そして二〇二四年に対して、私が神さまからいただいているみことばをお分かちしていきたいと思います。それはヨナ書三章一節から二節です。
『再びヨナに次のような主のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」』
そしてもう一つ、ヨナ書四章十一節、
『ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」』
このヨナ書からのみことばが、特に印象付けられていますが、ヨナ書全体のストーリーからこのみことばが備えられております。私自身が神さまの思いとして信じて、私が受け取っていることを最初にまとめさせていただきましたので、お分かちします。
「二〇二四年、私たちの思いが及ばない、高く広く深い神さまの愛に満たされ、さらに主を愛し、隣人を愛し、神の国の到来という壮大な青写真を見つめながら、一人ひとりに託された神のみことばに従い、福音宣教に出ていくように。そしてその時に主のみ力があらわされ、人々、また被造物までも、その心が主に向けられ、街、国に神の国が現される、主の壮大な働きがなされていく。」
そんな思いを主から、ヨナのストーリーを通していただいていますので、今からヨナ書全体から、みことばと神さまの思いを受け取っていきたいと思います。
ヨナ書のストーリーは、北イスラエル、ヤロブアム二世が王様の頃活躍していたとされる預言者ヨナに、イスラエルにとって敵国であったアッシリア帝国の首都ニネベに行くようにという神さまからの言葉がかけられて始まっていきます。
その預言者ヨナは、どのような人物であったかというと、偏った愛国心、またイスラエル民族という選民意識を持っていた人物でありました。そして当然ですが、神さまがあわれみ深い、愛のある方であることを知っていました。ですから、敵地にヨナが行ったならば、あわれみ深い神さまによって、もしかして敵であるニネベを救ってしまうかもしれない。そんなことを恐れたのです。
敵であるニネベが救われることを望まなかったのです。ゆえに、ヨナはどうしたかというと、神さまのみ顔を避けて、この「み顔を避ける」というのは、主の臨在から遠ざかるという意味がありますが、主の臨在・主ご自身から離れて、ニネベと反対のイシュタル、スペインの方へ逃げていくわけです。
そんなヨナに対して、神さまはどうされたかというと、嵐をもたらして、異教の神々を礼拝する人々を用いて、ヨナを海に投げ込ませました。神さまはそんな愛の足りないような、また偏った愛、愛国心を持っているようなヨナ、また神さまから逃げるようなヨナに対して、神さまは見殺しにすることはしませんでした。大きな魚を用意して、ヨナの命を助けて、もう一度ヨナに言葉をかけました。それが、私が神さまから与えられたと信じているみことば、ヨナ書三章一節から二節であります。
『「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」』
ヨナは何日間、魚の中にいたかというと、三日三晩です。これはイエスさまの十字架を表しています。イエスさまもそのことを言及しておられますが、ヨナは三日三晩、魚の中にいて、救い出されました。イエスさまの十字架の贖いを受けたような人物であると言えます。イエスさまの十字架の贖いを受けているのは誰でしょうか。それは私たちクリスチャンです。すべてのクリスチャン、私たち一人ひとりをヨナと同じように、神さまが福音宣教の戦いに召してくださっています。一人ひとりに神さまから、私たちが宣言しなければならない言葉が託されているということを強く覚えさせられます。
二〇二四年は、更に神さまから託された言葉を宣言していく、福音宣教の戦いへと出て行く。そのような促しを神さまから与えられています。
そしてヨナのストーリーに戻りますが、海の底、死の淵からのヨナの祈りを聞いて助けてくださった神さまに対して、ヨナは、”感謝の声をあげて、あなたにいけにえを献げ、私の誓いを果たします”と歌っています。それは自分自身をささげたわけです。再献身し、神さまの命じられた通りに従っていきました。
そしてヨナの宣言により、どんなことがニネベの街に起こったかというと、身分の高い者から低い者まで、王様、そして家畜までもが粗布をまとって悔い改めるようになり、愛の深い神さまはニネベに下す災いを思い直され、ニネベはその災いから救われることになるという、神さまのみわざがなされました。
しかし、偏った愛国心、イスラエル民族という選民意識を持っていたヨナは、敵であるニネベが救われるという自分が最も恐れていたことが起こってしまい、ヨナは神さまに対して不機嫌になっていました。そんなヨナに神さまの言葉がかけられ、ヨナ書が締めくくられます。それが四章の十節です。
『ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」』
ヨナ自身は、あわれみ深い神さま、愛の神さまを知っていましたが、神さまの愛がニネベの人々だけではなく、家畜・被造物までに及ぶほどの高く広く深い神さまの愛、また、全被造物への福音、神の国がこの地に到来するという壮大な主のご計画を理解しきってはいなかったでしょう。
では私たちはどうでしょうか?私自身、神さまから問われているような気がしました。時にヨナのような、自己中心的な思いや行動、神さまの愛を小さく捉えてしまってはいないか?神さまを愛し、従い、隣人を愛して、壮大な神の国の到来という青写真をみつめて、任された福音宣教の戦いへ出て行き続ける歩みが、私自身できているか?と自問自答させられました。
二〇二四年、もう一度ヨナ書から学び、みことばを受け取って、もう一度初めの愛に立ち返るように、イエスさまの十字架の愛という原点に立ち返るようにと語られているように感じます。
そして、一人ひとりの主から任された言葉を宣言していく時に、どのようなことが起こっていくか。もう一度確認していきます。ヨナ書三章三節〜四節、
『ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」』
三日ほどかかる大きな都ニネベであったのですが、ヨナが歩いたのはたった一日分の道のりでした。そして、神さまから預かった言葉「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」を宣言しただけでした。何か言葉足らずで、十分な行為ではないと思われます。これだけで王たち、すべての身分の高い者、低い者、家畜までも悔い改めるとは思いもよりません。私たちも神さまのみ心だと信じて、日々、それぞれ歩んでいますが、時に私たちがしていることに対して、何か言葉足らず、見栄えも良くない、わずかなことだ、十分でない、小さなこと、自分自身がとても自己中心で愛も足りない、小さな者の小さな働きのように感じる、そんな時があるかもしれません。
しかし主のみ声に聞いて、み声に従ってなされていく私たちの宣教の戦いは、虚しい働きとはならない。ヨナが主のみ声に聞いて、ゆだねられた言葉の宣言によってニネベの街を救ってくださったように、私たちが主の言葉を宣言していくならば、街の人々、身分の高い者から低い者、王や、そして家畜・被造物でも、粗布をまとわせ、悔い改めへと進ませる、彼らの心を主に向けさせるような、人の力ではできない、主の偉大なみ力が現されていくと、神さまから励ましをいただき、来る二〇二四年に対して、すごく期待感を神さまから与えられています。
そして人と家畜・被造物、国そのものを救うというのは、まさに神の国が到来することを意味していると思います。二〇二四年、神の国の到来という主の壮大なご計画を主が更に力強く現してくださることを共に受け取っていきたいと思います。
そして最後に、ヨナはアッシリアの首都ニネベ、敵国、激しい戦いを覚える宣教地へと出て行きました。二〇二四年、私たちの宣教地は決して平和な場所ではないと思います。敵国へのり込むような、またその地で、ヨナのように葛藤を覚えるようなことがあるかもしれません。
そのような宣教地の中で、一人ひとりに任された宣教の戦いだけに、目を留めていくと、何か「この働きは本当に意味があるのだろうか?」とか、「これが何の神の国の到来のために用いられるのか?」、わからなくなってしまう時があるかもしれません。
しかしそれはパズルの一つ一つのピースのようであるのではないかということを語られます。この冬、子どもたちが冬休みの期間、我が家ではみんなでパズルをやろう!と九百五十ピースのパズルを買いました。今、家族みんなでパズルをやっているのですが、その一つ一つのピースを見ていくと、全くどこにはまるかわからないのです。しかしそのパズルの全体の完成の絵を見ると、ここにはまるのではないか?と、はっ!と気がつくのです。
私たち一人ひとりに任された一つ一つの働きはパズルのピースのようで、それだけを見つめていると、それがどのような意味があるか?理解することが時々難しくなってしまうかもしれません。しかしパズルで完成図を見るのと同じように、神さまご自身の完成図、青写真、神の国の到来、壮大なご計画に目を留める時に、私たちが任されている一つ一つの働き、宣言しなければならない言葉、その意味に対して明確に理解し、それをどこにはめなければいけないのか分かるようになる。そんな神さまからの励ましを受けています。
二〇二四年、どのような戦いの中でも、神さまが「私はあなたを宣教地へと遣わし、あなたに言葉を託す。わたしがあなたを支える。助ける。励ます。」そのように私自身を、新城教会を押し出してくださっていることを覚えます。
二〇二四年、私たちが主をさらに愛して、隣人を愛して、神さまのみことばに従って宣教地へ出ていく時、人にはできないような、新しい信じられないような扉が開いて、街が変えられ、国が変えられ、人々が変えられ、家畜・被造物までもが変えられ、神の国が到来する。そのような壮大な、偉大な神さまのみわざが現される。そのように神さまから語られています。共に信じて、主に期待して進んでいきましょう。