2024年カウントダウン・ワーシップ

最後にもう一つみことばをお読みします。第二コリント人への手紙三章十八節です。

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』

私たちが最終的に目指すべきところは、「主と同じかたちに姿を変えられていく」ということだと思います。
新しい年、世の中がどんなに変わろうとも、神さまが何を望んでおられるのか、私たちが神さまのためにできることは何か、ということを常に考え、行動し、前進してまいりましょう。そのために、心の一新によって自分自身を変えて、「主と同じかたちに姿を変えられていく」者とならせていただきたいと切に願います。



≪公畑フェルナンド牧師≫

ハレルヤ!九時半までインターナショナルの礼拝がありました。こちらに移りましたら、三番目と聞き、その礼拝での1時間のメッセージをダイジェストにして通訳を入れて十五分のメッセージにしようとしています。頑張ります。

私に与えられた二〇二四年に対してのみことばは、「二〇二四年は神の恵みの年になる」です。
イエスさまが荒野で四十日間の悪魔の試みを受けられた後、ナザレに戻られた最初の日、悪魔に打ち勝った後のことですが、聖書はイエスさまが御霊に満たされたと言っています。そして村々を回って最初に行われたことは、みことばを語り、ご自分の育ったナザレという村に行ったことです。
そして聖書には、イエスさまはいつものとおり会堂に行ったと書いてあります。そこで聖書の巻物を開き、立って朗読されたと記されています。イエスさまが読まれた箇所がこれです。ルカによる福音書四章十八、十九節です。

『「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」』
それはイエスさまのこの世への到来について記されているもので、それは人類にとって新しいページ、新しい時代を開くものでした。それは神さまの恵みが私たち一人ひとりに与えられるということです。私はこの聖書箇所を信仰によって読みたいと思います。それはこのみことばが、この二〇二四年、イエスさまが開いた巻物のみことばの内に、今までとは異なった歩みをして行く!と、信仰を持って言いたいと思います。イエスさまが宣言されたように、この年は神の恵みの年である!と宣言したいです。この年は新しい時代である!と、人類にとって新しい幕開けとなる!と宣言します。

神さまが地上で何か御業を行うときには、それを行う時を決定されます。物事が成熟する時、神さまが実際にみことばを仰せられる時、それは神の知恵で最もふさわしい時間であり、これまで起こったことのないようなことが始まるときです。
例えば聖書の中には、ヨセフが出て来ますが、彼はとても若い時から主に選ばれ、大きな目的を与えられていました。トップの地位になるという夢、有力者になるという目的を与えました。しかしヨセフの兄弟たちは彼をエジプトに奴隷として売りました。聖書には彼がエジプトに連れていかれると、とても困難な目に遭ったと書かれています。エジプトで多くの不当な扱いを受けました。彼は自分の身に覚えのないことで告発され、監獄に入れられました。また友人たちからも忘れ去られました。しかしそのような中でも、神の恵みはヨセフと共にありました。
神の恵みが人の上にあるとき、その人を繁栄させます。またその人は多くの人に気に入られるようになります。理由が分からなくても、人から認められ、愛されるようになるのです。また他人には閉じている扉も、その人のために開けられます。神が、「わたしはあなたに目をつけているよ!」と言うとき、あなたの前で開けられるべき扉は開きます。また、あなたが始めるべき新しい時代が始まっていきます。それは、神さまが恵みをかける人のためには、神さまが必要な力を与えてくださるからです。
ヨセフもそうでした。どこに彼がいようとも、聖書にはこう記されています。創世記三十九章二、三、五節(新改訳2017)

『【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。彼の主人は、【主】が彼とともにおられ【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。彼の主人は、【主】が彼とともにおられ【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。それで、【主】の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。』

これが神の恵みです!神さまが私たちを「恵みで満たす」というとき、神のみ手というものが、あなたの人生に明らかに示されるのです。あなたは後退するのではなく、前進していくのです。愚かなことをすることがなく、神の知恵によって導かれていきます。神の恵みがあなたの中にあるからです。

ですから皆さんがこの年、神の子どもとして主に信頼し、主の恵みの真ん中を歩んでいくようにおすすめします。
ヨセフは監獄にいました。そしてパロの献酌官はヨセフと約束したにも関わらず、そのことを忘れてしまいました。まるで神のヨセフに対する選びはどこかに行ってしまったように感じましたが、聖書に「時が来ると、神は寝ていたパロを世にも恐ろしい夢で揺さぶられた」と記されています。そして誰もその夢の解き明かしができない中、ヨセフが監獄から出されてパロの前に連れて来られ、神から教えられた、「その夢がこれから起ころうとしていたことである」とパロに伝えたのです。
パロがヨセフの知識と知性と物事に対処する能力を見たとき、自分の指輪を手から外してヨセフにこう言いました。「これを受け取りなさい、今からあなたはこの国の総理大臣となる。」それは神の時が来て、ヨセフに対しての神さまの目的が成就したのです。

あなたはこういうかもしれません。「主よ、あなたが私に言われたことや、あなたの計画や、あなたの約束は風に吹かれて飛んで行ってしまったようです」と。しかしそうではありません。あなたはただするべきことを行えばいいのです。神を慕い求め、しっかり働きなさい。そうです、優秀でありなさい。そして神が言われたことに信頼しなさい。あなたが着くべき時間にあなたは着き、あなたが行くべきところにあなたは到達するからです。神が用意されている目的にあなたは必ず到着します!

〈まとめ〉
神の恵みは何をもたらすのでしょうか? ルカによる福音書四章の所でイエスさまが読まれたのは、イザヤ書六十一章の所でしたので、それを用いて説明します。

1.『私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、私に油を注がれたのだから。』
貧しい中にある全ての人は、神がその人を霊的な貧困から救い出してくださいます。神はその人を霊的な無知から救い出してくださいます。また神は敵の手からその人を救い出します。

2.『心の傷ついた者をいやすためにわたしを遣わされた。』
これを皆さんにお伝えしたいのですが、イエスキリストによって私たちに神の恵みが訪れるとき、私たちの過去の傷はいやされます。あなたの人生の中で敵が壊そうとした神のイメージを消し去り、神のあなたに対する計画によって本当の神の姿を回復してくださいます。何があなたの人生に刻まれていようとも、神はあなたを新しくしてくださいます。なぜなら神は心の傷ついたものをいやす方であるからです。

3.『捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。』
これは神を知らない人々、道に迷っている人々、主を追い求めなかった人々が、これから光を受ける方法を知るようになるということです。

4.『しいたげられている人々を自由にし、』
抑圧された人々が解放されるようになります。

イエスさまが仰せられた通り、今年は神さまの恵みの年となる!と宣言します。ハレルヤ!



≪鈴木陽介副牧師≫

ハレルヤ!二〇二三年は私たちの家族にとって慰めの年、喜びの年でありました。ご報告させていただいているように第四子が与えられ、素晴らしい神の恵みに感謝するばかりです。
出産から今に至るまで、多くの方々からあふれるばかりの祝福をいただいています。この場をお借りして皆さんに心からお礼を申し上げます。そして心から主に感謝をささげます。

さて、二〇二四年に向けて私が示されたみことばですが、第一サムエル記十五章二十二・二十三節になります。

『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』

この数年来、私は、ダビデ王に関するみことばから皆さんに語らせていただきました。この箇所は、ダビデの前の王、サウル王に関する記事です。サウルが預言者サムエルを通して語られた言葉です。
二〇二四年に示されている主題としては、「主のみ声に聞き従うこと」です。そのような視点でみことばを学んでいきたいと思います。

まずこの箇所は、サウルが王位を失う直接のきっかけとなった場面です。その理由は、主の命令に背いたからということになります。
では、どのような命令が主によってなされていたでしょうか。第一サムエル記十五章十八節にこのようにあります。

『主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』』

これが預言者サムエルを通して、主から与えられたサウルへの使命でした。

サウルはこの命令に背きました。主はアマレク人を討ち、家畜に至るまですべてを聖絶せよと命じました。しかしサウルはアマレクを討った後、彼らが所有していた上質の羊や牛を惜しんだのです。そこには、いけにえとして主にささげるためだという言い分がありました。しかし、そこで主が語られたことは「お前はわたしの命令に背いた。」という厳然たる結果であります。サウルにしてみれば、良かれと思っての行動だったと思います。主に生贄をささげることは、原則的には主の目にかなうことでした。しかしそれは真心からなされるべきことです。そして何よりも儀式的な行為が求められるのではなく、主の命じられたとおりに、そのことばに従うことが求められるわけです。「聖絶せよ」という命令にサウルは背き、従わなかった。その結果として、その報いを受けました。

これは、私たちの信仰においても、大きな教訓となります。

『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』

私たちが、みことばにより命じられていることを実践する中で、それらが霊とまことをもってなされているかどうかを主はしっかり見ておられます。形だけのものや、また主が命じられたことではない方法でそれをしたところで、主は喜ばれません。それどころか、時にはそれ相応の報いを受けます。それよりも主に聞き従うこと、主のみ声に聞き従うことを主は求めておられます。

そして二十三節には、”そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。”という表現があります。私たちクリスチャンは占いや偶像礼拝を避けます。それは「そう決められているから」や単に「駄目だから」という理由ではないはずです。それらはすべて主の教え、主の言葉、主のみ声から離れたもの、敵対するものであるから、私たちはそれらを認めず、行わず、そこから離れるべきだということをわかっているはずです。まことの神である主に背く罪、その最たるものが偶像礼拝です。