2022年12月11(日)新城教会牧師 上條実

ルカの福音書 2章8-11節
『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

マタイの福音書 13章44節
『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』

ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。また皆さんの前に立たせていただいて、みことばをともに学ぶことができますことを心から感謝します。今日も主がここにおられ、主が皆さんの心にみことばを語って下さることと信じます。
早いもので今日はもう十二月十一日となります。あと二週間でクリスマス、そして三週間後には二〇二三年という時期に来ました。今年もここまで主が勝利を与えてくださったことを心から感謝いたします。

まず、いつもお祈りして頂いております滝元享子先生のご報告をさせていただきます。昨日、滝元順先生からお電話を頂きました。そしてお祈りしていただいております皆さんに報告するように伝言を頂きましたので、お伝えしたいと思います。先週のメッセージでも鈴木陽介副牧師から説明がありましたが、この九月、十月あたりから再発して、厳しい状態になっておられます。本来は病院にて治療を行うのですが、本人のご希望により自宅で闘病されています。先週の報告にもありましたように、二十四時間痛みが続き、食べる事もほとんどできず、吐き気もあるという大変な状況にあるそうです。現在は痛み止めを服用して、「すべて主のみ手にゆだねて過ごしています」ということでした。特別、享子先生のためにお祈り下さい。
滝元順先生は現在、享子先生の看病をされています。比べることはできないかも知れませんが、私も家内の介護をしておりますので、看病しておられる滝元順先生の大変さが痛いほど分かります。精神的にとてもつらい気持ちでお過ごしであろうかと思います。またともに看病しておられる娘さんや、ご家族のため覚えてお祈りいただきたいと思います。
ヨハネの十二章二十七・二十八節、

『今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」』

このみことばは滝元順牧師が、十月にメッセージを語ってくださいました。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」』というみことばを信じて進んでいらっしゃいますので、是非とも皆さん信仰を持ってお祈りで支えていただければ幸いです。皆さんも様々なことを、主から示されていると思いますが、どこどこへ行って祈らなければいけないと教えられましたら、是非出かけて行ってお祈りくだされば幸いです。断食の連鎖祈祷してくださっている事にも心から感謝します。皆さんのためにもお祈りしておりますとのことでした。

教会はクリスマス集会に突入いたしました。昨日は第一弾として「子どもクリスマス」がありました。今はコロナ渦で、学校の前に行ってチラシ配布をする事ができません。ある子ども園から、子どもたちがチラシを持って来て直接お友達に渡すことも今年はやめてください、という通達がありました。子どもたちはがっかりしておりました。なかなか宣伝できない中でした。しかし子どもたちが一週間、夕方五時にこの会堂に集まって、子どもクリスマスに多くの方が集い、祝福されるように真剣に祈祷会を開いて祈ってくれました。その祈りの答えとして素晴らしい集会を持つことができました。昨日の写真がありますので、ご覧下さい。
 こんなに集まりました。不思議ですけど、どこから集まったのか、二百七十名の子どもたち、またその保護者の方々が集まってくださいました。

 子どもたちが賛美したり、演奏したり、また恒例のダイジョバンの劇があり、また私もメッセージさせて頂きました。メッセージの最後にみんなで祈ろう!と言って、「イエスさま!」と言いますと、後についてみんな大声で、「イエスさま!あなたを信じます!クリスマスに生まれたイエスさま、あなたを信じます!」と、何回も信仰告白して下さいました。
主は必ずこの告白を受け取ってくださったと信じます。皆さんがお祈り下さり、またご奉仕下さり、心から感謝します。主が二百七十名も集めて下さり感謝します。教会には大変なことがありますが、祈りの中で、確かに主が霊的な扉を開いて下さっていると感じました。子どもたちの祈りに主が答えて下さった事を、心から感謝します。

また私の家内のために、いつもお祈り下さり、心から感謝します。なんとか今家で過ごすことができております。この二年近く、入院することなく守られております。パーキンソンという病気ですが、力が少しずつ出なくなって来ます。毎月病院に連れて行くのですが、その病院は毎回通っている科が、建物の一番奥まったところにあります。結構長い距離を歩かなければいけなくて、家内も途中でへたってしまって、以前は歩けなくて、車椅子に乗せて行った時もありましたが、この二年ぐらいは、ずっと自分の足でしっかり歩くことができ、診察を受けることができています事を心から感謝しております。
しかし家では様々な時があります。夜の睡眠も何回か起きる時があります。家内の声で私は起きるようにしていますが、しかし眠たくて寝入ってしまう時もあります。そんなときは気づかないので、ナースコールではないですけど、今無線でチャイムが鳴るようなものがネットで売っておりましたので、それを付けております。私が起きないと家内はそのチャイムを鳴らして私を起こします。しかし眠り込んでいるときチャイムがなると、とても驚いてしまいます。特に疲れていて、眠り込んでいるときに起こされると、やっぱり自分は弱い者ですので、正直怒りが出てしまうのです。なんでこんな時に起こすよ…と思いつつ、ベッドから起こしてあげて、トイレに連れて行き、また寝かしてあげるのです。時々パーキンソンでふらふらして歩いていると、「もっと早く歩いてよ。」とか、引っ張ったりしてしまいます。すると家内に時々言われるのです。「なんでこんなにいじめるの?」とか「もっと優しくやってよ。」と。私はその時は「うるさい」とか怒りが湧き出て、怒ってしまうことがありました。そんな状況で寝かした後、よく「しまった…。」と後悔の時、悔い改めの時を持つときがあります。そんなときマルコ十二章三十三節にあるみことばが私の心に響いてきました。

『また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」』

一番の隣人である家内に対して、愛のない自分です。辛くあたってしまい、自分任せに引っ張ったり、怒ってしまいます。「あなた自身のように愛することは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」いつもそのみことばが思いだされて、神さまに申し訳ない、この隣人に愛することができない自分がいることを悔い改め、本当に情けなくなってしまいます。苦しんでいるのは自分じゃない、家内なんだと思うと辛いのです。なんで優しくできないのかと情けなくてしまいます。
いくら「主を愛しています」と宣言したり、偉そうにメッセージをして、「悔い改めなさい」と語ったり、また「これだけ献金しましたよ」とか、「奉仕しましたよ」とか語っています。しかしいくらそんなことを語っても「あなた自身のように愛するとはどんな全焼のいけにえや備えものよりもずっと優れています。」というみことばから、「おまえは隣人を愛していると言えるか?」「どんなに奉仕やメッセージしても何にもならない」と、反省、悔い改めさせられます。私に愛が与えられるようにお祈り下さい。

ではみことばを学んでいきたいと思います。ルカの福音書二章八節から十二節と、そしてマタイの福音書から読みましたが、クリスマスのみことばをもう一度読んでみたいと思います。二章八節から十二節をお読みします。

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」』

今回このみことばをゆっくりと読み考えてみました。ここに羊飼いが野宿で夜番して、羊の番をしていたとあります。今回なぜこの羊飼いにイエスさまが生まれたことを、いの一番に知らせたのだろうかということに目が留まりました。
なぜ羊飼いが選ばれたのか?王様や権力者や金持ちや能力を持った人に、現れたのではなくて、なぜ羊飼いに現れたのだろうかと思いました。なぜでしょうか?そこには大きな意味があります。羊飼いはその当時の人たちにとって一番下の人たち、見下された、さげすまれた人たちの代表だったそうです。同じ部類の人たちは、聖書の中では売国者と言われる取税人だとか、遊女、自分の体を売る女性たち、そういう人たちでした。同じレベルの人が羊飼いです。
そんな羊飼いたちが、なぜイエスさまの誕生を一番に知ることができたのでしょう。羊飼いは、決してお金を持っていたわけではありません。「野宿していた」とありますように、裕福ではありませんでした。そして知恵もない人たちだったそうです。教育を受けることができず、字も読めなかったのではないかと考えられます。また羊飼いは、聖書のことばを聞く機会もほとんどない人々であったみたいです。羊の番をしなければいけないので、会堂に集うこともできず、宗教的知識のない人たちでした。また一般的に見て、地位のない、お金のない、知恵のない人たちだと、見下げられた人たちでありました。社会の最下層の人々として見下げられ、さげすまれる存在の代表でした。資料によると、羊飼いは、何か事件を目撃しても、裁判で証人に立つことができない、社会人としての立場を認められない人たちだったそうです。しかしなぜ羊飼いが選ばれたというとのは、大きな意味がありました。それは、ルカ2章8節?11節

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』と天の使いが羊飼いたちに語ってくれたのです。特にこのみことばの中で、『あなたがたのために、』と、天の使いが羊飼いに語ってくれています。羊飼いというのは、どん底の苦しい毎日の中で、暮らすのがやっとという人々。そのような羊飼いの所に現れて、『あなたがたのために』生まれたんだ!王の王であり、主が生まれたんだ!とイエスさまの誕生を知らせてくださったのです。高い地位の人のための救い主ではなく、お金を持っている人の救い主ではなく、地位もお金も、知恵もない人、すべての人々のために、社会の最下層の人々として見下げられ、底辺の人、それも夜中。一番暗い時に、最高の救い主を知らせるために、羊飼いを選んで知らせて下さったのです。