『さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。』
ここでパウロは、「主にある囚人の私は」と言っていますが、これはパウロがエペソ人への手紙を書いたのは獄中であったと言われています。主にあって囚われの身である私がエペソの人たちに、「あなた方も召されている者たちなのですよ」と言ったわけです。先ほど陽介先生が「奴隷」とお話しされましたけれど、主によって一人ひとり召されている。主の働き、主のご用がお一人おひとりに対してあり、主がその意思によって、皆さんを召し出された、あるいは、神さまにある使用人、奴隷として、私たちは召されている者であることをここで述べています。
そして、「召されたその召しにふさわしく」とは、みなさんそれぞれに役割があるということを語っています。
しかし、二節にいくと視点が変わり、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」と言うのです。一節では、神さまと自分との間、召した方と召された者としての視点から、召された者たち同士の横の繋がりに視点が変わるのです。そして、四節から十六節までこの文脈が続きます。
私たちは神さまの召しによって選ばれ、同じ御霊によってバプテスマを受け、それぞれ役割についている。私たちの信仰は一つ、私たちの信じている神さまも一つであると。神様を中心に私たち互いが「一つである」「一致する」という言葉が十六節までに七回出てくるのです。「キリストのからだなる教会」という共同体の一員として、私たちは「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」ということが書いてあるわけです。
召された私たちはその召しに忠実に真剣に向き合って歩んでいくわけですが、それが個人プレーで、「他の人は関係ありません。私と神さまとの間で、神さまがこの働きをゆだねてくださったのだから、私はわき目を振らず前進するのです!」とただ進んでいけばいい、ということではなくて、一つである神さまの働きの中でお互いが一致していきましょうね。一つになっていきましょうね!と勧められているのです。
この一年の間、順先生を通して、天の教会と地の教会が一つであると言われています。少し写真を出していただきたいと思います。
こんなスタジアムのイメージで語られるわけであります。その中で私たちは、私たちの役割として委ねられた働きがあります。私たちがスタジアムの中で競技者として働いています。
同時に、私たちには天において、私たちの応援部隊がいることが言われています。先に召された協力者が観衆として私たちを応援している。
甲子園リバイバルミッションの時など、私たちは激しい戦いを体験しました。特に「甲子園ミッションなんか潰れてしまえ!」というぐらいの勢いで、ある意味敵対者として頑張ってくださった人たちが、キリスト教界の中にもいました。つまり敵対者も、別の競技者として働いている。
そして、敵対者の応援部隊もいたりするわけです。
オリンピックであったら、スタジアムの中には別のところで違った競技も行われたりするわけです。別の召し、別の競技をしている人たちがいて、それぞれをまた応援する応援隊がいる。そんな感じです。オリンピックだったら、いろいろな国のいろいろな文化の人たちが出てきて、それぞれの技を競い合うわけです。同じようにキリスト教界には時代を越えて、国や文化を越えて、様々な召しを持った主の器たちが働いてきており、今も働いている。
私たちには自分の目の前、意識の及ぶところしか見えませんので、目の前のものがすべてだと思いがちなのですが、このような感じで、実は世界大のキリスト教界、また歴史の中にあるキリスト教界を見たら、私たちにとって未知の大きな天の教会、地の教会があって、これ全部ひっくるめて神のみ手の中にあるということを見ることができる。こんな感じなのかなと思うわけです。
そのように考えますと、世界大のキリストのからだの中には、今ご覧になったイメージのように、敵対者も含まれるわけです。このことはどういう意味を持つのか。甲子園ミッションでは協力者だけでなく、真剣にその働きに反対抗議して、潰れてしまうようにと祈り願い活動していた方も大勢いらっしゃったと思います。
そして見方を変えると、甲子園ミッションの働きは敵対者がいることによって、共に働く者たちの一致が促されて、力が引き出され、その結果として、主の働きが劇的に力強く、推進することができたといえると思うのです。敵対者の存在によって、私たちは成長させられ、主の働きも前進していくということです。
ちょうどネヘミヤの時代に、脅かしを受けたからこそ、民が一致団結し、戦いの準備をしながら城壁を築き直し、五十二日間という短期間で完成できたのです。この出来事と通じることであると思います。
「敵を愛し、敵のために祈りなさい。」と主は語られましたけども、今のようなイメージでこのみことばを味わうと、違った味わいが出てくると思うのです。敵のために祈るということも大切なことだと感じるわけです。
私たちの愛する新城教会を見ても、様々な召し、賜物がそれぞれの器に委ねられ、そして神さまの働きが進められています。ある所ではこの競技が、ある所では別の競技が、同じ聖霊によってなされています。その働きが互いに一つとなる時に、神の国が力強く前進していくことを覚え、二〇二四年、そのような聖霊による一致がこの教会の中に力強く現されることを求めて祈っていきたい、そんなふうに思います。
≪滝元開牧師≫
この一年間、本当に神さまが大きな祝福と恵みの中でいろいろなことをさせていただくことができたことを心から感謝しています。ザワメキの働きでは、コロナのゆえに、長い間ずっと歌うことが敵視されるような、そんな中から、やっと日本のいろいろな所で賛美するようにと導いてくださって、動きはじめることを許されたことを、本当に心から感謝しています。
そんな中、以前コロナ前に企画していて開催に至らなかったことですが、ハワイでの集会をすることができて本当に感謝でした。この教会からたくさんの方が行ってくださって、また増山先生も息子さんと一緒に参加してくださって、驚きの祝福のツアーとなり、本当に夢を見ているような素晴らしい主の恵みの時で感謝でした。
これは現地の冬木先生という、私の友人の先生の教会の礼拝を、マジックアイランドという所でしてくださった礼拝なのですが、本当に楽しい祝福の時で、神さまがくださった恵みを覚えて心から感謝しました。
またザワメキでいろいろな所にも出向かせていただきました。これは九州での働きだったのですが、元々、九州の一つの場所でざわめきの集会をする予定になっていたのですが、寸前になって、チケットまで取って準備していたらコロナが始まってしまったので、やっぱりやめにします!とおっしゃったのです。いや〜、困ったなと思ったら、なんと増山先生が支教会のような形で、同じその半島の中に、そこでの働きを始めておられて、その中での集会をさせていただいて、今ここに出ている写真、ほとんどノンクリスチャンの方々なのです。本当に神さまが新しいことを始めてくださっているなぁということを覚えて、心から感謝します。
そしてザワメキの東京大会も二百回を迎えることができました。本当に神さまが、ここまで一つ一つを導いてくださったことを覚えて心から感謝をしています。
そしてまたこの教会の働きの中では、中高生のキャンプがあったり、先ほどスライドショーの中にもありましたけども、一つ一つの働きが祝福されて、大きな恵みの中でのことがなされて、今まで体験したことのないようなこともすることができて感謝でした。
それから万座温泉・日進館という所でのコンサートも、今なお主はその道を開いてくださって、毎回七、八十名の方々が聞いてくださるのです。コロナ前は、九時の少し前に、温泉券が当たる!というくじがあったので、「九時だからくじだ!」とか言って、それに合わせてお客さんがいっぱい来てくださいっていっぱい聞いてくださるのですが、今回そういうのがなしになったから、どうかなと思ったのですが、本当にたくさんの方が来てくださって感謝でした。
そして何よりも大きな恵みは今日行われたバプテスマです。本当に主が新しい扉を開いてくださって、救いのみわざをなしてくださったなぁということを覚えて、本当に心から感謝しています。主が始めておられるリバイバルの働きが、主のみ手の中で一歩一歩進んできましたけれども、今日はそれが実となって、主のみわざを拝させていただけたことを覚えて、心から感謝します。本当に高い所からですけども、皆様の熱き祈りによって支えられて、犠牲によって支えられて、ここまできたこと、本当に心から感謝しています。
今回私が与えられたみことばを紹介させていただきたいと思いますけども、このみことばです。ルカによる福音書十九章三十一節、
『もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」』
「主がお入用なのです。」イエスさまが乗られるためのロバを、主は、イエスさまご自身が自ら準備されたのですが、そしてその通りにするとその人々、弟子たちが行って、そのロバをほどこうとしていると、その飼い主が、「どうしてうちのロバを勝手に連れて行くんだ?」と言うと、「主がお入用なのです。」と言うと貸してくれたという、そういう記事なのです。本当にこの年、神さまが私たち一人ひとりに、来たる二〇二四年、主がお入用だと、私たち一人ひとりに語ってくださって、主が行け!というところでなすべき働きがなされたらどんなに素晴らしいことかと思っています。
それ以降を少しお読みしたいと思います。ルカの福音書十九章三十五〜三十八節、
『そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」』
結局イエスさまご自身が都へ上られるために、主はお入用にした、その働きの働きを弟子たちは手伝ったわけですけど、イエスさまが帰られるその道を私たち、備えるために、今年は主がお入用なんだ!私たち一人ひとりを主が選んでくださって、あなたの行くべきところで、あなたのすべきことをしなさい!私たち一人ひとりを主が必要としてくださっている二〇二四年で、そして二〇二四年、主のみわざがなされる年であることを心から期待して、そして進んでいきたいと思います。
一言お祈りします。
主よ、感謝します。本当に主が、この二〇二四年に対して、主がお入用だと、私たち一人ひとりに語ってくださっていることを信じて感謝します。私たちはあなたに従います。すべてを主におささげし、尊き主イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。ハレルヤ!
≪滝川充彦副牧師≫
ハレルヤ!いつも私のために祈り支えてくださっているお一人お一人に感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございます。
二〇二三年、神さまに与えられたみことばは、ヨエル書三章の十三節前半でありました。
『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。』
この年の初め、私はこのようにまとめさせていただいていました。「二〇二三年、主の時は熟し、私たちは大胆にかまを入れ、主のみ座から流れ溢れる収穫の恵み、主の勝利を受け取る年となる。そのために私たち新城教会は、主を王として仰ぎ見て、また恐れ、幼子からお年寄りまで、すべての世代が主の勇士として立ち上がり、主の軍隊として集い、敵に立ち向かうように。」二〇二三年を振り返るとあらゆる世代が総力戦で一つとなって、ヨシャパテの谷、戦いの谷において、多くの賛美をささげさせていただいた、戦った一年ではなかったかと思い返されます。時に喜びの中で、また時には悲しみ、涙する中でも、新城教会に委ねられた谷において、賛美が響き渡って、神さまの素晴らしい祝福が、私たちに注がれていた、そんな一年だったということを信じて感謝します。主に栄光としてお返しします。