今は読みませんが、ローマ書の十二章一節と二節をぜひ読んでみてください。このみことばは、私たちが礼拝することによって、すべてを主にささげることによって、私たちに新しい考え方が与えられるとあります。
このギリシア語の語源の意味は、「私たちは新しく人生を想像する方法が与えられる」と。もしかしたら自分の仕事というのを、新しいやり方で、少し想像し始める必要があるかもしれません。自分が他の人を見るその目で、神さまの想像(イマジネーション)で他の人を見始めることができるようになります。
もしかしたら配偶者でも、少し見方を変えないといけないかもしれません。自分の配偶者を見るべき目を主の想像で、主の見方で見ることができるように。
世界には本当に多くの問題が満ちていて、私たちは新しいイマジネーション、新しい想像力が必要です。神さまがこれによって一体何をしようとしているのか。
私たちは既に神の国の中に生きていますが、そのみ国はいまだに来ていません。その焦点、そのフォーカスで、想像力を生かして、神の目で見る必要があります。
アメリカの多くのクリスチャンというのは、「culturally washed.(文化の中で洗われている)」だと思います。だから多くのアメリカのクリスチャンは、文化の波が押し寄せてきて、それを浴びて、それが自分に影響を与え、変えられていくということが起きています。
本当に気をつけないといけないのは、私たちが「アメリカ人クリスチャン」とか、「日本人クリスチャン」というのではなく、求め続けないといけないのは、「神の国クリスチャン」であるということです。
教会の中の人間関係は時々難しいことがあります。それぞれが違ったレンズで見るので、私たちは一歩下がって、この文化によってではなく、聖書によって、主によって、それを浴びて、それによって洗われて変えられる必要があります。
神さまは皆さんに希望を持ってほしいと願っています。そして変えられていくことも望んでいます。それは良いことによってだけではなくて、難しいことによっても変えられていくことを主が望んでいます。
最後に一つお伝えしますと、もしクリスチャンであるなら、あなたがイエス・キリストに付いて行っているのなら、あなたは常に主に繰り返し犠牲を払うように頼まれます。そして仕えるように頼まれます。与えるように頼まれます。
そして、その与えるという、もう一つの現れは赦すことです。それを説教の中で語った時、一人の男の人がいきなり立ち上がりました。その数ヶ月前までは立つことすらも、ベッドから起き上がることもできず、いつも奥さんがトイレに連れて行ったぐらいの人でした。彼は一年以上、すごく苦しんでいました。
しかしこのことを教会で話した時に、彼が急に立ち上がって、「これが私たち、クリスチャンとしての食べ物である!これが私たちの栄養です!」と叫びました。
私たちが与えること、犠牲を払うこと、苦労することによって、イエスさまをより深く知るようになるからです。その人は、テリー・ジョンソンという、ここにも来たことがある人の友達、フランシスでした。
コロナの中で、テリーさんは亡くなりました。奥さんもここに来たことがあるのですが、フランシスが立ち上がった時、自分もすごく病気でテリーもすごく病気の時、何とかその家に会いに行ったそうです。二人ともすごく苦しんでいましたし、丁寧な喧嘩をしていたそうです。「私の方があなたより先にみ国に行くよ!」と。
テリーは亡くなりましたが、フランシスは回復しました。二人とも、「私は死んでも大丈夫だし、生きているのも幸せ。どちらでも大丈夫です。」と。
テリーが死ぬだろうと感じた時、私は「どう?」と尋ねました。すると「私が唯一望んでいることは、生きることを通してでも、死ぬことを通しても、主が栄光を受けることです。」と言いました。
その二人の兄弟は、私が理解しているのかわからないぐらいのことを理解しています。私も同じように、イエスさまを知りたいです。
私たちはイエスの喜びを知ることができます。その祝福を知ることができます。そして本当に難しいこと、苦労することも頼まれます。でもそれらすべてを通して、私たちが関わっているのは、神の国という、栄光に満ちたものです。
黙示録の最後の短いみことばを三つ読みたいと思います。
今は全てを読む時間は取れませんが、黙示録の二十二章はぜひ後で全部読んでください。家庭集会をやっている時、この最後の二十二章を声に出して読みました。それを聞くことができてすごく良かったです。
黙示録の神の子羊イエスさまが、悪魔である龍に勝つという、全てが起きた後に、この言葉は語られます。その中には、イエスさまご自身が語った言葉もあります。
二十二章七節には、
“「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」”
イエスさまにしがみついて諦めない人たちは祝福されます。そして十七節では、
“御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。”
あなたはイエスさまに「来てください。」と言っていますか?自分の言葉、心、自分の態度で、イエスさまが私のただ中のすべてに来てください!と言っていますか?
このみことばが私たちにチャレンジしています。「この言葉を聞く者は誰でも来てください!」と言いなさい。そして渇く者は誰でも来なさい。自分の主との関係、イエスさまとの関係に満足していない人たちは、もっと欲しい!渇いている人達は「来てください。」「来てください。」と言いましょう。命の水が欲しい者には、誰にでもそれを無料で、自由に飲みなさい。
そして最後には、同じ二十二章二十節です。
“これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。”
最後に、皆さんと一緒に言いましょうか?「アーメン。主イエスよ、来てください。」それは将来だけではなくて、「今」という意味です。お祈りしましょう。
主イエスよ、私は心が砕かれている人たちのために祈ります。弱い人のために。疲れている人のために。主の祝福を受けますように。主に必死でしがみつくことがどれだけ恵みであるか。
皆さんお祈りしている最中ですが、自分の人生で、今、もっとも難しいことを思い描いてください。そしてイエスさま、この難しいこと、私の人生において私があなたをよりよく知ることができるために感謝します。
そして、主がその難しいことの真ん中に来てくださるように、「主よ、来てください」と言いましょう。そして心を合わせて、「主よ、私たちを確実に、永遠の滅びから救ってくださったことを感謝します。主よ。あなたが龍に対して勝利する子羊である事を感謝します。この龍に支配されている世界に生きるための力を与えてくださるお方であることを感謝します。そして、神の国、すべてが新しくされることを感謝します。アーメン!