2024年カウントダウン・ワーシップ

2023年12月31(日)

 


≪上條実牧師≫

ハレルヤ!午前中の礼拝に引き続きこのように、皆さんの前に立って、二〇二四年に対してのみことばを語ることができます事を感謝します。また、特に私が仕えていますリバイバルミッションのためにも祈り下さり、心から感謝いたします。皆さまのお祈りによって支えられております事を心から感謝いたします。

二〇二三年、私に与えてくださったことは、「喜び踊れ」ということばでした。二〇一七年版の聖書を読むと

『娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。』

それも踊れという文字が躍れという字になっています。「おどれ」というのは、漢字で二つあります。

一つは、「①踊れ・・・・ダンスをすることや、人にあやつられることを指します。」そして、「②躍れ・・・・飛び上がることや心がどきどきすることを指します。」と書いてあります。この二番目の飛び上がることや心がどきどきすることを主が与えて下さると信じて過ごしてまいりました。

しかし今思うと、二〇二三年は私個人的には、家内の問題が大きく、決して「喜び躍った」とは言えない日々だったかもしれません。しかし、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが、五月八日に季節性インフルエンザと同じ「五類」に引き下げられ、多くの人がマスクを外し、社会が「正常化」して、人の動きが活発化になりました。そのためリバイバルミッションで行っている「GOTOミッション」が、全国各教会に出かけて行くことができ、福音宣教が大きく広がったことは大きな喜び躍る出来事となりました。感謝します。

しかし、まだまだ各教会に集会をお願いすることに苦労は続いております。ぜひ引き続きお祈りください。

さて二〇二四年私のために与えられたテーマは、午前中にも語らせていただきましたが「とどまるな、前進せよ」ということばです。そして二〇二四年のために与えてくださったみことば、エレミヤ書三十三章三節です。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

今日の礼拝でも話しましたが、大変な壁のような問題があっても、神に向かって、前進すること。もっと戦って祈ることが示されています。みことばは必ず成就します。壁を見て不信仰となり、とどまってしまうのではなく、「とどまるな!前進せよ」と。二〇二四年は、前進して祈る年としていただきたいと願います。今までは壁に背を向けてしまってあきらめていましたが、絶望からの希望の年になると信じて

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

このみことばを受け取りました。更に前進して祈る時、主は応え、私の知らない理解を越えた大いなる事を、見せてくださると信じます。私たちの目の前はいろいろな問題だらけでありますが、主に期待して、とにかく主に任せなさい!そして前進して祈りなさい!疲れた時は「休め」ではなくて、「さらに戦って祈る」そのような年となる様に願っています。またもう一つ、有名なみことばで第一コリント二章九節、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』

二〇二四年は、前進して祈り、今まで目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないものを、神が新城教会に与えて下さる事を信じて、前進していきましょう。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。このことを信じて二〇二四年は進んでいきたいと願います。

どんなに現状が暗くなってしまう問題も、主に期待して、神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうであると信じましょう。

そして今年は、「祈りに応えてくださる主だ。」今も生きていて、この地に現実に素晴らしいことを起こしてくださることを信じて期待します。以上です。ハレルヤ!



≪岡本信弘牧師≫

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。二〇二三年も最終日となりました。今年は聖日と重なって、少し慌ただしい一日となりましたけれども、守られていることを感謝します。
皆さんにとってこの一年はどんな年でしたか? 私はこの一年間、皆さんのお祈りに支えられて元気で過ごすことができました、とご挨拶をしようと思っていたのですが、最後の最後に風邪をひいてしまいました。一昨日熱が出て、困ったなぁと思ったのですが、半日寝て熱は下がり、ちょっと鼻声でお聞き苦しいところがあるかもしれませんが、今日はここに立つことができて感謝します。

私が二〇二三年に頂いたみことばは、第一コリント人への手紙から、『誇る者は主を誇れ』でした。主によって強くされ、主を誇れる者になりたいと走ってきましたが、なかなかそこに到達できない自分がそこにあり、あっという間に一年が過ぎてしまいました。そんな中、もう一度このみことばを思い返している時に、来年に向けてのみことばが与えられました。
それは、ローマ人への手紙十二章二節です。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

最近は、世の中がすごい勢いで変化しているように感じます。どんどんどんどんいろいろなことが変わり、追いついていけていないという現状があります。
個人的なことで何が変わったかな?と振り返ると、いくつかの変化がありました。一つは、娘家族が沖縄に移住したことです。何人もの人に「孫と別れて寂しいでしょう」と言われました。「寂しくない」と言ってもおかしいし、「寂しい」と言うのも何か違うかなと思って返事に困ります。確かに少し寂しい気はありますが、一方では、孫に時間を取られることなく、振り回されることがなくなった分、使える時間が増えてよかったともいえます。
もう一つは、十月に十三年ぶりに車を買い替えました。車は仕事に使うもの、荷物が積めればいい、くらいの感覚で、何の興味もなく過ごしてきましたが、今回購入するに当たっては、いろいろと調べました。すると、驚くべきことがいくつかありました。それは、車の価格が十三年前に比べて一・五~二倍も高くなっていることです。そして、様々な機能が向上しているということです。家族から、「次に車を買う時は自動ブレーキなどの安全装備が着いた車を買ってね」と言われていましたが、安全性は各段に向上しています。しかし、その弊害が今、ダイハツの不正問題にもかかわっているような気がします。

そんなことを思いながら、「何かが変わる」と「何かを変える」とは、どう違うのかとふと気になりました。家族が引っ越して環境が変わることは、自分の意志とは別のところで変化していくことであるので「変わる」、一方で、車を買い替えることは、自分の意志で「変える」ことであり、意思の問題なのだと気づきました。
今年、家族が天に召されたり、思わぬ病気に見舞われたりして、環境の変化を余儀なくされた方がいるかもしれませんし、進学や就職や結婚、引っ越しなど、自分の意志で環境を変えた方もいるでしょう。あるいは、自分自身を変えるための行動を起こした人もいるでしょう。
人は、節目節目に人生を振り返り、自分を変えたい、再出発したい、と考えるものです。特に新しい年を迎えるに当たって一年を反省し、新しい目標を立てたりして「頑張ろう」と変革を求めます。しかし、現実は、簡単にはうまくいかないものです。

さて、お読みしたみことばから、特に二つの言葉を取り上げたいと思います。
一つは、最初にある、『この世と調子を合わせては、いけません』。もう一つは、最後の、『心の一新によって自分を変えなさい』です。パウロはこの短い一節の中で、ローマの人々に二つのことを命令系で語っています。
今の世の中は、私たちが望むと望まざるとにかかわらず、スマホやネットから常に影響を受けています。そのような中で、この世と調子を合わせないことが難しい時代になっていると感じます。私自身もその影響の大きさを覚え、このみことばを実行することは容易なことではないと思わされています。

さて、このみことばの訳を調べていて分かったことがいくつかありました。ある参考書に原語のギリシャ語(私はギリシャ語がまったく分かりませんが…)でこの箇所を見ると、「『この世と調子を合わせてはいけません』は直訳すると『この世と調子を合わせさせられてはいけません』です」と説明されていました。「合わさせられてはいけません」…。言い回しが難しく、余計に分かりにくい感じもします。

また『心の一心によって、自分を変えなさい』は、「『心の中の思いを変えさせるようにしなさい』が直訳では一番正しいのではないかと思う」とありました。「確かに」と腑に落ちて、これは完全なる命令形とは違うのだということを教えられました。

このことを踏まえると、クリスチャンになった私たちは、神さまから霊的な影響を受けていますが同時にこの世の影響も受けており、その両方が私たちに働きかけていて、そのどちらの影響に傾くか、影響されるのかということによって、今後の行動が変わってくるということではないかと思います。
クリスチャンになったからといって、私たちは一〇〇%、この世の影響を受けないということではありません。それは無人島にでも行かない限り、不可能に近いことだと思います。
皆さんは日々の生活の中で、神さまの恵み、霊的な影響を何%受けているだろうか、と考えたことがありますか。
私もそんなに考えたことはなかったのですが、もし「霊的な影響を半分くらいは受けているかな」と自分で思ったとしたら、実際に、半分は世の中の影響を受けていることになります。そうすると、ある時には、霊的なしっかりとした神さまの判断をすることができるし、ある時は世の中の影響を受けてしまう。だから、世の中的な判断をしてしまうということがあるわけです。
クリスチャンの皆さんは、誰もが自分で「この世と調子を合わせたい」と思ってはいないと思います。ある人は「この世と調子を合わせてはいない」と思っているかもしれません。しかし結果的に影響を受けてしまい、流されてしまっていることがあるのではないでしょうか。実際、この世は私たちに常に大きな影響を与えているし、今も与え続けていると言えます。

最初のみことばに戻りますが、ここでパウロは何を言いたかったのでしょう。私なりに解釈しますと、「この世が私たちに対して影響を与えようとしてくる時、その影響を許してはならない。それに屈してはならない。むしろ霊的な影響に自分を委ねて、心の一新によって自分が変えられていくことに、心を向けなさい」となると思います。このことを実行するために私たちが優先すべきことは何でしょうか。
このみことばの中にある『神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る』ということです。
今、神さまは私たちに何を考えておられるのか、何を望んでおられるのか。また、私が神さまの為にできることは何か、ということを日々考え行動する時に、私たちの心の領域が五〇%から七〇%、九〇%と、神さまの思いで満たされていくのです。その領域が心の中で広がっていくということが、すごく重要なことではないかなと思います。

次にどうしていくのがいいのでしょうか。
コロサイ人への手紙三章十五節にあります。

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』

ここに『キリストの平和が、あなたがたの心を支配する』とあります。この「支配する」という言葉を聞くと、何かに束縛されるというようなイメージで、皆さんの中ではあまり良い印象はないかもしれませんが、私たちの信じている神さまは、明日のことを知っておられ、あなたのことを誰よりも愛しておられる方です。その方が支配してくださるならば、私たちは本当の喜び、祝福、恵みで満たされ、感謝の心を持つに至るわけです。