜなら最初に情熱を失ったからです。情熱を失うとき、ビジョンなしで生きるのに時間はかかりません。なぜならその情熱というのは、焦点を合わせて生きることや、目的をもって生きることや、目的に向かっていくのに必要なことだからです。
私たちは心の中では、この地上でただ存在しているだけの者ではないということは分かっています。それは神さまがこの地上にあなたを存在させており、それはあなたの人生に大きなみこころがあるということを、私たちは分かっています。またあなたの家族に対しても大きなみこころがあるということは、分かっています。神さまはあなたに目的を持っておられます。神さまはあなたの行き先を準備しておられるのです。
ですから、この二人の弟子たちは歩き続けていましたが、行き先を失っていました。目標を失っていました。
あなたは習慣で事をし続けることはできても、例えば教会に来続けることはできても、手を上げて賛美し続けることはできても、礼拝メッセージを聞き続けることはできても、あなたにビジョンがないなら、あなたがしていることの目的は失われているのです。今までしてきたことをただし続けているだけということになります。
教会にきて椅子に座りますが、それは毎週日曜日にすることだからしているのであって、しかしもう情熱はなくなっているのです。目的がなくなっているのです。
良い知らせがあります。それは、情熱というものが燃えやすいもので、自分のビジョンに届く手助けをするものならば、もし情熱を回復さえすれば、力を回復し、エネルギーを回復し、そのビジョンに届くための息を吹き返します。自分の夢に届くため、神さまが私たちの人生に用意しておられる約束に届くため。
ですから、これはある人にとっては警告なのです。「情熱を失うな」という警告なのです。またある人にとっては忠告なのです。「情熱を回復しなさい」という忠告なのです。そうすればビジョンを回復することができます。夢を回復することができます。イエスさまの名前によって、約束を回復することができます。
そして情熱を失った時に起こる二番目のこと、それは「悲しみ」です。ルカ二十四章十七節、
『イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。』
情熱を失うと、ビジョンを失うだけではなく、喜びも失います。イエスさまがこの二人の弟子に会った時、彼らはそれがイエスさまだと気が付きませんでした。そしてイエスさまが彼らに質問すると、彼らは暗い顔をしていたと書いてあります。スペイン語の聖書だと、「悲しんでいた」と書いてあるのですが、ただ悲しんでいたのではなくて、とても悲しんでいたのです。情熱がある人というのは、その心に喜びがあります。しかし、情熱を失うと喜びも失います。情熱を失った人は、物事をただの日課としてこなすようになります。強制されて行うようになります。都合がよいから行うようになります。しかし愛によってではありません。
兄弟姉妹たち、この時、教会は退屈な場所となります。それは、何をするにしても、ただやるだけで、誰かに押されてするだけになります。またはするように強制されてするようになります。私はここにいる人がだれも、強制されていないことを願っています。また、ここにいる人が誰も、都合だけ考えてする人ではないと願います。ここに座っている人たちが皆、すべてのことを差し置いても、神さまを愛しているゆえに、ここにいると願います。神の臨在を愛し、神の家を愛し、教会を愛し、神に仕えることを愛し、神を賛美することを愛しているゆえに、皆ここにいると願っています。
しかし情熱を失うと、教会は退屈な場所になります。情熱を失うと、教会はただ重荷となります。そして毎週日曜日は同じものになります。しかし情熱があると日曜日が待ち遠しくなります。インターナショナルのある子どもが私に言ったことがとても嬉しかったのです。「牧師先生、一週間毎日日曜日になって教会にいられたらいいなぁ。」とその子どもは言いました。
情熱を失うと、信仰も失います。そうするとそれはただの宗教と化します。私たちは宗教をやっているのではありません。私たちは良い神さまと個人的なつながりを持っています。愛の溢れた方です。哀れみ深い神さまです。チャンスを与えてくださる神さまです。全能の神さまです。ですから、ただの宗教にしないでください。イエスさまは一度も、「私は宗教を作るために来た」とは仰いませんでした。イエスさまは、「あなたがたに命を与えるために来た」「豊かな命を与えるために来た」と仰いました。
また良い知らせがあります。私の中にある情熱が喜びの泉であるなら、情熱を回復するとき、喜びも回復することになります。熱心になっている人が同時に悲しんでいるところを見たことがないのに気が付くと思います。それは矛盾していることだからです。
あなたはどうか分かりませんが、私にはこれよりも大きなこと、これよりも名誉なこと、これよりも大きな特権はないと思っています。王の王、主の主であられる方に仕えること以外には!それはただ神に仕えるということではなく、喜びをもって仕えるということです。ただメッセージを語るのではなく、喜びをもって語るのです。ただ献金するのではなく、喜んでするのです!教会にただ集まるのではなく、喜んで集うのです。ただ手を挙げて賛美するのではく、喜びをもって手を挙げて賛美するのです!
もし、あなたが人生に「情熱」という投薬を受けるなら、あなたの人生の各ステージにおいてあなたは楽しむ事ができます。人生の良い時も悪い時も楽しむ事ができるのです。あなたが無関心を揺さぶり、人生を情熱で抱きしめるなら。
熱心な人は、問題があっても、苦難があっても、どんな状況下でも、命にとって大切なことをあきらめたりしません。
熱心な人は、どんなに多くの問題や苦難の中で生きていても、働き続け、神さまに仕え続け、賛美し続け、祈り続けます。なぜなら、その人の人生は、周りの状況に基礎をおいているのではなく、イエス・キリストにあるポジションに基礎をおいているからです。
そして聖書には、キリスト・イエスにあってあなたは圧倒的な勝利者になる!と書いてあります。キリスト・イエスにあって、あなたは何でもできるのです。キリスト・イエスにあって、あなたには不可能なことがありません。
個人的なことですが、私は、この世にある人生、物質的にとても豊かな人生を送ることもできたでしょう。とても快適な暮らしや、素晴らしい仕事を持ち、世界中を飛び回る人生を送ることもできたでしょう。私の兄弟たちのように。